『回想録』 / Memoirs / Chapter 36

目次
凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

36章 在ローマ・フランス・アカデミーでの日々のこと、アブルッツォ地方での徒歩旅行のこと、サン・ピエトロ大聖堂のこと、鬱ぎ(スプリヌ)のこと、ローマ郊外への遠足のこと、謝肉祭のこと、ナヴォナ広場のこと

私はすでに、館の内外を問わず、アカデミーでの生活の習慣や流儀に、十分、通じていた。食事の時間は、館内方々の廊下や庭園の小道に響き渡る、鐘の音で告げられる。これを聞くや、各人は、麦藁帽子、裂けたり粘土が付いたりした上衣、スリッパ履き、ノーネクタイといった、要はアトリエでの作業用のぼろ着姿など、何であれ、その時の服装のまま、食堂に直行する。食事の後は、いつも庭園で1、2時間ばかり、ディスク[円盤投げ]やポーム[テニスの原型とされる球技]をしたり、ピストルで射的のゲームをしたり、月桂樹の木立に居ついている気の毒なツグミを猟銃で撃ったり、若犬を訓練したりして過ごした。これらのすべてに、館長のオラス・ヴェルネ氏が、非常に頻繁に加わっていた。彼の我々への接し方は、いかめしい上司というより、気のあった仲間のそれに近いものだった。晩は、[ヴィラ・メディチの建つピンチョの丘からスペイン階段を下り、]「カフェ・グレコ」に行くことが必須で、我々はそこで、「[丘又は階段の]下の連中」[ les hommes d’en bas 。「最下層から身を起こした人々」の意も。]と我々が呼んでいた、アカデミーに所属しないフランス人芸術家たちと合流し、「祖国愛のパンチボウル」を酌み交わしつつ、「友情の葉巻」を燻(くゆ)らせた。その後は、みな、散り散りになった。・・・行い正しくアカデミーの「兵舎」に帰った者たちが、庭園に面した広いポルチコ[屋根付きの柱廊]に再び集まることもあった。たまたまそのグループに入っていたときには、私の粗末な声と古いギターにお呼びがかかった。我々は、小さな噴水を囲んで座り、大理石の水盤に落ちる水の音が響きの良いポルチコに涼味をもたらすなか、月の光を浴びながら、『魔弾の射手』、『オベロン』の夢想的な旋律、『オイリュアンテ』の力強いコーラス、又は『トリドのイフィジェニー』、『ヴェスタの巫女』、若しくは『ドン・ジョヴァンニ』の、ひと幕全体を歌った。というのも、アカデミーの私の食事仲間たちの名誉のために述べておかねばならないことであるが、彼らの音楽に関する趣味は、些かも低俗なものではなかったからである。

これとは別に、「イギリス風音楽会[ concerts anglaise ]」と称する音楽会もあった。夕食時に羽目を外した後に催した余興である。まずまず歌の心得があり、どうにか愛唱歌と呼べるものを持った酒飲みたちが、全員で、銘々違う歌を歌うよう、手はずを整える。さらに、できる限り変化を持たせるため、それぞれが隣にいる者と異なる調で歌うようにする。知的で博学な建築家、デュクは、『記念碑』を、ダンタンは、『スルタン・サラディン』を、それぞれ歌った。モンフォールは、『ヴェスタの巫女』の行進曲を歌い、大勝利を収めた。シニョルは、『タホ川』を、魅力たっぷりに歌った。私は、素朴で優しい『 Il pleut bergère [「羊飼いの娘さん、雨ですよ」。YouTube:Il pleut, il pleut, bergère 』の旋律で、一定の成功を収めた。決められた合図で、歌手たちが次々に歌い始め、24部の壮大な合唱曲が、クレッシェンド[演奏指示用語:「音を次第に大きく」]で実行される。すると、ピンチョ通りで、驚いた犬たちが一斉に悲しげな遠吠えを始め、この音楽を伴奏する。その間、スペイン広場の理髪店主たちは、苦笑いを浮かべつつ、それぞれの店の戸口に出て、「 ムジカ・フランチェーゼ!( Musica francese! )[イタリア語。「フランスの音楽」。「フランス人たちの大騒ぎ」の含意であろう。]と、素朴な叫びを投げ合うのだった。

