『回想録』 / Memoirs / Chapter 14

目次
凡例:緑字は訳注 薄紫は音源についての注記

14章 学士院の作曲コンクールのこと、私のカンタータが演奏不能と判定されたこと、グルックとスポンティーニに対する崇拝のこと、ロッシーニの登場のこと、ディレッタントたちのこと、私の激怒のこと、アングル氏のこと

学士院のコンクールの時期が来て、私は再びエントリーした。今回は予選を通過することができた。本選では、「バッカスの巫女たちに八つ裂きにされるオルフェウス」を題材としたフル・オーケストラ伴奏のオペラの一場面に音楽を付するとの課題が与えられた。私の提出作品[全集CD7(1-5) , YouTube : la mort d’orphée berlioz]は、その最終楽章[7(5)]に、いくらか見どころがあったと思う。ところが、私のスコアの伴奏、より正確に言えばピアノによるオーケストラ伴奏の代行を務めた凡庸なピアニストが(これがこのコンクールで採られている信じがたいやり方であることを読者はやがて理解されるだろう)、この作品の『バッカナル』[7(4)]を弾きこなせなかったことから、これをみた学士院の音楽部会(ケルビーニ、パエール、ル・シュウール、ベルトン、ボイエルデュー、カテルという顔ぶれだった)が、この作品を「演奏不能」と判定し、私をコンクールから外してしまったのである。
私はすでに、若手の参入を恐れ、排除しようとする、高い地位にある者たちの卑劣なエゴイズムを見ていた。そして今度は、若手を締め付ける、意味のない仕来たりの専横を、身をもって経験させられたのである。クロイツェルは、もしそれが得られれば、当時の私にとって少なからぬ利益になり得た成功を、阻んだ。アカデミーの会員たちは、ばかげた規則を字義どおりに適用することで、輝かしいとまではいえぬにせよ、少なくとも励ましにはなる賞を獲得する機会を、私から奪ったのである。これらのことで、私は、絶望と憤慨の2つの感情が濃縮された、最悪の状態に陥った。
本選に参加するため、私は、ヌヴォテ劇場から15日間の休暇を取っていたが、その期間も終わり、苦役を再開しなければならなくなった。ところが、それとほとんど同時期に、ひどい病気に罹ってしまった。重篤な化膿性扁桃腺炎で、瀕死の状態に陥ったのである。アントワーヌは女店員たちを漁りに出ていたので、私は、日中はいつも、ときには夜も、世話する者も看護する者もない状態で過ごした。苦痛に耐えかね、ある晩私は、喉の奥に折りたたみナイフを突き入れ、私をほとんど窒息させそうになっていた膿瘍を、自分で切開した。それをしなければ、死んでいただろうと思う。しかし、あまり科学的とは言えないこの手術を境に、私は快方に向かった。ほぼ全快した頃、父が私の粘り強さに根負けし、また、おそらくは私がどうやって食い繋いでいるのか心配になって、私への仕送りを再開してくれた。この予期せぬ父性愛の復活のおかげで、私は、コーラスの仕事を辞めることができた。その恩恵は、並たいていのものではなかった。この日課がもたらす肉体疲労を別にして、私が日々晒されていた音楽のあまりのばかばかしさ(ヴォードヴィル(軽喜劇)と区別がつかない小オペラと、オペラの猿真似をした水ぶくれのヴォードヴィル)だけでも、私は、最後にはコレラに罹るか、精神錯乱に陥るかして、死んでいただろうと思うほどだ。真の音楽家であり、かつ、フランスの亜流歌劇場がどのようなものかを知っている人だけが、私が潜り抜けた試練の辛さを、理解してくれるだろう。
こうして私は、ヌヴォテ劇場での急場しのぎの情けない仕事のせいで中断を余儀なくされていた、夕刻のオペラ座通いを、以前に倍する熱意をもって、再開することができたのである。当時の私は、偉大な劇的音楽を研究し、崇拝することに、身も心も捧げていた。これに対し、器楽のジャンルについては、私がそれまでに聴いていたシリアスな演奏会はオペラ座のものだけだったが、そこでの演奏は、熱気に欠け、凡庸で、私を熱中させるに足りるものではなかったから、私の考えは、まったくその方向には向いていなかった。ハイドンやモーツァルトの交響曲は、概して内輪のジャンルの音楽であり、広すぎて音響的に不釣り合いな会場で、小さすぎる編成のオーケストラで演奏した場合には、グルネル地区の野原で演奏するような効果しか得られないのである。それは、まとまりがなく、音も小さく、そっけなく感じられた。ベートーヴェンについては、2つの交響曲のスコアを読み、アンダンテのひとつは実際に演奏を聴いていたから、はるか遠方の、太陽のように感じてはいた。だが、それは、厚い雲に覆われた太陽だった。ウェーバーは、まだその傑作を作っておらず、その名すら、我々には知られていなかった。ロッシーニと、彼が少し前にパリで流行の先端を行く人々の間に引き起こした熱狂については、この新しい楽派が、当然のことながら、グルック、スポンティーニ楽派とは正反対のものとして現れたものだったので、その分だけ激しい、私の憤慨の対象となった。私には、グルック、スポンティーニという、2人の巨匠の作品以上に、崇高な美しさをもち、真実である音楽は、考えられなかったから、ロッシーニの旋律のシニシズム、感情表出と作劇法の軽視、単調なカデンツの果てしない繰り返し、際限のない子どもじみたクレッシェンドと大太鼓の濫用は、私を非常に怒らせたのである。そのあまり、私は、きわめて繊細なオーケストレーションがなされた(原注1)彼の傑作(『セヴィリアの理髪師』)にすら、彼の天賦の才の輝かしい特質を認めることができなかったのである。私は、一度ならず、イタリア劇場に爆弾を仕掛け、公演の日にそこに集まったロッシーニ信奉者もろとも吹き飛ばす方途を思案した。また、私は、憎むべきディレッタンティ[イタリア音楽の愛好家たちのこと]のメンバーに出くわしたときには、いつも、シャイロックのような目でその人物を睨み付けると、ぶつぶつと次のような悪態をついたものである。「ごろつきめ。真っ赤に焼けた鉄串で、汝を串刺しの刑に処してくれたいところだ。」告白せねばならないが、私は、結局のところ、殺人の夢想は別にして、今日でも、以前と同じ悪意と偏見の持ち主だ。もちろん、私は、焼けた鉄串で誰かを突き刺したりはしないし、仮にイタリア劇場に爆弾が仕掛けられていて、ただ火をつけるばかりになっていたとしても、劇場を吹き飛ばしたりはしない。それでも、私は、我が国の偉大な画家、アングルが、ロッシーニの幾つかの作品について言った次の言葉に、心からの拍手を送るのである。「これは、不正直な人が書いた音楽です!」(原注2)

原注1/しかも、大太鼓なしに。
原注2/私がアングル氏と意見を共にする光栄に浴している事柄は、ロッシーニのオペラ・セリアに限られない。だが、そのことは、この高名な『聖サンフォリアンの殉教』[絵画]の作者が、私のことを、ぞっとする音楽家、怪物、山賊、反キリストとみなす妨げにはなっていない。それでも、私は、彼を心から赦している。それは、彼がグルック賞賛者だからである。つまり、エンスージアズムは、愛の対極なのである。エンスージアズムは、我々に、我々が愛するものを愛する人々を愛させる。たとえその人々が我々を嫌っていても!(了)

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