説明 / notes:『レスルレクシト』 / Resurrexit

(目次)
1 概要
2 1824年の『荘厳ミサ曲』と『レスルレクシト』
3 『レスルレクシト』から『トゥーバ・ミルム』(1837年の『レクイエム』)へ
参照文献等

1 概要

ベルリオーズが20歳のときに書いた作品。一聴して感じられるとおり、聴く者の心を沸き立たせ、鼓舞する力を持っている。いま仮に、この力を(人の心に対する)「駆動力」という言葉で言い表すなら、この作品は、未だベートーヴェンの交響曲に出会う前に書かれたものであるにもかかわらず、駆動力の強さの点において、すでにこの偉大な先達の最高傑作の一つ、ハ短調交響曲(『運命』)の凱歌(第4楽章)のそれに迫るものを持っているといってよいであろう。

この作品の駆動力は、主として、旋律とリズム、それに声や楽器の用い方によるものと思われる。「ベルリオーズは、キリストの復活を、在来の教会風の対位法を避け、生の人声の塊[ raw choral blocks ]を(しばしばユニゾン[斉唱]で)用いて描いている」とのマクドナルド(5章)のコメントは、『荘厳ミサ曲』自筆譜が発見される前、この作品の改訂版についてなされたものであるが、初演版にも等しく有効である[二つの版の区別については後述]。この指摘のとおり、力強いコーラスは、しばしば斉唱で書かれ、優れた旋律と、塊になった人の声とが持つ、聴き手の心に訴える力をそのまま引き出すものとなっている。

聴き手を鼓舞する、歓喜に満ちた旋律を生み出す能力は、この作曲家天性のものであり、ごく早期から発揮されていたとみられる。父、ベルリオーズ医師に、「これはよい、これこそ音楽というものだ!」と叫ばせたという、少年時代の作品の旋律(『回想録』4章)が、その例である。

「最後の審判」の始まりを告げるトランペットを表す、金管楽器のファンファーレは、この作品が最後に演奏された後、さらなる規模拡大が図られ、最終的には、1837年の『死者のための大ミサ曲(レクイエム)』の『怒りの日』[第2曲。全集CD14(2)、YouTube: dies irae berlioz。の『トゥーバ・ミルム』[驚きを呼ぶトランペット〜通常、『不思議なラッパ』等と訳される]のセクション[左記CDでは05:50辺り]に結実した。

また、ファンファーレの直後に続く不安げなコーラス[下記3に見るとおり、「恐怖に憔悴した人の声」等と、ベルリオーズは、友人たちに説明している]は、1838年初演のオペラ『ベンヴェヌート・チェリーニ』第1幕で、主人公チェリーニが敵手フィエラモスカの知り合いの剣客、ポンペオと闘い、これを倒した直後、ローマの群集や居合わせた者たちが一斉に驚き、慌てる場面[全集CD19(9)]に用いられた。

さらに、作品後半の駆動力の源泉になっている、「その王国に終わりはない[ Cujus regni non erit finis. ]」の旋律は、同じく『ヴェンヴェヌート・チェリーニ』第1幕のフィナーレ[全集CD19(10)]に用いられている。

他方、この作品自体は、1825年7月(初演)から1829年11月にかけ、修正・加筆を重ねつつ、計4回演奏された後、作曲者本人によっては、再演されることも、出版されることも、作品番号を与えられることもなく終わった。

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2 1824年の『荘厳ミサ曲』と『レスルレクシト』

『レスルレクシト』は、ベルリオーズが1824年に作曲した、『荘厳ミサ曲』中の1曲である。

『荘厳ミサ曲』の作曲、演奏については、『回想録』7章8章に、詳しく語られている。また、そこには、この作品のその後の運命についても、2回目の全曲演奏[1827年]の後、「出来栄えに大いに満足していた『レスルレクシト』だけを切り離し、あとは全部、火にくべてしまった。」と記されている(8章)。そして、この言葉のとおり、この作品は、長い間、失われたと信じられていた。

