ベンヴェヌート・チェリーニ 訳注

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主な登場人物

ベンヴェヌート・チェリーニ
トスカナ地方の有力都市フィレンツェの生まれの彫金師。ローマ法王から『ペルセウス像』の制作を受注し、彫刻家としても名を成そうとしている。テレーザを愛している。

ジャコモ・バルドゥッチ
ローマ法王庁の財務官。娘テレーザをフィエラモスカの妻とすることを望んでいる。チェリーニには反感を抱いている。

テレーザ
バルドゥッチの娘。チェリーニを愛している。

フィエラモスカ
ローマ法王のお抱え彫刻家。チェリーニのライヴァル。

アスカニオ
チェリーニの弟子の少年。

フランチェスコ、ベルナルディーノ
チェリーニの工房の職人たち。

ポンペオ
フィエラモスカの仲間。剣客。

ローマ法王クレメンス7世
チェリーニに『ペルセウス像』の制作を発注し、その完成を心待ちにしている。

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物語の概要

盛期ルネサンスのローマを舞台に、ある年(1532年)の謝肉祭の最後の2日間(「ランディ・グラ」[直訳「脂の月曜日」。「肉食が許される月曜日」の意。]及び「マルディ・グラ」[同「脂の火曜日」])とこれに続く「灰の水曜日」[キリストの荒野での40日間の断食を想起するキリスト教徒の悔い改めの期間〜四旬節〜の初日]の、3日間の出来事が描かれる。
全2幕4景からなり、第1幕第1景がランディ・グラ、同第2景がマルディ・グラ、第2幕第3景及び同第4景が灰の水曜日の出来事を扱う。

物語は、概ね次のとおり進行する。

第1幕
謝肉祭最終日にローマのコロンナ広場で行われる新作芝居の上演に向け、登場人物らにより、3つの計略が練られる。
それらは、①チェリーニとテレーザの駆け落ちの計画(第1景前半、バルドゥッチの住居で合意される。フィエラモスカは、これを盗み聞くが、その後、散々な目にあう〜第1景フィナーレ。)、②チェリーニとその弟子、職人たちによる、吝嗇なバルドゥッチへの意趣返しの計画(第2景前半、コロンナ広場の居酒屋で計画される。)、③ポンペオ、フィエラモスカによる、チェリーニの駆け落ちの計画の裏をかいたテレーザ奪取の計画(同。コロンナ広場の往来で合議される。この結果、フィエラモスカは有頂天になり、彼のアリアを歌う。)である。
時が満ち(第2景後半)、コロンナ広場が仮面、仮装の人々で埋まり、女性たち・少年たちがサルタレロを踊り、パントマイムの芝居が上演され、ロウソク(モコロ)の吹き消し合いが始まるなど、謝肉祭の興奮が最高潮に達するなか、計略が錯綜し、チェリーニによるポンペオの殺害という、予想外の出来事が出来する。人々が驚き慌てるなか、サンタンジェロ要塞の大砲が謝肉祭の終わりを告げ、混沌のうちに幕が下りる(フィエラモスカは、ここでも散々な目にあう)。

第2幕
灰の水曜日、テレーザとアスカニオが待つチェリーニの工房に、追捕を逃れたチェリーニが帰ってくる(第3景)。彼らがフィレンツェに逃れる支度をしていると、テレーザの行方を追うバルドッチがフィエラモスカを伴って現れ、チェリーニと押し問答になる。そこに突然、随員を従えた法王クレメンス7世が姿を現す。心待ちにしているペルセウス像の仕上がりを確認するためだった。チェリーニを問い詰め、作業が進捗していないことを知った法王は、大いに業を煮やす。緊張をはらみつつも、どこかユーモラスな両者のやり取りを経て、チェリーニは、その日の晩までに鋳造を成し遂げれば罪の赦しとテレーザを得るとの約束を、法王から取りつける。が、その一方、事が成らなかった場合は、絞首される旨、申し渡されてしまう。
午後4時、古代ローマの巨大な円形闘技場(コロッセオ)に設けられたチェリーニの鋳造施設(第4景)。退路を断たれたチェリーニをフィエラモスカが訪れ、作業を遅らせることを狙った計略を仕掛ける。他方、バルドゥッチは、娘がチェリーニのものにならぬよう、彼女をローマから遠ざけることを画策するが、この動きを察知したテレーザは、父親の許を離れ、チェリーニのアトリエに駆け込む。これらのことが起きるなか、チェリーニの職工たちが罷業の動きを示す。危機が幾重にも重なるなか、刻限が迫る。チェリーニは、フィエラモスカの計略を逆手にとって彼をペルセウス像の鋳造チームに引き入れ、反転攻勢に出る・・・

