手紙セレクション / Selected Letters / 1825年7月20日(21歳)

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パリ発、1825年7月20日
アルベール・デュボワ宛

親愛なるアルベール、僕に手紙をくれた貴君は、とても優しい人だ。実際、君が訊ねてくれた、僕のデビューの一部始終を話すのは、もう少しで、グルノーブルに着いてからにしてしまうところだった。
僕のミサ曲[『荘厳ミサ曲』、Messe solennelle berlioz 、訳注]は、実際に演奏された。
完璧に(書いた本人がそう言うのだから、本当だ)。
オペラ座とイタリア劇場の、150人の奏者で。
ヴァレンティノが指揮した。
プレヴォが歌った。
ソステーヌ氏には、残念ながら、せっかく貴君や、ブリフォさん、ド・モンテスキューさんが骨を折ってくれたのに、まったく何の世話にもならなかった。氏には2度ほど個人的に面会したが、どうでもよい話を色々ときかされただけだった。まさしくかつて王に仕えた最大の馬だ。信じられるかい?彼は、僕がオペラ座の奏者たちを使うことを「許して」くれたのだが・・・それは、僕が報酬を払うなら、との条件付きなのだ・・・まったく大した御仁だ!僕には1000フラン持っているなら使ってもよいとの許可を与え、奏者たちにはそれを全部丸ごと受け取ってもよいとの自由を与えた訳だ。
僕のミサ曲は、途方もない効果を上げた。とりわけ、『キリエ』、『クルチフィクスス』、『イテルム・ヴェントゥルス』、『ドミネ・サルヴム』、『サンクトゥス』のような大規模な楽章がそうだった。『キリエ』の終わりのクレッシェンドを聴いたとき、僕の胸は、オーケストラとともに膨らんでいった。僕の心臓も、ティンパニの連打とともに高鳴った。何を言ったのかは覚えていないが、曲の終わりに、ヴァレンティノが僕に言った。「友よ、ちょっと静かにしていてくれないかね。そうでないと、こっちまでおかしくなりそうだ。」『イテルム・ヴェントゥルス』[キリストの「再臨」。resurrexit berliozでは、世界中のトランペットとトロンボーンが全部鳴り、最後の審判のときが来たことが告げられる。その後、恐怖に憔悴した人の声が広がる。ああ!僕は、荒れ狂う海の中を泳ぎ、暗く波打つ水を呑んでいた。僕は、僕の聴衆に衝撃を与える役は、誰にも任(まか)せたくなかった。それで、金管楽器の最後の一斉射撃で、悪人どもに嘆きと歯がみ[マタイ福音書]のときが来たことを告げた後、教会全体が震えるほどの、ものすごい銅鑼(タムタム)の一撃を食らわせた。聴衆、特にご婦人方が、これで自分が世の終わりにいると思わなかったとすれば、それは僕の落ち度ではない(Ce n’est pas ma faute si les dames surtout ne se sont pas crues à la fin du monde.)[誰もが世の終わりが来たと思ったはずである、それほど強く打ったから、の意と思われる]
一般の愛好家の人たちは、華やかで軽いスタイルの楽章、『グローリア・イン・エクスチェルシス』が良いとの意見だったが、これは、避けらないことだった。
演奏が終わった後で起きたこと以上に珍しいことはなかった。僕は、教会に詰めかけていた芸術家、演奏家、聴衆に、10分間も囲まれ、押され、言葉を浴びせかけられたのだ。ある人は僕の手を握り、ある人は僕の衣服を引っ張った。
「貴方の身体には悪魔が宿っている[「貴方は活力に満ちている」の意]
「もうちょっとセーブしないと。そうでないと身体を壊してしまいますよ。」
「まだ鳥肌が立っています。」
「お若い方、貴方は大成するでしょう。これぞ楽想というものだ(voilà des idées.)。」
「それを言うなら、これぞ没頭ですよ。ここからも分かりましたよ、誰も笑っていないのが(Voilà bien des enfoncés, de cette affaire; j’en vois d’ici qui ne rient pas.)。」
音楽愛好家の人たちが、次々と柵を越えて奏者席に入って来て、作曲者はどの人かと奏者たちに尋ねた。椅子や譜面台をなぎ倒しながら走って来た、特に熱烈な人が一人、僕のところまでやって来て、こう言った。
「すみませんが、礼拝堂の楽長先生はどこにおられますか?」
「どの先生ですか、ル・シュウール先生ですか?」僕は答えた。
「いいえ」
「指揮者のヴァレンティノさんですね。」
「そうではなくて、この曲を作った人ですよ。」
「それなら私です」
「ああ・・・ああ・・・ああ」彼はただ、僕の前でアルファベットの最初の文字を繰り返すばかりだった。