木曜日には、館長ヴェルネ氏の公邸で盛大なレセプションが催された。夫人と令嬢がたいへん趣味よく取り仕切る、たいそう評判の高い夜会で、ローマ社交界きっての名士たちが集った。お察しのとおり、給費研究員たちは、この夜会への参加を欠かさぬよう、気を付けていた。他方、日曜日の日中は、ほとんどいつも、ローマ近郊の各地への長めの遠足に費やされた。ポンテ・モーレには、ローマの住人たちの好物である、甘くねっとりした、得体の知れない飲み物、オルヴィエト酒を飲みに行った。ヴィラ・パンフィーリや、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラにも足を運んだ。特筆に値するのは、チェチーラ・メテッラの見事な墓で、この遺跡の不思議なこだまは、声がかれるまで叫んで仔細に調べることが必須で、それはまた、帰り道に近くの酒場に寄り、小さな羽虫がたくさん入った粗悪な赤ワインを飲む口実にもなった。

給費研究員たちは、館長の許可さえ得れば、もっと長い旅に出て、不定の期間、ローマを留守にすることもできた。制約といえば、教皇領の外に出ないことだけだったから、その範囲内であれば、滞在中、イタリアのどこへ行ってもよかった。このため、全員がヴィラ・メディチに揃っていることは、滅多になかった。2人かそれ以上の研究員が、ナポリ、ヴェネツィア、フィレンツェ、パレルモ、ミラノ等に出かけて不在になっていることが、ほぼ常態になっていたのである。画家と彫刻家は、ラファエロやミケランジェロの作品を身近に見ることが出来たから、ローマを離れることへの差し迫った欲求は、一般に、最も少なかった。これに対し、建築家は、パエストゥム、ポンペイ、シチリア島にある諸々の神殿に強い関心を抱いていた。また、風景画家は、彼らの時間の大半を山で過ごしていた。音楽家については、イタリア各地の中心都市が彼らに抱かせる興味・関心の程度は、どれも同じようなものだったから、ローマを離れる動機も、「何かを見物したい欲求」、「そわそわと落ち着かない気分」程度のものでしかなかったし、どの方面にどれくらい旅行するかについても、もっぱら、彼ら個人の好み[ leurs sympathies personnelles ]によった。私は、研究員たちが享受していたこうした自由を利用して、向こう見ずな探検を好む、自分の生来の傾向に身を任せた。ローマでの気の鬱ぎに生気を奪われてしまったときは、アブルッツォ地方に出掛けて、危機をやり過ごしていたのである。それがなかったら、この単調な生活をどう乗り切ることができたか、見当がつかない。それというのも、私には、よく分かっていたからである。ヴィラ・メディチでの芸術家たちの陽気な付き合いも、アカデミーや大使館での華麗な舞踏会も、カフェでの気のおけない集まりも、私に、自分が文明の中心、パリからここに来ているという事実を忘れさせることは、ほとんどできないということ、そして、パリを離れたことで、自分が音楽からも、劇場からも(ローマでは、劇場は、年に4ヶ月しか開いていなかった)、文学からも(ローマでは、私が読みたいと思う作品は、ほぼすべて教皇庁の検閲で禁書に指定されていた)、騒擾等時局の問題からも、つまり、私にとって生きることを意味したすべてのものから、一挙に隔絶されてしまった、ということを。

驚くに当たらないことだが、唯一、現代ローマの美点となり得る存在である、古代ローマの壮大な幻影ですら、私が奪われているものを埋め合わせるには足りなかった。常に目にしているものは、じきに見慣れてしまい、当たり前の印象や想念しか呼び起こさなくなってしまうのである。とはいえ、コロッセオは、例外としなければならない。この建造物は、昼でも夜でも、感動せずに眺めることはできなかった。サン・ピエトロ寺院もまた常に、身震いするほどの賛嘆の念を呼び起こした。それは、あまりにも巨大で、高貴で、美しく、厳粛な静けさを湛えていた!!!夏、暑さが堪え難いとき、私は好んでこの場所で日を過ごした。バイロンの本を一冊携えて行き、告解場に居心地よく身を落ち着けると、ひんやりした空気や、時折吹く一陣の風が耳元に運んでくる、サン・ピエトロ広場の二つの噴水の心地よい水音を別にすれば、一切妨げるもののない、敬虔な静けさを楽しみながら、この詩人の燃えるような詩の世界に没入するのであった。私は、洋上で、私掠船の大胆な海賊行為[ les courses audacieuses du Corsaire; ]を追っていた。私は、非情でありながら優しくもあり、苛烈でありながら寛大でもある、この人物の性格や、人間嫌いと一人の女性への一途な愛という、見かけ上相反する二つの感情の奇妙な混合を、心から賞賛した。