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ローマの謝肉祭
[第1景冒頭の注]

この作品が書かれた頃のローマでは、謝肉祭の期間中、市の中心部、北のポポロ広場と南のヴェネツィア宮殿を結ぶコルソ通り(第2景の舞台であるコロンナ広場は、その中央付近にある。)の沿道一帯を、仮面・仮装の人々が馬車や徒歩で闊歩し、石膏つぶて(コンフェティ)や花束を投げ合ったり、最終日マルディ・グラの夕刻にはそれぞれが手に持つ小ロウソク(モコロ、モコリ[=モコロの複数形])を吹き消し合うなど、内外人の別、出身地域、社会階層の違いを超えた、一種の無礼講の状況が現出していた。

その詳細を伝える文献として、まず挙げられるのは、ゲーテの『イタリア紀行』中の記事である。1788年のローマの謝肉祭に関するもので、ベルリオーズがローマに滞在した時期(1831〜2年)とは45年近い開きがあるが、ゲーテが自ら観察した事項と現地の知識人たちとの交流を通じて得た情報とを素材に書かれたとみられるこの記事の信頼性は、非常に高い。(邦訳:岩波文庫『イタリア紀行(下)』(相良守峯訳))

同じ事柄について、ベルリオーズの時代に書かれた文章としては、まず、作曲家本人の『回想録』36章の記事(「謝肉祭のこと」)が挙げられる((ベルリオーズのローマ滞在は、1831年3月から翌年5月まで。なお、この記事の初出は、1836年2月21日、パリ「ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル」誌、『ローマとパリの謝肉祭』)。これを読むと、彼自身は、この祭りに、いささかも心を惹かれなかったことが分かる。(そもそも、下記「サルタレロを踊る人々とローマの民衆」の項に示すように、彼にとっては、強いられたローマ滞在そのものが、どうすることもできない鬱ぎ・不機嫌の原因でしかなかったのである。また、特に、この祭りに伴う「人身御供」(公開処刑)の慣わしに激しい嫌悪を示し、痛烈に批判しているが、これについては、次項、「深き淵より」参照)。

次に、1844年8月から46年1月にかけ、パリの『ジュルナル・デ・デバ』紙に連載されたアレクサンドル・デュマの小説、『モンテ・クリスト伯』の記述が詳細で、参考になる(邦訳:岩波文庫『モンテ・クリスト伯(三)』山内義雄訳)。この小説は、そのローマの謝肉祭に関する記述(35、36章)を、1838年のことと設定している。その内容は、一部はゲーテの『イタリア紀行』等の文献に取材しているかもしれないが、デュマは、1835年5月から12月下旬まで地中海、イタリアを旅し、40年6月から翌年3月にかけてもフィレンツェに滞在するなどしているから[辻・稲垣後掲書年譜による]、これらの旅行の際の見聞事項を含む、彼の時代のローマについての知識も、反映されているとみてよいだろう。さらに、アンデルセンが自らの1833、4年のイタリア旅行時の見聞を元に書いた小説、『即興詩人』(森鴎外訳)にも、ローマの謝肉祭の情景が描かれており、「謝肉祭(カルニワレ)」から「謝肉祭の終る日」までの5つの章に、「コンフエツチイの丸(たま)」の投げ合い、仮装の人、道化役(ブルチネルラ)、戯奴(アレツキノ)、「コルソオの競馬(くらべうま)」、「謝肉祭の大詰なる燭火(モツコロ)」等についての記述がみられる。

以上の文献とゲーテの記事を比較すると、多くの一致点がみられるから、ローマの謝肉祭の習俗は、ベルリオーズの時代においても、ゲーテが見聞したものから、それほど大きくは変わっていなかったとみてよいと思われる。

このほか、E. T. A.ホフマンの小説、『ブランビラ王女』(1821年。邦訳:ちくま文庫、1987年、種村李弘訳、光文社古典新訳文庫、2015年、大島かおり訳)も、ローマの謝肉祭の模様を生き生きと描いている。ただ、ホフマン自身はイタリアを旅したことがなく、この作品は、ゲーテの『イタリア紀行』等の文献に取材して書かれたものと考えられている。