ところが、20世紀も程なく終わろうという1991年になって、ベルギーのアントワープのとある教会のオルガン・ギャラリーにあった木製保管箱から、「ル・シュウールの弟子、H.ベルリオーズ」との署名が付された、この作品の完全な総譜(全14曲。総演奏時間50分余り。)が、偶然、発見された。

このニュースは、世界中の研究者、愛好家を驚かせたが、これによって甦った音楽もまた、驚くべき内容を持っていた。「行き当たりばったりに作られた、色彩面でもむらのある作品で、ル・シュウールのスタイルの、不器用な模倣にすぎなかった」(『回想録』7章)、あるいは、「この新たな実地試験[2回目の全曲演奏]の後、私は、このミサ曲の価値の乏しさに、いかなる疑いも持たぬようになった」(同8章)といった作者の言葉(が与える印象)とは裏腹に、この作品の多くの楽章が、後の作品に、非常に重要な素材を提供していたことが、明らかになったのである。[「後の作品」とは、『幻想交響曲』、『レクイエム』、『ベンヴェヌート・チェリーニ』、『テ・デウム』のこと。]

当館では、『荘厳ミサ曲』について、作者が廃棄したと明言している作品であることを考慮して、「参考展示室」で扱うこととし、差し当たり、『キリエ』、『クレド』[4つに分けて作曲されている]の計5曲の対訳を展示した。『キリエ』は、ベルリオーズの手紙で複数回言及されており、自信作のひとつであったとみられる。『クレド』は、キリスト教徒の信仰の内容を要約したミサの通常文[ ordinary=「毎日のミサで繰り返される不変の部分」〜小学館ランダムハウス英和大辞典]で、『ニケア・コンスタンティノープル信条』とも呼ばれる、信仰宣言である。『レスルレクシト』は、その後半に音楽を付した作品である。

なお、『レスルレクシト』に関しては、当館では、現存している複数の版[『荘厳ミサ曲』総譜の発見後は3種類]のうち、『荘厳ミサ曲』の総譜にある版[新ベルリオーズ全集23巻所収]を「初演版」、ミサ曲発見前から知られていた2つの写本[下記3参照]を基に校訂されたもの[同全集12巻a所収]を「改訂版」と呼んでいる。なお、2つの写本を作成する際に原本となったはずの「マザー・スコア」は、失われており、上記1に述べた諸作品への転用が終わった後、作曲者が廃棄したのであろうと考えられている(『回想録』8章に、「この作品[『レスルレクシト』]も、後に廃棄した。」との注がある)。

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3 『レスルレクシト』から『トゥーバ・ミルム』へ

以下、この作品(『レスルレクシト』)が、初演後、1837年の『レクイエム』の『トゥーバ・ミルム』に向け、次第に成長していく様子を、主として当館所収資料の抜粋を時の経過に沿って追うことにより、見ていくこととしたい。

(1)パリ、サン・ロック教会で『荘厳ミサ曲』を初演(1825年7月10日)

友人アルベール・デュボワへの手紙(同月20日)
「僕のミサ曲は、途方もない効果を上げた。とりわけ、『キリエ』、『クルチフィクスス』、『イテルム・ヴェントゥルス』、『ドミネ・サルヴム』、『サンクトゥス』のような大規模な楽章がそうだった。」・・・
「『イテルム・ヴェントゥルス』では、世界中のトランペットとトロンボーンが全部鳴り、最後の審判のときが来たことが告げられる。その後、恐怖に憔悴した人の声が広がる。ああ!僕は、荒れ狂う海の中を泳ぎ、暗く波打つ水を呑んでいた。」・・・
「ようやくそこを逃げ出して、先生[ル・シュウール]の家に飛んで行き、呼び鈴を鳴らした。ドアを開けてくれたのは、ル・シュウールのお嬢さんだった。「お父さん、彼よ!」――『ここへ来て、貴君を抱擁させたまえ!・・・よし。[略]貴君がなるのは、医者でも薬剤師でもない、偉大な作曲家だ。貴君には天分がある。[略]元気いっぱいに溢れ出る楽想(イデ)の中に、的外れなものはひとつもなかった。貴君が描いたものは、皆、真実だ。その効果は、尋常ならざるものだ。[略]』」・・・
「フェランは分別を失くしてしまっている。僕への度外れた形容を奮発し、火を吐くような勢いで、知っている編集者がいる『ガゼット・ド・フランス』誌に向け、長文の見事な記事を書いてくれた。」・・・