ときには、沈思するため、本を閉じ、視線を辺りに巡らせた。降り注ぐ光に引き寄せられ、ミケランジェロ作の荘厳な丸天井を見上げる。すると、何と急な遷移だろう!!!私の想念は、海賊たちの怒号と血生臭い乱痴気騒ぎから、熾天使(セラフィム)たちのコーラス、徳の平和[ la paix de la vertu ]、天上の永遠の平穏へと、たちまちのうちに移動する。・・・そしてその後、私の思惟はその飛翔の高度を下げ、教会内に残された、あの気高い詩人[バイロンのこと]の痕跡を、嬉々として探し求める。・・・
「あの人は、この場所で、カノーヴァ作の、この群像を眺めたに違いない。」私は考えた。「彼の足はこの大理石を踏み、彼の手はこのブロンズ像の輪郭を辿ったはずだ。彼は、この場所の空気を呼吸し、この場所のこの反響が、彼の言葉を模倣したのだろう。・・・その言葉は、あるいは、優しい愛の言葉だったかもしれない。いかにも、彼はこの場所を恋人、グイッチョーリ伯爵夫人(原注1)と訪れたのではなかったか?その女(ひと)は、たぐい稀な、素晴らしい女性で、彼はこの女(ひと)に完全に理解され、深く愛されていた!!!・・そう、愛されていて・・・詩人で・・・自由で・・・豊かで!・・・それらすべてであったのだ、あの人は!・・・こうして、告解場には、地獄に落とされた人々の耳にも届き、彼らをも身震いさせるほどの、激しい歯噛みが響くのだった。

同様の気分に捉われていた、ある日のことである。私は、駆け出しでもするかのように、衝動的に立ち上がった。そして、慌ただしく何歩か歩いた後、教会の中ほどで急に立ち止まり、無言のまま、その場に立ち尽くしていた。そこへ一人の農夫が入ってきた。彼は、こちら側に進んで来ると、聖ペテロ像の爪先に、静かに接吻した。
「幸せ者め。」苦々しい思いで、私は考えていた。「いったい君には、何か不足があるのか?君には信心があり、希望もある。君が崇めるその像は、昔、雷霆(らいてい)の神、ユピテルだった。右手に持っていたのは天国の鍵ではなく、雷電だったのだ。だが、君は、そのことを知らないし、だから、幻滅することもない。ここを出たら、君は何を探すのか?せいぜい日陰と昼寝といったところだろう。野原にある、聖母像を祀った祠(ほこら)は、どれも君に開け放たれている。だから、君はどちらも、そこで手に入れることができる。君が夢見る富とは、いったい、どれ程のものか?・・・ロバを買ったり、結婚したりするのに必要な、数ピアストルの金だろう。3年も倹約すれば、貯めることができる。君にとって妻とは何か。・・・誰か異なる性の人。君は、芸術に何を求めるか?君が崇めるものに、形を与えてくれるもの。君を笑わせたり、踊らせたりしてくれるもの。絵画とは、君にとって、赤や緑の彩色で飾られた、聖母マリアの像のこと、劇とは、操り人形劇や、その滑稽な登場人物[ les marionnettes et Polichinelle ]のことだろう。君にとって、音楽とは、バグパイプとタンバリンのことだろう。けれども、僕にとっては、音楽とは、失望と、嫌悪のことだ。なぜなら、僕は、求めているものが一つとして手中になく、それを見出す希望すら、もはや失ってしまっているからだ。」

私は、内面で荒れ狂う嵐に、暫くの間、耳を傾けていた。気が付くと、日が陰っていた。件(くだん)の農夫は、立ち去っていた。私は、サン・ピエトロ大聖堂に独り残っていた。・・・私は外に出た。何人かのドイツ人の画家に出会い、彼らは、私を市門の外の居酒屋に連れて行った。我々はそこで、オルヴィエト酒を何杯も飲み、ばか話をし、煙草を吸い、猟師から買った小鳥を、生で食べた。