(参照文献)
本記事の作成には、本文中に記載したもののほか、次の文献を参照した。
アレクサンドル・デュマ、大矢タカヤス訳、『モンテ=クリスト伯爵』、オペラオムニア叢書、新井書院、2012年
辻昶、稲垣直樹『アレクサンドル=デュマ』清水書院、1996年
アンデルセン『即興詩人』森鴎外訳、川口朗校訂、岩波文庫(全2巻)

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「深き淵より」
第1景第2(5)

この歌の旋律は、ベルリオーズがレオン・ド・ヴァイイ(台本の作者の一人)のテクストに作曲した歌曲、『シャンソネット( Chansonette )』(1835年。全集CD8(16)。)のそれが転用されたものである。

新たに付された詩の冒頭の「デ・プロフンディス(深き淵より)」は、ラテン語訳聖書詩篇129(新共同訳130)の言葉。この詩篇は、一般に、死者への祈りとして唱えられるという(出所:小学館ロベール仏和大辞典)。

死者の弔いを内容とするこの詩は、ベルリオーズが『回想録』36章(「謝肉祭のこと」)で憤りを込めて語っている、ローマの謝肉祭の「人身御供( victime humaine )」(公開処刑のこと)の習慣に、婉曲な表現で抗議したものではないかと思われる。「謝肉祭の司祭は、今宵葬る、彼の息子の一人を!」との歌詞の、「謝肉祭の司祭」の表現は、遠回しにローマ法王を指しているように感じられ、また、「泣いてはならぬ!乾杯するのだ、ランディ・グラの心に!」との歌詞の「ランディ・グラの心」との言葉にも、「心(âme)」の語には「指導者、中心人物」の意味もある(小学館ロベール仏和大辞典)ことからすると、「ローマ法王に乾杯!」との含みであるように感じられるからである。もしそうなら、これらの婉曲表現は、一定の役割を果たしたと言えるかもしれない。このオペラにローマ法王を登場させることについては、初演の直前、検閲で問題視され、その結果、サルヴィアーティ枢機卿への差し替えを余儀なくされたのであるが、この歌は、無傷で残ることができたからである。

なお、ベルリオーズの時代にローマで行われていた公開処刑については、アレクサンドル・デュマの小説、『モンテ・クリスト伯』に、詳しく描写されている。(邦訳:岩波文庫『モンテ・クリスト伯(二)、(三)』山内義雄訳、34、35章)

また、『回想録』(36章)でベルリオーズが指摘するとおり、この時代(、さらに、実在のチェリーニの時代においても)、ローマ法王は、ローマ・カトリック教会の教権の長であるとともに、ローマを含む中部イタリアに広い版図を有する世俗国家(「教皇領国家」)の君主でもあった。すなわち、刑の執行を含む域内の治安維持の最高責任者でもあった、ということである。

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「からかいの鈴」
第1景第4(27)

この言葉の意味については、ゲーテ『イタリア紀行』の記事が参考となる(岩波文庫『イタリア紀行(下)』相良守峯訳「ローマの謝肉祭」p.193、同訳注)。

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「バッカスの巫女たちの餌食になるオルフェウス」
第1景第6(215)

バッカスはギリシャ神話の酒の神。ローマ神話ではディオニソスと呼ばれる。その祭儀は激しい陶酔状態を伴うという。オルフェウスは、ギリシャ神話に登場する楽人、詩人。世を去り冥界にある妻を慕うあまり、全ての女性の求愛を退けたため、トラキアの女たちに恨まれて八つ裂きにされ、ヘブロス川に投げ捨てられたという。[出所:小学館「日本大百科全書」、同「小学館ロベール仏和大辞典」]