注/「最後の審判」の輝かしく荘厳な告知と、それに怯える人々との対比は、この作品の制作に当たり、ベルリオーズが強く意識していた要素の一つであると考えられる。彼は、この手紙の後にも、審判に怯える人々のコーラスのことを、たびたび語っている。上記1に述べたように、このコーラス自体は、後に、オペラ『ベンヴェヌート・チェリーニ』に転用される。だが、その一方で、力強く偉大な神の世界と、弱く小さな存在である人の世界の対比、言い換えれば、「神の偉大」と「人間の卑小」の対比という、ドラマの設計思想は、1837年の『レクイエム』に引き継がれ、この作品において、比類なく壮大なスケールで、徹底的に追求される。

(2)パリ、サン・テュスタシュ教会で『荘厳ミサ曲』を演奏(1827年11月22日〜2度目、かつ、最後の全曲演奏)

友人アンベール・フェランへの手紙(同月29日)
「僕の『ミサ曲』は、聖セシリアの祝日に演奏され、初演のときの倍の成功を収めた。作品は、僕が加えた微修正で、目に見えて改善した。」・・・
「だが、この最後の審判の情景、6人のバス・ターユ歌手たちがユニゾンで歌う審判のはじまりの告知、途方もないトランペットの大音響(クランゴル・トゥバルム)、コーラスで表される、人々の恐怖の叫び、これらすべてが、ついに僕の構想どおり厳密に実行されるのを目の当たりにしたときには、激しい痙攣性の震えに襲われてしまった。」・・・
「ああ、貴君がその場にいてくれたら!僕は、素晴らしいオーケストラを手にしていた。」・・・

注/初演版では独唱だった、ファンファーレの後のバスの歌唱が、ここで6人の歌手による斉唱に改められたことが分かる。

(3)パリ音楽院ホールで『レスルレクシト』を演奏(1828年5月26日)

注/シェークピア女優、ハリエット・スミッソンに、「自分もまた画家だということ」を知らせるべく、企画・実行した演奏会である〜『回想録』18章19章

父、ベルリオーズ医師への手紙(同月29日)
「第1部の最後のコーラス[『レスルレクシト』]も、奏者たちですら自制を失うほどの効果を上げました。聴衆の前では、賞賛も不賛成も、一切表に出さないのが作法だというのに、オーケストラ、コーラス、ソロ歌手の人たちが一斉に立ち上がり、舞台から湧き起った彼らの歓声が、観客席からの歓声に重なったのです。」・・・

フェランへの手紙(6月6日)
「演奏したのは、僕が後で加筆した、貴君がまだ聴いていない版で、今回初めて、女声14、男声13によって歌われた。そして、王立音楽学校のホールで初めて、オーケストラの団員たちが、最後の和音が鳴りやんだとたんに楽器を置き、聴衆よりもさらに盛大な拍手喝采をしたのだった。チェロやコントラバスを弓で打つ音が霰(あられ)の音のように鳴っていた。」・・・

フェランへの手紙(6月28日)
「『秘密裁判官』第1幕、第3幕[の台本]が貴君から届くのを、心待ちにしている。貴君に『復活[レスルレクシト]』の総譜の写しと『歌曲』の写しを送ることを、名誉にかけて、約束する。なるべく早い時期に筆写に出し、出来上がり次第、発送するつもりだ。」

フェランへの手紙(7月15日)
「送る約束をした楽譜[『レスルレクシト』等]は、本来なら、とうに貴君に届いているところなのだが、とうとう、ここまで遅れている理由を、打ち明けなくてはならなくなった。演奏会の後、父がまた気まぐれを起こし、もう仕送りはしないと言ってきたのだ。」