連れのドイツ人たちは、この野蛮な料理をたいへん美味だと言った。私も、はじめは嫌悪を感じたが、やがて、その意見に同意した。

ローマに帰る道すがら、我々は、ウェーバーのコーラスを歌った。それは、長い間夢想すらしてはならなかった、音楽の歓びを、我々に思い出させてくれた。・・・午前零時、私は、大使主催の舞踏会に出向いた。私はそこで、英貨5万ポンドもの不労所得と、素晴らしい声を持ち、ピアノにも見事な才能があるという、ディアナ女神のように美しい英国人女性を見た。私は大いに喜ばしく思った。これこそ、恵みの均等な配分に向けられた、神の公正なる配慮の証しではないか!金銭欲に燃えた眼でエカルテのゲーム卓を凝視している年老いた女性たちの、ぞっとするような表情が目に入る。『マクベス』の魔女そのままではないか!!!浮気女たちがしなを作る様子が見える。誰かが私に、2人の優美な少女たちを指し示す。母親たちが「世間へのお目見え[ leur entrée dans le monde ]」と呼ぶ、社交界へのデビューを飾ったところだという。「世間」の乾いた風に、やがて生気を奪われてしまうに違いない、繊細で、高価な花たちよ!私は有頂天になった。私のすぐ近くで、3人の「目利き」連中が、芸術家の霊感、詩、音楽について、長々と駄弁を弄している。ベートーヴェンとヴァッカイ氏、シェークスピアとデュシ氏を、それぞれ同列に扱い、較べている。ゲーテは読んだか、『ファウスト』は面白かったか云々と私に話しかけ、その他諸々の素敵な会話に引き込もうとする[ me demandèrent si j’avais lu Goethe, si Faust m’avait amusé; que sais-je encore ? mille autres belles choses. ]。こうした出来事の全てに、すっかり魅了されてしまった私は、山のように巨大な隕石が大使館に落ち、館内のすべてもろとも、粉微塵にしてくれることを願いつつ、会場を出た。

トリニータ・デル・モンテの階段[スペイン階段]を上り、アカデミーに帰る途中、所持していたローマ風大型ナイフを抜かねばならない事態に遭遇した。貧しい人たちが、通行人に「命が惜しければ財布を渡せ」と迫ろうと、階段上の高台で[ sur la plate-forme ]待ち伏せしていたのである。だが、我々が2人連れだったのに対し、先方はわずか3人だった。我々が銘々ナイフを取り出す物音が、彼らを一時的に改心させた。

その場でピアノ伴奏で凡庸に歌われる退屈なカヴァティナが、音楽への私の渇望を刺激し、不機嫌をさらに悪化させる効果しか持たなかった、こうした味気ない社交の集まりから帰ると、私はしばしば、眠れぬ夜を過ごした。そういうとき私は館の庭園に降り、フード付きの大きな外套にくるまって大理石のブロックに腰掛け、ボルゲーゼ宮のミミズクの鳴き声を聴きながら、暗く厭世的な夢想に浸って、夜明けを待った。もし同僚たちが、私がこのような当てのない野外不寝番をしていることを知ったなら、きっと彼らはすぐに、それを私の「気取り」(慣用句的に使われていた言葉である[ c’est le terme consacré ])のせいにし、あれこれと滑稽で気の利いた論評をしたに違いない。だが、私は、このことは人に話さなかった。

以上のこと、それに狩猟と乗馬(原注2)とを加えたものが、ローマに居る間、私がその中を絶えず旋回していた、思索と行動の優雅な繰り返しである。さらに、次の事情をそれに加えれば、読者は、私を苛んだ鬱ぎ(スプリヌ)がいかに激しいものだったか、想像がつくだろう。どうにも耐えがたい、シロッコの作用。私の芸術である音楽がもたらす歓びへの、切実で、絶えず蘇ってくる欲求。苦痛に満ちた思い出。2年もの長い間、音楽界から隔絶されることの惨めさ。そして、なぜかアカデミーでは、まったく仕事[作曲]ができなかったこと(理由は説明がつかないが、事実だった)。