ベルリオーズは、1827年のローマ賞選抜の課題とされた『オルフェウスの死』のテクストが喚起するイメージに、強く心を捉えられたようである。
『回想録』14章の記事を見よう。
「学士院のコンクールの時期が来て、私は再びエントリーした。今回は予選を通過することができた。本選では、『バッカスの巫女たちに八つ裂きにされるオルフェウス』を題材としたフル・オーケストラ伴奏のオペラの一場面に音楽を付するとの課題が与えられた。私の提出作品は、その最終楽章に、いくらか見どころがあったと思う。ところが、私のスコアの伴奏、より正確に言えばピアノによるオーケストラ伴奏の代行を務めた凡庸なピアニストが[略]、この作品の『バッカナル』を弾きこなせなかったことから、これをみた学士院の音楽部会[略]が、この作品を「演奏不能」と判定し、私をコンクールから外してしまった」
次に、19章に次の記事がある。
「『オルフェウスの死』のフィナーレは、[ベルリオーズが1828年5月に開いた彼の最初の演奏会で]それよりもさらに良い効果を上げた。私はこの作品で、試験の課題として求められてはいなかったが、詩の言葉に触発されたことにより、バッカナルの後、木管楽器に、オルフェウスの愛の賛歌の主題を回想させた。残りのオーケストラは、それを、オルフェウスの蒼ざめた首を運ぶヘブルス川の水音のような、かすかな音で伴奏する。その間、消えゆく小さな声が、川の堤にこだまされながら、長い間を置いて、「エウリュディケ、エウリュディケ、可哀そうなエウリュディケ」という悲しげな叫びを発するのである。
私は、ウェルギリウスの『農耕詩』の次の見事な詩行を念頭に置いていた。[略]
この奇妙な悲しみにあふれた音の絵画は、[略]オーケストラの全員を身震いさせ、曲の終わりには、嵐のような歓呼を彼らから引き出した。私はこのカンタータのスコアを廃棄してしまったことを悔やんでいる。この結末の部分の仕上がりからも、この作品は、残すべきであった。だが、この作品の他の部分の演奏は、オーケストラが賞賛に値する活気をもって演奏した『バッカナル』(原注1)を除き、それほどうまくいかなかった。[略]
原注1/学士院のピアニストがしくじり続けた、まさにその楽曲。」

これらの記事を読むと、この作品(ローマ賞コンクール提出作品、『オルフェウスの死』)の出来栄えに、ベルリオーズがかなり満足していたことが分かる。そして、彼が廃棄したと語っているこの作品のスコアは、友人のアンベール・フェランがベルリオーズから贈られたコビーを保存したことにより、今日に伝えられている[全集CD7]。上の文章で「最終楽章」、「フィナーレ」と呼ばれている楽章[同(5)]は、後の作品、『レリオ、又は生への帰還』(1832年初演[全集CD3,4])の『エオリアン・ハープ〜追憶』[同3(4)]に用いられたが、オルフェウスがバッカスの巫女たちに襲われる場面を描いた楽章、『バッカナル』[同7(4)]は、その女声合唱の登場以後の音楽が、『ベンヴェヌート・チェリーニ』の上記の台詞が語られる場面の音楽[全集CD18(12-3)。第1景第6「フィナーレ」(206-27)]と、旋律は異なるものの、非常に近い雰囲気を持っている。

以上のことから、この台詞は、ベルリオーズの提案である可能性が高いと思われる。また、さらに言えば、この景のフィナーレの「近隣の女性たちに散々な目に遭わされるフィエラモスカ」というコンセプト自体、ベルリオーズの発案だった可能性がある。

本記事の参照文献:本文中に掲記のもののほか、新ベルリオーズ全集第6巻『ローマ賞提出作品』(デイヴィッド・ギルバート校訂)「序言」

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「最後の審判のトランペット」
第2景第8(19)

最後の審判のトランペットのイメージは、1824年の『荘厳ミサ曲』の作曲以来、ベルリオーズの心を強く捉え続けていた。(当館記事「『レスルレクシト』から『トゥーバ・ミルム』へ」参照)。この場面の会話の流れには、必ずしもこのイメージを導入する必然性まではないことと考え合わせると、この句の挿入は、ベルリオーズの希望によるものではないかと思われる。

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サルタレロを踊る人々とローマの民衆
第2景第12(79)

台本(ト書きを含む)を注意して読まなければ見過ごしてしまうが、この場面(第1幕第2景のフィナーレ、コロンナ広場で芝居の始まりが告げられる場面)では、サルタレロを踊る人々に重要な役割が与えられている。その登場は、フィナーレの冒頭を飾るバルドゥッチ、テレーザ、チェリーニ、アスカニオ、ローマの市民たちの重唱が終わり、芝居小屋の軽業師たちが客の呼び込みを始める台詞79の直前のト書きで、「シンバルとタンバリンを手にした女たち、少年たちが登場し、サルタレロを踊り始める。」と指示されている。