フェランへの手紙(8月29日)
「僕は、明日、ラ・コートへ発つ。3年の別離を経て、ついに両親と再会する。貴君が僕との[再会の]約束を果たしてくれることに関しても、何ら問題はないはずだと思っている。」
「貴君が待ってくれている、筆写が間に合わなかったせいでドデールに託せなかった2つの作品[『レスルレクシト』等]を、持っていくつもりだ。」

フェランへの手紙(9月16日)〜帰省中、滞在先のグルノーブルから送ったもの
「僕は、明朝、ラ・コートに向け出発する。貴君の手紙が届いた日以来、ラ・コートを留守にしているのだ。」
「お願いだから、できるだけ早く来てくれたまえ。貴君のための楽譜も、用意出来ている。」

(4)フェランは、上記の手紙の後、ラ・コートのベルリオーズを訪ね、3日間、ベルリオーズ家に滞在した(同年9月のナンシーの日記参照)。ベルリオーズがフェランのためにパリの業者に作らせた『レスルレクシト』総譜の写しは、そのとき、フェランに贈られたものとみられる。

注/フェランはこの総譜を保存し、それは現在、グルノーブル市立図書館に収蔵されている。
この版には、直近の演奏[上記(3)]までに行われた改訂と、その後写譜に出されるまでに何らかの修正がなされていればその修正の内容が反映されていると考えてよいと思われる。この写本には、次のような特徴があるという。
・ ローマ滞在中の1831年に作られた第2の写本(後述)にある、「死者ミサ」の続唱(セクエンツィァ)『怒りの日』、第3連の詩行「驚きを呼ぶトランペットが鳴り渡り、すべての者を玉座の前に集めるだろう」(トゥーバ・ミルム)をテクストとする6小節の挿入は、まだ行われていない。
・ その一方で、表紙に付されたベルリオーズの自筆献辞には、『怒りの日』第2連の詩句(「その恐ろしさはいかばかりだろう、審判者が来て、すべてを正確に粉砕するときは!・・・[ Quantus Tremor est futurus / Quando Judex est venturus / Cuncta Stricte Discussurus ! … ]が引用されている。)
・ 譜面には、次のような書き込みがなされている。
①  ファンファーレが始まる箇所に、ベルリオーズの筆跡で、「最後の審判の布告」
②  ファンファーレ直後のバスの歌唱に続く4部合唱が始まる箇所に、ベルリオーズの筆跡で、「地上の人々の怯えのコーラス。次第に強まる恐怖の言葉付き」
③  最終小節の最上段の余白に、フェランの筆跡で、「それからは、時[の神]は翼と鎌を奪われ、破壊された世界で静かに眠る( Et d’ailes et de faulx dépouillé désormais / Sur les mondes détruits le tems dort immobile )[辞書にないフェランの言葉、tems、faulx を、それぞれ、temps(「時」) 、faux(「鎌」)又はfalx (ラテン語 「鎌」)と推測して訳出。なお、時の神( le Temps )は、「鎌と、時には砂時計を持った有翼の老人の姿で擬人化される」という〜小学館ロベール仏和大辞典。] 」。同じ箇所の最下段の余白に、ベルリオーズの筆跡で、銅鑼、シンバル、ハープの譜。その左右の余白に、フェランの筆跡で、「世の終わり( Anéantissement des mondes )」、「選ばれた人々の声、天使たちのコーラス、空へと昇り、消えていく( La voix des élus et les chœurs d’anges monte et se perd dans le ciel )」。