私は、鎖に繋がれた犬のように、不機嫌で、意地の悪い気分になっていた。同僚たちが私を彼らの気晴らしに誘ってくれたが、それは、私の苛立ちをますます酷くしただけだった。中でも、彼らが謝肉祭の娯楽の魅力だと考えていたものが、私を激怒させた[ Le charme qu’ils trouvaient aux joies du carnaval surtout m’exaspérait. ]。私は、パリと同じくローマでも「脂の日」( les jours gras )[左は直訳。「肉食を許される日々」の意。キリスト教徒の悔悛の期間である「四旬節」の初日(「灰の水曜日」)に先立つ数日間のこと。]と呼ばれている数日間に民衆に提供される種々の娯楽の、いったいどこが楽しいのか、少しも理解できなかった(今もそうである)!・・・いみじくもその名[「脂の日」]が示すとおり、それは、泥土や白粉(おしろい)の脂、酒の澱(おり)の脂、疲労困憊した馬たちの脂、卑猥な冷やかしや口汚い罵り言葉を口にする者たち、娼婦たち、警察への「たれこみ」を稼業にする酔っ払いたち、奇怪でおぞましいマスクで仮装した者たち、げらげらと笑ったり間抜け顔で周囲に見惚れたりしている愚者たち、時間を持て余している無為の輩といった人間たちの脂で、べとべとに汚れた数日間なのだ!古典古代の良き習わしを今なお残す都市、ローマでは、少なくともつい最近までは、この脂の日に、人身御供(ひとみごくう)を供していた。円形競技場の詩情を彷彿とさせるこの立派な慣行が、現在も残っているかどうかは、分からない。だが、たぶん残っているだろう。これほど壮大な見世物が、それほど早く廃(すた)れてしまうとは、考えにくいからだ。ともあれ、当時は、死刑判決を受けた哀れな囚人を一人、「脂の日」(何と不快な呼称だろう!)のために生かしておき、その日の「神」であるローマの民衆に奉献するに相応しいものとすべく、その者をも、脂肪太りにさせていたのである。そしてその日、時が満ちると、この万国の愚者の群れ(このように言うのは、公平に評すれば、外国人も、土地の者たちに劣らず、この高尚な娯楽を熱心に望んだからである)、テールコートやジャケットを着込んだ、この野蛮人の集団は、気の利いた野次に笑い興じながら、競馬見物や、互いの顔めがけた石膏つぶての投げ合いなどを楽しむ。そして、それらの遊びにも飽きると、次はいよいよ、人が死ぬところを見にいくのだ。そう、人の死を、である!虫けらに等しいこの連中が、彼を人と呼ぶことには、多くの場合、正当な理由がある[ C’est souvent avec raison que de tels insectes l’appellent ainsi.]。何故なら、その者は、通常、負傷して弱った、運の悪いどこかの山賊で、おそらく半死の状態で教皇配下の勇敢な兵士たちに捕えられ、念入りに手当して回復させられ、脂の日に向けて太らされ、告解をさせられた人だったと思われるからだ。そして、もちろん、私の意見では、その「敗者」[罪人のこと]は、人であるという点において、(流血とは相容れぬ[ 「(abhorrens a sanguine)」と、括弧書きの ラテン語で記されている])カトリック教会の世俗権及び教権の責任者であり、かつ、地上における神の代理人でもある人[ローマ教皇]が、そのもてなしのため、斬られた首の見世物を時折提供しなければならない相手、つまり、「勝者」たるごろつきども[見物人のこと]に、些かも劣りはしないのである(原注3)。