その後の台詞をみると、軽業師たち(男声の小コーラス)の呼び込みと入れ替わりに起きる民衆(混声の大コーラス)の「ブラヴォー!」の喝采は、軽業師たちにではなく、むしろ彼らと張り合う形で、サルタレロの踊り手たちに向けられていることが分かる。すなわち、最初のブラヴォーのト書きに「広場で踊り手たちに喝采しながら」(台詞80)とあることに始まり、民衆の言葉「陽気なタンバリンよ、響け!」、「ああ!謝肉祭は素晴らしい舞踏会」(同94)、軽業師たちの言葉「もうタンバリンはそこに置き、ご覧あれ、名物座長の名舞台!」(101)、民衆「腹立たしいおしゃべりめ、年とったトランペット吹きめ、舞台でいくらがなっても、そんな誘いに乗るものか、踊りの方が魅力的だからね!」(110)、「ああ、素晴らしい夜!リズムが我らを結び付け、楽しい時は飛ぶように去る。」(111)、軽業師たち「このいまいましい踊り手たちを、悪魔がぎゃふんと言わせてくれればよいのだが!」(112)、民衆「皆、リズムに乗っている、歌おう、踊りのテンポを上げよう!・・・さあ、皆、早く、輪舞だ、彼らを誘い入れよう!踊り跳ねよう、早く輪舞を!」(113)と進んでいき、コーラスとオーケストラがさらに大きく高揚した後、カサンドロ一座のパントマイムが開演し、そこに至って初めて、民衆は「ダンスはもういい!カサンドロの芝居が始まる!」と叫ぶ、との推移をたどる[全集CD19(2)]

そこで、ここでは、この「サルタレロを踊る人々」がこの作品に登場することの意味について、考えてみたい。

ベルリオーズが、彼に強いられたローマでの生活を楽しまず、終始不機嫌で、謝肉祭の浮かれ騒ぎにも、少しも惹かれなかったことは、「ローマの謝肉祭」の項で、すでに述べた。その一方、イタリア滞在中、このような彼の鬱ぎの「常用治療薬」、「特効薬」として機能していたのが、ローマの東方、アブルッツォ地方への気ままな旅と、周辺探訪の拠点となった山中の町、スビアコでの逗留である。以下、これらの事情を、彼の『回想録』36章37章からの抜粋で、少し詳しくみよう。

[ローマ賞受賞者として在ローマ・フランス・アカデミー(「ヴィラ・メディチ」)に滞在している]給費研究員たちは、館長の許可さえ得れば、もっと長い旅に出て、不定の期間、ローマを留守にすることもできた。制約といえば、教皇領の外に出ないことだけだったから、その範囲内であれば、滞在中、イタリアのどこへ行ってもよかった。」(36章)

「私は、研究員たちが享受していたこうした自由を利用して、向こう見ずな探検を好む、自分の生来の傾向に身を任せた。ローマでの気の鬱ぎに生気を奪われてしまったときは、アブルッツォ地方に出掛けて、危機をやり過ごしていたのである。それがなかったら、この単調な生活をどう乗り切ることができたか、見当がつかない。それというのも、私には、よく分かっていたからである。ヴィラ・メディチでの芸術家たちの陽気な付き合いも、アカデミーや大使館での華麗な舞踏会も、カフェでの気のおけない集まりも、私に、自分が文明の中心、パリからここに来ているという事実を忘れさせることは、ほとんどできないということ、そして、パリを離れたことで、自分が音楽からも、劇場からも[略]、文学からも[略]、騒擾等時局の問題からも、つまり、私にとって生きることを意味したすべてのものから、一挙に隔絶されてしまった、ということを。」(同)

「さらに、次の事情をそれに加えれば、読者は、私を苛んだ鬱ぎがいかに激しいものだったか、想像がつくだろう。どうにも耐えがたい、シロッコの作用。私の芸術である音楽がもたらす歓びへの、切実で、絶えず蘇ってくる欲求。苦痛に満ちた思い出。2年もの長い間、音楽界から隔絶されることの惨めさ。そして、なぜかアカデミーでは、まったく仕事[作曲]ができなかったこと[略][同。なお、ここに記された「苦痛に満ちた思い出」とは、カミーユ・モークとの恋愛の喪失を指している。イタリア入りして程ない時期に起きたこの出来事の衝撃はきわめて大きく、その後の滞在期間を通じ、ベルリオーズの心に一種の虚無、真空をもたらしたと考えられる。]