これらのことは、ベルリオーズがこのとき(、つまり、1828年夏の帰省の際)、この作品の特定箇所の意味をフェランに説明したほか、「死者ミサ」のセクエンツィア『怒りの日』を念頭に、「最後の審判」の情景を一段とドラマティックにするための加筆を行うアイディアについても告げ、そのことについて、二人の間で何らかの話し合いが行われたことを示しているのではないかと、訳者は考えている。
ただし、ベルリオーズとフェランは、この後、ベルリオーズがイタリア滞在を終えラ・コートに帰った1832年8月にも、会っている。このときは、ラ・コートを出発したベルリオーズが、リヨンの東方、ベレーにあるフェランの家を訪ね、4日間、そこに滞在したという。また、その際には、後述の『世の終りの日』の構想のことも、話し合われたという[ケアンズ32章]。つまり、フェランの手に渡った『レスルレクシト』の写本を二人で見る機会は、その時にもあったということである。したがって、上記の書き込みは、その際、『世の終わりの日』の構想についての意見交換と併せて行われたものであると考えることも、不可能ではない。
とはいえ、訳者としては、次に見るフェランへの手紙の存在から、上に記した考えに、より大きな魅力を感じるのである(次の手紙の注に続く)。

(5)パリ音楽院ホールで、『レスルレクシト』を『最後の審判』として演奏(1829年11月1日)

フェランへの手紙(10月30日[演奏会の2日前]
「『最後の審判』は、貴君も知るとおり、和音を奏する4組のティンパニに伴われた、レシタティフ付きだ。」・・・

注/この手紙では、『最後の審判』が、『レスルレクシト』の新たな題名であることが、まったく説明されていないから、上の言葉は、ベルリオーズが、フェランは、改めて説明するまでもなく、そのことを理解するだろうと考えていたことを示している。そして、彼がそう考えた理由は、前年(1828年)の夏、二人がラ・コートで会った際、彼らが既に、この作品に、「死者ミサ」のセクエンツィア、『怒りの日』に描かれる「最後の審判」のイメージを追加する構想について、話しあっていたからではないかと思われる。また、もしそうだとするなら、この手紙が言う、「貴君も知る」「レシタティフ」とは、『怒りの日』第3連、「驚きを呼ぶトランペットが鳴り渡り、すべての者を玉座の前に集めるだろう」(トゥーバ・ミルム)をテクストとする、新たな6小節を指すものである、ということになる。そしてそれは、今は失われたベルリオーズ手持ちの「マザー・スコア」を介し、翌々年(1831年)ローマで作られる、第2の写本に反映されたものと考えられるのである。

ベルリオーズ医師への手紙(11月3日[演奏会の2日後]
「演奏会は、僕の最後の審判のコーラスで締めくくられましたが、この作品も、『秘密裁判官』と、ほとんど同じくらいの効果を上げました。ただ、コーラスの数が足りず、オーケストラに圧倒されてしまいました。」・・・

(6)ローマからフェランに、オラトリオ『世の終わりの日』の作詩を持ちかける手紙を書く(1831年7月3日)。

「かねてから貴君と成し遂げたいと考えていた大掛かりなプロジェクトがある。パリのオペラ座か、パンテオンか、ルーブル宮の中庭で開く、音楽式典での演奏を想定した、巨大なオラトリオだ。『世の終わりの日( le Dernier Jour du Monde )』と題されることになるだろう。作品の構想は、フィレンツェで書いた。歌詞の一部は、3ヶ月前に書いた。演奏には、独唱歌手が3、4人、各声部のコーラス、舞台前に位置する奏者60人のオーケストラ、それに階段状の舞台の奥に位置する、200人か300人の、もう一つのオーケストラが必要だ。
人々は、堕落の最終段階に達し、ありとあらゆる悪業に耽っている。一種の反キリストが、彼らを専制的に治めている。・・・蔓延する退廃の只中、ある一人の預言者に率いられた、少数の正しい人々が、これと対照をなしている。暴君は、彼らを苦しめ、その乙女らを誘拐し、彼らの信仰を嘲り、乱痴気騒ぎの中、彼らの神聖な書物を引き裂かせる。預言者は、ついに暴君の罪の数々を責め、世の終わりと最後の審判を予言する。腹を立てた暴君は、預言者を投獄させ、再び冒涜的な悦楽に身を委ねるが、ある饗宴のさなか、キリストの再臨( la résurrection )を告げる、凄まじいトランペットの音に、吃驚させられる。死せる者たちは墓を出、度を失った生ける者たちは恐怖の叫びを上げる。諸世界は粉砕され、天使たちが大雲の中で雷鳴を轟かす。この音楽によるドラマのフィナーレは、これらの出来事で構成される。お見通しのとおり、それには、まったく新しい手法の採用が必要だ。2つのオーケストラに加え、4つのグループの金管楽器が、会場内の4つの要(かなめ)となる場所に配置される。これらの組み合わせは、きわめて新しいものになるだろう。そしてその結果、通常の方法では実現できない、無数の命題が、このハーモニーの塊から、光を放ちながら姿を現すだろう。
この作品の詩を作る時間が、貴君にあるかどうか、考えてみて欲しい。貴君にぴったりな題材だと思うし、貴君が素晴らしい仕事をしてくれることを確信している。」