ともあれ、多感で頭のよいこの見物人たちは、その後すぐ、いわば浄(きよ)めのため、また、衣服に付いているかもしれない血のしみを洗い落とすため、ナヴォナ広場へと向かう。広場はその時、完全に水に浸かっている。野菜市場が姿を消し、不潔で悪臭を放つ、本物の池になっているのだ。水面に浮いているのは、花ではない。キャベツの芯、レタスの葉、メロンの皮、わら屑、アーモンドの殻である。この「魔法の湖」の岸辺には、高く持ち上げられた舞台が設けられており、楽隊がそこに陣取っている。彼らは、大太鼓2、中太鼓1、小太鼓1、トライアングル1、パヴィリオン・シノワ1[多くの小さな鈴がついた打楽器。「トルコのクレセント」の名でも呼ばれる。]、シンバル2対、あとは、これに形式的に添えられたホルンとクラリネット幾つかずつの、総勢15人程の編成で、舞台の脚を洗う池の泥水と同じくらいに澄んで整ったスタイルの音楽を演奏した。そして、その間、きらびやかな御者付き馬車のパレードが、至高の存在たる民衆[ peuple roi ]の皮肉な歓呼を受けつつ、沼の水の上をゆっくり旋回していくという趣向であった。だが、見物人らを岸辺に繋ぎ止めたのは、このパレードの堂々たる威風ではなかった。
「ミラーテ、ミラーテ![ Mirate、Mirate!イタリア語。「見たまえ、見たまえ!」]オーストリアの大使のお出ましだ!」
「いや、違うね。イギリスの使節だよ!」
「紋章が見えないのか?ワシにみえるじゃないか!」
「いや、僕には別の動物に見えるね。どっちにせよ、紋章にあの有名な言葉が書いてある。Dieu et mon droit[フランス語。「神と我が権利」。英国王室の紋章に記されているモットー。]とね。」
「あっ、スペイン領事が下僕のサンチョを従えてやってきたぞ。だが、どうやら、ロシナンテ[ドン・キホーテの従者、サンチョ・パンサのロバの名。]は、水上の行進が好きじゃないみたいだね。」
「こいつは驚いた。フランス大使もいるぞ!」
「そりゃいるだろうさ。後から来る、枢機卿の帽子を被ったあの年寄りは、ナポレオンの叔父に違いないな。」
「あの太鼓腹の小男は誰だろうね。ほら、重々しくみせようとして、一癖ありげに笑っている、あの御仁だ。」
「ああ、あれはたいそう頭の良い人でね。芸術についてなかなか面白いことを書くんだ(原注4)。チヴィタヴェッキアで領事をしているのだが、ナヴォナ広場の泥水池で馬車に揺られに、地中海沿いの任地からわざわざローマまで出て来ることが、社交界に期待された自分の役目だと思っているのさ。彼は今、『赤と黒』という小説の、新しい章を考え出そうとしているところだ。」
「ミラーテ、ミラーテ!あれに見えるは、我らがヴィットリアその人じゃないか。僕らの小さな足の(それほど小さくはなかったかもしれない)フォルナリーナ( Fornarina[ラファエロの絵のモデル、愛人。イタリア語で「パン屋の娘」を意味する。])が、今日は貴顕の女性の装いで[の意か?en costume d’Eminente ]ポーズをとっているよ。アカデミーのアトリエでの辛い仕事の骨休めといったところだね。それにしても、山車(だし)の上のあの姿はどうだ!海の上に立つ、誕生したばかりのヴィーナスさながらじゃないか。おい、用心した方がいいぜ。彼女は、ナヴォナ広場の海神(トリトン)たちによく知られているからね。ほら、連中は、彼女が来たら勝利の行進曲を吹こうと、法螺貝に口を当てているじゃないか。退散だ、各々ここを出よう![ Sauve qui peut ! ]
「何だ、あの喚声は?向こうで何か起きている。ブルジョア女性の馬車が転覆したんだ!誰の馬車だと思う?コンドッティ通りの煙草屋の、太ったおかみだよ。ブラボー!彼女はポッツオーリ湾のアグリッピナよろしく、岸に泳ぎ着いた[ローマ皇帝ネロの母、アグリッピナは、ナポリで溺死させられそうになったが、泳いで難を逃れた〜タキトゥス『年代記』14巻。]。ところがどっこい、水浴から戻った小さな息子を鞭で静めている間に、水に慣れていない馬たちが、泥水の中で大暴れだ。これは見ものだぞ。一頭は溺れ死んでしまった。アグリッピナは髪をかきむしっている。見物客はますます大喜びだ!悪童どもがオレンジの皮やら何やらを彼女に投げつけている。」等々。善良なる人々よ![ peuple :「人民」、「民衆」、「大衆」、「庶民」、「群衆」とも訳し得る。]あなた方の浮かれ騒ぎには、実に心を打つものがある!あなた方の気晴らしには、真に愛すべきものがある!あなた方の遊びの、なんと詩情に溢れていることか!あなた方の喜びの、なんと誇りと品格に満ちていることか!ああ、著名な評論家諸氏が語る、「芸術は万人のためのもの」との言葉は、いかにも正しい。ラファエロが、あの素晴らしい聖母像を描いたのは、彼が美しいもの、清らかなもの、純粋な理想に向けられた庶民の熱烈な思いを、知っていたからだ。ミケランジェロが、あの不滅のモーゼ像を大理石の奥深くから取り出し、あの栄光に満ちた寺院をその力強い手で築き上げたのは、疑問の余地なく、民衆の魂を揺さぶる、激しい思いに応えてのことであった。タッソとダンテが歌ったのも、民衆の心を焼き尽くす詩の炎に糧を与えるためであった。然り!民衆が感服しない作品は、ことごとく呪われてあれ!なぜなら、彼らがそれらを顧みないのは、それらに価値がないからなのである。彼らがそれらを軽んじるのは、それらが軽んじられるに値するからなのである。また、もし彼らが騒々しい野次をもってきっぱりとそれらを拒絶するのであれば、その作者もまた、断罪されるべきである。なぜなら、彼は、公衆に対する礼を欠き、彼らの高い知性を侮辱し、優れた感性を傷つけたのだから。そのような者は、採石場送りにされてしまえばよいのだ!