「ローマ滞在は、まったく耐えがたいものになっていた。かくて、私は、フランスへの帰国を許される時を待つ一方、あらゆる機会を捉えてこの街を離れ、山国[アブルッツォ地方のこと]に逃避するようになった。
イタリアのその地域は、風景画家しか訪れない場所であるが、私はその頃、地域内遠征の拠点として、スビアコにしばしば赴いた。スビアコは、ティヴォリから数リューの距離にある、教皇領内の大きな町である。
スビアコへの旅行は、私にとって、気の鬱ぎ(スプリヌ)の常用治療薬であり、命を取り戻させてくれる効果が感じられる、特効薬だった。旅の装備は、亜麻布の粗末な上着と麦わら帽子だけで、財布の中身も、せいぜい6ピアストルだった。そうして私は、猟銃か、さもなければギターを携え、狩猟をするか、歌うかしながら、泊まる場所のことを気にせず、旅をした。[略]このようなことをしつつ、私は、真の自由がもたらす至福の境地を、ゆっくりと味わっていた。」(37章)

「いま再びパリの喧騒に身を置きながら、私は、何と生き生きと鮮明に、あの頃あてなく歩きまわったアブルッツォ地方の未開の田舎を思い出すことか。風変わりな村々。人口はまばらで、住民たちは、ひどく粗末な身なりと、疑い深い目つきをしている。[略]風変わりな景色の数々。その神秘的な静けさは、どれほど強烈な印象を私に与えたことか!忘れ去っていた様々な印象が一度に蘇(よみがえ)ってくる。スビアコ、アラトリ、チヴィテッラ、イゾラ・ディ・ソラ、サン・ジェルマーノ、アルチェといった村々。」(同)

「火薬や葉巻を我々に届けてくれていた、半ば山賊、半ば新兵といった趣の、無頼の若者、クリスピーノは、今も私の目に浮かぶ。[略]弾けるように笑う、褐色の肌、黒い髪の、背の高い娘たちが、踊りの伴奏をせがんでくる。「 questo signore qui suona la chitarra francese(フランスのギターを弾くお客さん)」の忍耐力と痛くなった指を遠慮なく当てにして、幾度となく。いつものタンバリンが、私が即興で弾くサルタレロを伴奏する。憲兵たちが、この宿屋の舞踏会に、強引に加わろうとする。フランス人とアブルッツォ人の踊り手たちは、大いに憤慨する。フラシュロン[ベルリオーズの友人のリヨン出身の画家]、並外れた拳骨をふるう。「法王の兵士たち」は、不面目にも、追い払われる。」(同。この二つは、いずれも、スビアコの思い出。)

さて、これで、「タンバリン」、「サルタレロ」、「舞踏会」という、オペラのこの場面の台本のキイ・ワードが出揃った。この場面がベルリオーズのスビアコの思い出に根ざしている可能性があることが、見てとれよう。

スビアコの彼の常宿での即興の舞踏会については、彼の当時の手紙にも、詳しく語られている。その箇所の抜粋をみよう。

スビアコ発、1831年7月10日、家族宛
「昨日の夕方、宿の子どもたちが、近所の小さな女の子のタンバリンに合わせて、サルタレロを踊っていたので、見にいくと、いちばん年かさの12歳の女の子が、甘えた様子で、こう話しかけてきました。「 Signore, oh ! signore; pigliate la chitarra francese.[イタリア語。「お客さん、お客さん!フランスのギターを弾いてください。」]」僕は、キターラ・フランチェーゼ[同。「フランスのギター」。]を手に取り、バーロ[同。「ダンス、舞踏会」。]は再び、いっそう賑やかに、始められました。僕らの音楽を聴き、画家諸氏も、踊りに加わりました。田舎の小さな女の子たちは、みな大喜びして、魅力的な無頓着さで、踊り続けます。そして、その間、近所の女の子は、タンバリンを振り続け、僕は、キターラ・フランチェーゼを、指も擦りむけよとばかりにかき鳴らし、即興のサルタレロを演奏し続けたのでした!」