雨、あられと、僕はお祝いの言葉を浴びせられた。ある人は、僕に、あなたの最良の楽章は『サンクトゥス』ではありませんかと尋ねたり、別のこれこれの楽章が自分は好きだと言ったりした。また別の人は、あなたはくだらない音楽はお嫌いでしょうとか、あなたの楽想はみな見事にその場面を描いていたとか、あなたの音楽はみな衝撃的だとかいったことを、僕に請け合った。こうしたさ中、ル・シュウール先生のお嬢さんたちが夫人と一緒に来て、先生は自宅で僕を待っていると知らせてくれた。そこへ駈けつけようとしていると、主任司祭の使いが来て、聖具室に連れて行かれてしまった。僕はそこで、司祭(Le Pasteur[人名か])から15分もの長広舌を聴かされたが、彼は、僕の楽想は頭ではなく心に発していると伝えたがっていた。「エクス・ペクトレ[ラテン語。「心から」の意。]、エクス・ペクトレですよ、君。聖アウグスティヌスも言われているとおり。」ようやくそこを逃げ出して、先生の家に飛んで行き、呼び鈴を鳴らした。ドアを開けてくれたのは、ル・シュウールのお嬢さんだった。「お父さん、彼よ!」――「ここへ来て、貴君を抱擁させたまえ!・・・よし。貴君がなるのは、医者でも薬剤師でもない、偉大な作曲家だ。貴君には天分がある。私がそう言うのは、それが本当だからだ。貴君のミサ曲は音が多過ぎ、貴君は興奮に押し流されていた。だが、元気いっぱいに溢れ出る楽想(イデ)の中に、的外れなものはひとつもなかった。貴君が描いたものは、皆、真実だ。その効果は、尋常ならざるものだ。大勢の人々がそれを感じ取ったということを、貴君に知ってもらいたい。それというのも、私は、聴衆の反応を見るため、わざと隅の席に独りで座っていたからだ。私は請け合うが、場所が教会でなかったら、貴君は、3回か4回は、素晴らしい大喝采を浴びていただろう。」
親愛なアルベール、ここまでにしよう。全部は書ききれない。一番面白い話は、会ってから話すことにする。それは、つい最近、音楽院で、僕に関し、ル・シュウールに起きたことで、先生がケルビーニとベルトンとした会話の話だ。あと、僕のミサ曲の演奏の翌日、招待されていたブランシュ夫人のお嬢さんの結婚式で、僕がもらった色々な祝福の言葉のこと、そこで話をした人たちのことも。
ブリフォさんの住所が分からなかった。デュ・バク通りで10軒ほどの建物に入ってみたが、みつからなかったので、仕方なく番地なしで手紙を書くことにした。届くかどうか不安が残っている。済まないが、氏にそのことを知らせてくれないか。ド・モンテスキューさんにきけば分かると思っていたが、ご本人の招待を失念し、すべてが終わった後で思い出した始末で、僕のことをどう思っているか分からない。困った事態だが、当時は心配ごとがあまりに多く、どうすることもできなかった。身から出た錆、というところだ。
フェランは分別を失くしてしまっている。僕への度外れた形容を奮発し、火を吐くような勢いで、知っている編集者がいる『ガゼット・ド・フランス』誌に向け、長文の見事な記事を書いてくれた。同誌は彼に掲載を約束したが、まだ出ていない。同様に、彼は、他の2人の友人の支援を見込んでいる。一人は『ディヤブル・ブワトゥ』誌、もう一人は『グローブ』誌にいるのだが、彼はまだ彼らと会う機会がなく、僕も記事は見ていない。ド・カルネ氏は、その時期パリに居なかったのだが、僕は、いずれにせよ、このことは非常に残念に思っている。
僕の記事を載せた新聞、雑誌は次のとおりだ。
『モニトゥール』11日付け、『ジュルナル・ド・パリ』同、『アリスタルク』同、『コルセール』13日付け、『デバ』14日付け、『コティディエヌ』15日付け。
フェランと僕は、二輪馬車に乗り、招待状を配って回った。それにもかかわらず、『レトワール』、『ディヤブル・ブワトゥ』、『パンドール』ほか数社は、僕のミサ曲の演奏を聴いて報道すると約束したのに、まだ何もしていない。
カジミールに、ぜひ宜しく伝えて欲しい。彼に手紙を書かないのは、書いても、貴君に送るこの手紙と同じ内容になってしまうだろうし、彼はもうグルノーブルにいないかもしれないからだ。彼がまだそちらにいたら、この殴り書きを見せてやってくれたまえ。そうしてくれれば、手紙を書いたのと同じことになる。
さようなら、親愛なアルベール。僕に罪があると考える人々に対して僕を弁護しようとしても無駄だから、そんな骨折りはしないでいてくれたまえ。ある連中は水に浮いた氷のようなものだから、惰性に任せて放っておけばよいし、他の連中は狂信的で、諭すことなど不可能だし、彼らを覆っている偏見の殻を破ることも、どうせできはしないのだから。
貴君を抱擁し、もうすぐ再会できることを楽しみにしている。

貴君の友
H.ベルリオーズ

追伸 7月31日の日曜日に、僕のミサ曲を演奏して欲しいとの依頼があった。費用は向こう持ちだ。初演のときほどの規模ではないが、僕はこの曲をまた聴けることになる。60人程度になりそうだが、会場には十分な規模だ。(了)

訳注/1824(25)年の『荘厳ミサ曲』。ベルリオーズによって廃棄され(『回想録』8章)、長い間、(一部を除き)失われたものと考えられていたが、1991年、ベルギーのアントワープで、廃棄を免れた全曲総譜が発見された。

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