注/すでにみたとおり、1828年のラ・コートでの二人の会合が、『レスルレクシト』が『トゥーバ・ミルム』へと進化していく第1歩であったとするならば、その第2歩が、ここに踏み出されたことになる。だが、このオラトリオの構想は、結局、実現には至らなかった。

(7)ローマで『レスルレクシト』を業者に写譜させ、パリの学士院に提出(1831年、おそらく年末)

注/この写本は、現在、パリの国立図書館に収蔵されている。表紙に、「Roma 1831」との記載があるという。
既述のとおり、この写本は、「死者ミサ」の続唱(セクエンツィァ)第3連の詩行[正確には、全3行のうちの2行](「驚きを呼ぶトランペットが鳴り渡り、すべての者を玉座の前に集めるだろう[ Tuba mirum spargens sonum coget omnes ante thornum ]」)(6小節)を含んでいるが、これは、1829年11月に行われた、この作品の最後の演奏[上記(5)]のためになされた加筆・修正を反映したものとみてよいと思われる。
なお、『レスルレクシト』の学士院への提出については、『回想録』39章に語られている。(了)[2020/07記]

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(参照文献等)
記事及び作品対訳の作成に当たり、下記文献を参照した。
記事、対訳の文責は、当館訳者にある。

ケアンズ(第1部)

マクドナルド(5章)

新ベルリオーズ全集
12巻a(ジュリアン・ラシュトン校訂)〜『レスルレクシト』改訂版
23巻(ヒュー・マクドナルド校訂)〜『荘厳ミサ曲』

Berlioz’s “Messe solennelle”, Hugh Macdonald, 19th-Century Music Vol.16, No.3 (Spring, 1993), pp. 267-285, University of California Press

Holoman, D., & Minnick, J. (2018). Catalogue of the Works of Hector Berlioz, Second edition, digital, 2018. Retrieved from https://escholarship.org/uc/item/1gh3t989

『彌撒典書』、光明社、チト・チーグレル訳、1949年

Roman Catholic Daily Missal, Angelus Press, Kansas City, 1962

『公教典禮聖歌集』、光明社、1950年

『ミサーその意味と歴史―』、土屋吉正、あかし書房、1977年

『レクイエム・ハンドブック』、高橋正平、ハンナ、1994年

『ミサ曲ラテン語・教会音楽ハンドブック』、三ケ尻正、ショパン、2001年

『ニケア・コンスタンチノープル信条』(2004年2月18日、日本カトリック司教協議会認可〜カトリック中央協議会ウェブサイト内)

Dies Irae, A Literal English Translation by The Franciscan Archive, as exhibited at
https://www.franciscan-archive.org/de_celano/opera/diesirae.html

Inflected Digital Latin Dictionary for Students, Thomas McCarthy, Perlingua, 2011

『羅和辞典〈改訂版〉』、水谷智洋、研究社、2009年

『楽しいラテン語』、土岐健治、井坂民子、教文館、2002年

『古典ラテン語文典』、中山恒夫、白水社、2007年

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