ローマ発、1831年9月17日、友人フェルディナント・ヒラー宛
「貴君は今も、ブーローニュの森を避難先にしているのだろうか?僕も、スビアコの隠れ家に、舞い戻ろうとしている。森の中や岩場を歩き、善良な農民たちと出会い、昼は急流の傍(はた)で眠り、夜は宿の酒場で常連の男女とサルタレロを踊るといった、気ままな暮らしほど、僕の好みに合うものはない。僕は、彼らをギターで大いに喜ばせている。彼らは、僕が来るまで、タンバリンの伴奏だけで踊っていたので、この旋律楽器に、すっかり心を奪われてしまっているのだ。今またその地を訪ねようとしているのは、ここローマで、僕に死ぬほど辛い思いをさせている、鬱ぎから逃れるためだ。」

以上のことからは、オペラのこの場面は、ベルリオーズが、自身のスビアコでの思い出を刻印しようとしたものであるように感じられる。そして、この場面でサルタレロの踊り手たちに一貫して喝采を送り続けるローマの民衆は、すでにこの時点で、いわば彼の分身のような存在になっていることが分かる。そして、彼らはその後、これに続くカサンドロ一座のパントマイムの場面においても、アルルカンの小アリアとピエロのカヴァティナの違いを自ら聴き分け、ベルリオーズの美意識を代弁するのである。

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黙劇『ミダス王、又はロバの耳』
第2景第12(136)

この劇中劇は、オペラ全体の中で、ベルリオーズの価値観と美意識を最も色濃く反映している箇所である(詳細は、当館記事「アルルカンとピエロの歌の意味、オペラが伝えるメッセージ」の結びの部分を参照)。
このことから、この場面は、コンセプトそのものがベルリオーズの発案であった可能性があると考えられる。また、そうだとすれば、この場面は、E.T.A.ホフマンの小説『シニョール・フォルミカ』のポルタ・デル・ポポロの門外の劇場での芝居の場面のほか、マクドナルド(6章)の指摘するとおり、ベルリオーズが賞賛してやまなかったシェースピアの『ハムレット』(3幕2場に劇中劇の場面がある)にもインスパイアされた可能性がある。

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アリア「人里離れた山国の」
第4景第25(2)

ベルリオーズ『回想録』のイタリア旅行の諸章(関係箇所は、上記「サルタレロを踊る人々」の項に抜粋して掲げた)や、この時期に彼が家族や友人たちに書き送った手紙に目を通された方であれば、都会の喧騒を嫌い、牧歌的な田舎の暮らしへの憧れを語るこの歌の歌詞に、すぐれてベルリオーズ的なものを感じ、また特に、「未開な山国の牧草地」の言葉に、彼の傷心を癒したアブルッツォの山国を想起されるのではないだろうか。この歌は、韻文のテクスト作り自体は彼の台本作者たちが担当したにせよ、核心をなす想いは、ベルリオーズのイタリア旅行に由来していると考えてよいと思われる。

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コーラス「船乗りたちは幸いだ」
4景第26(3)

この歌の旋律は、『回想録』38章に譜例が載せられている、ベルリオーズがスビアコ入りするたびにこの町の彼の若い友人、クリスピーノが歌ってくれたという、歓迎の歌のそれである。

クリスピーノについては、既に上記「サルタレロを踊る人々」の項に掲げた『回想録』抜粋で、「火薬や葉巻を我々に届けてくれていた、半ば山賊、半ば新兵といった趣の、無頼の若者」とのベルリオーズの言葉(37章)をみた。38章には、「我が友クリスピーノのこと」と題して、この若者との交流がさらに綴られている。また、同じ項で引用した1831年7月10日付の家族への手紙(スビアコ発)にも、「僕らは明日、クリスピーノという名の、若い山賊の結婚式に出ます。」等、この若者に言及した箇所がある。

台本(第4景第26(3))に戻る

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音源等

パリ版をベースとした録音、録画のうち、次の4つを推薦したい。
これらのうち、1、2a、3は、2021年1月現在、YouTube での視聴が可能である。

録音1(ジョン・ネルソン指揮)
Benvenuto Cellini, John Nelson, Orchestre National de France, Chœur de Radio France, 2004, Virgin Classics [全集CD18-20に収録]

当館対訳にほぼ適合する(詳細は対訳「説明」の「はじめに」を参照)。ベルリオーズを深く敬愛する指揮者による録音であり、申し分のない演奏である。
なお、この録音では、序曲も、通常演奏される版より約50小節長い、「パリ1」で演奏されている。