原注1/私はある日の晩、ヴェルネ邸で彼女に会った。ブロンドの長い髪が、悲しげなその顔に、シダレヤナギの枝のように落ちかかっていた。3日後、ダンタンのアトリエに、粘土で作った、彼女のカリカチュアがあった。

原注2/フェリックス・メンデルスゾーンとローマ郊外の平原を騎行したある日のこと、私は、きらきらと輝くシェークスピアの詩の小品、『マブの女王』[『ロミオとジュリエット』1幕4場]を、スケルツォの題材にしようと考えた者が、これまで誰もいなかったのは驚きであると、彼に話した。それには彼も、同じように驚いていたが、私は、彼にそのようなヒントを与えてしまったことを、すぐに後悔した。それから数年というもの、私は、彼がこの題材を用いた作品を仕上げたとの知らせが届くことを恐れていた。もし彼がそうしていたら、交響曲『ロメオとジュリエット』で私が行った二重の試み(※)は、不可能になるか、少なくとも著しく思慮を欠く企てになってしまっていただろう。私にとって幸いなことに、彼は、そうはしなかった。
[原注]実際、この交響曲には、声楽の『スケルツェット』と、器楽の『スケルツォ』の、二つの『マブの女王』がある。

原注3/パリの住人たちは、この点において、いまも1831年のローマ人の住人たちと同レベルにある。有名な作曲家の兄弟であるレオン・アレヴィ氏は、今般、『ジュルナル・デ・デバ』紙に良識と思慮に満ちた書簡を公開され、謝肉祭の期間中、「脂の牛( Boeuf gras )」をめぐって盛大に行われる真(まこと)におぞましい儀式(問題の牛は、パリの街路を3日も引き回された挙句、疲労困憊の状態で畜殺場に追い立てられ、そこで喉を切って殺される)の撤廃を求められた。私は、説得力に富んだこの抗議に心を深く動かされ、次のような短信を氏に送らずにいられなかった。「拝啓。貴殿がジュルナル・デ・デバ紙に本日公開された「脂の牛」に関する敬服すべき書簡に心から賛意を表することをお許しください。否、貴殿のご意見には、「ばかげた」ところなどは微塵もありません。そのようなお考えはどうかお持ちにならぬよう。また、いずれにせよ、軽薄な人々から「ばかげている」とみなされることは、貴殿が正当にも非難の声を上げられたこれらの見世物(それは、仮にも「開化された」と自認する人々を、甚だしく卑劣で残忍な「害獣」に変えてしまうものです)に無関心であることで、心ある人々の目に「がさつで残忍な人間」であると映ることよりは、はるかにましなことであります。敬具。1865年3月7日」

原注4/Beile、Bayle又はBaile氏なる人が、「スタンダール」なる筆名で書いた、ロッシーニの伝記。自分にその分野の感性があると思い込んだ著者が、音楽について、甚だ腹立たしく、愚かしいことを書き連ねた本。[ Stendhal : Vie de Rossini (1823)。邦訳:スタンダール『ロッシーニ伝』、山辺雅彦訳、みすず書房、1992年。](了)

訳注/ローマの群集について
本章に描かれているのは、ベルリオーズがイタリア滞在中(1831〜32年)に見た、同時代のローマの群集の現実の姿である。これに対し、数年後、彼がパリで上演を図った、オペラ『ベンヴェヌート・チェリーニ』(1838年初演)では、ルネサンス最盛期のローマに、ハイ・アートを理解する心をもつ、理想の聴衆としての群集が登場する[全集CD19(5-7)]

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