録音2(コリン・デイヴィス指揮)(新旧)
(2a) Benvenuto Cellini, Colin Davis, BBC Symphony Orchestra, Chorus of Royal Opera House, Covent Garden, recorded in 1972,
(2b) Benvenuto Cellini, Colin Davis, London Symphony Orchestra, London Symphony Chorus, LSO Live, 2008

2aは、パリ版スコア公刊前の1966年、英国コヴェント・ガーデン王立歌劇場で行われたパリ版の復活上演を基に制作された、1972年の録音。生気に溢れた、見事な演奏を聞くことができる。また、この演奏は、パリ・オペラ座ではレシタティフ(歌う台詞)でなされた会話の一部を地の会話(話す台詞)にしている点に特徴がある。これは、この作品の台本が当初、地の台詞で会話を行う作品を専門に上演していたオペラ・コミック座を想定して書かれたという歴史を持つことを考慮し、その構想に沿って仕上げられたならばこの作品の特徴となっていたであろう、軽快な展開を実現するとの意図によるものだという(出所:CD添付の冊子のケアンズによる解説)。
2bは、同じ指揮者による2007年のライブ録音(演奏会形式)。2aと同じく、この録音も会話の一部を地の台詞で行っている。演奏も素晴らしい。
なお、指揮者、コリン・デイヴィスは、1960年代、70年代にベルリオーズの作品の網羅的な録音(フィリップス・レコードの「ベルリオーズ・サイクル」シリーズ。2aはその一つ)を行うなど、20世紀後半のベルリオーズ再評価の潮流の形成に大きく貢献した人である。また、2000年から2012年にかけては、ロンドン交響楽団と一連の作品のライブ録音を行っている(2bはその一つ)。

録画(ヴァレリー・ゲルギエフ指揮)
Benvenuto Cellini (Salzburg Festival, 2007), Valery Gergiev, Vienna Philharmonic Orchestra, Vienna State Opera Chorus, Naxos DVD 2.110271(2009), Blue-Ray NBD0006 (2011)
YouTubeで全曲の視聴が可能(2021年11月現在)[検索キーワード:cellini salzburg]

2007年のザルツブルク音楽祭での舞台公演の録画。ノスタルジックな雰囲気の現代又は近未来風の演出は、観る人を驚かせるかもしれないが、懸念には及ばない。作品を貫く理想主義的なメッセージ[当館別記事「アルルカンとピエロの歌の意味、オペラが伝えるメッセージ」の結びの部分参照]は、リスペクトされている。また、この点にさえ配慮がなされているならば、最新の舞台技術、現代的なイマジネーションや連想を積極的に取り入れ、ヴィジュアルな面でも観客を楽しませようとすることは、むしろ、作者らの意に適うのではないかと思われる。結局のところ、彼らもまた、観る人、聴く人に歓びをもたらすことを第一に、この作品の物語と音楽を考え出したのだから。この作品のユートピア譚的な性格[上記別記事参照]も、本公演のようにイマジネーションの豊かな演出を受け入れる素地を提供していると考えられる。舞台上のアクションは創意に富むが、台本との矛盾、抵触は少ない(とはいえ、一部の表現を過激だと思う人はあるだろう)。既視感の漂う衣装デザインも、謝肉祭という非日常の時間・空間の雰囲気によくマッチし、優れている。登場人物のなかでは、フィエラモスカの愛すべき小物ぶりと、純真で正義感の強いアスカニオ少年が好演され、上演の成功に寄与している。ゲルギエフの指揮によるウィーン・フィルの演奏、同コーラスの舞台上での演奏、演技も、聴き応え、見応えともに十分である。
なお、YouTube上の動画には字幕がなく、DVD、ブルーレイディスクにも日本語字幕はない。また、演奏時間がネルソン版よりもかなり短いので、当館の対訳資料を同時に見る場合、省略されている部分を飛ばす必要がある。とはいえ、予め台本に目を通すなどして、おおよその劇の進行を知っておけば、字幕なしに舞台を楽しむことは十分可能だと思われる。また、字幕の表示が可能な場合、英語又はフランス語の字幕(後者の場合、同一テクストが対訳に見出される)を対訳と併用することも、一つの方法と考えられる。

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