回想録21章 訳注 / Memoirs Chapter 21 notes

訳注1/この章で語られている出来事について

1823〜25年頃 『コティディエンヌ』の編集長ミショーへの働きかけ
1829年春 『ル・コレスポンダン』(『ルヴュ・ウーロペエヌ』の前身)への寄稿

(1)本章前段で、ベルリオーズは、『ルヴュ・ウーロペエヌ』誌の創刊時の出来事を語っているが、正しくは、これは、同誌の前身、『コレスポンダン』誌の創刊時の出来事である。すなわち、ド・カルネらが1929年に創刊した『コレスポンダン』は、その後1831年に名称を『ルヴュ・ウーロペエヌ』と改めているが、ベルリオーズは、この経緯を忘れたためか、それとも、叙述を分かり易くする目的であえてそうしたものかは定かでないが、『コレスポンダン』創刊時の出来事を、同誌の当時の名称ではなく、2年後の名称で語っているのである。

また、同誌の創刊者ド・カルネに紹介したとされる友人、アンベール・フェランは、1823年からパリに滞在して法学を学んでいるが、27年にはその履修を終え、出身地ベレー(リヨン東方の都市)に帰っている[出所:ベルリオーズ辞典Ferrandの項(執筆者A.Reynaud)]したがって、『コレスポンダン』が創刊された1829年、彼はもはやパリにはいなかった。そこで、もしこの年に彼がベルリオーズを同誌の関係者に紹介したとすれば、その紹介は、本章で語られているような面談への同行等ではなく、手紙でなされたと考えられる(ちなみに、1829年2月18日付のフェランへの手紙[書簡全集114〜当館未収録]には、「数日前から当地に来ているデュボワが、一昨日カルネに会い、例の雑誌のことを話し合った」、「カルネによれば、彼らは僕に期待しているそうだ(Carné lui dit qu’on comptait sur moi.)」、「僕も20日程前、カルネに会い、彼は何か決まったら連絡すると僕に約束したが、何も連絡がなく、どうなっているのか分からない」等の記述がみられる)。他方、フェランのパリ滞在期間中、ベルリオーズが既にド・カルネを知っていたことを窺わせる資料がある。1825年7月20日付、グルノーブル出身の友人アルベール・デュボワ宛の手紙がそれであり、そこには、「ド・カルネ氏は、その時期パリに居なかったのだが、僕は、いずれにせよ、このことはを非常に残念に思っている」と記されている。ド・カルネがもともとフェラン及びフェランと同じ時期に法学生としてパリに滞在していたデュボワの友人だったこと[ケアンズ1部20章]を考え合わせると、本章の記述については、1825年以前にフェランが行ったかもしれないド・カルネへの引き合わせと、『コレスポンダン』創刊時に彼が手紙で行った同誌関係者への口添えについて、何らかの混同が生じている可能性があると思われる。

(2)本章中段に、「音楽上の論争の世界に手を出そうとして失敗した経験」として語られている、『コティディエンヌ』誌への働きかけがいつ頃なされたのかに関しては、その働きかけの目的(ロッシーニ派の極論に一矢報いたい)が、今日知られているベルリオーズのジャーナリズムの世界での最も早期の活動である日刊紙『コルセール』への投書(1823〜25年。詳細訳注3参照)の内容と概ね一致すること、また、当時の音楽界の状況についての本章中のベルリオーズの言葉(「その頃は、ロッシーニ派の新聞がいくつもあり・・・」)が、これらの投書がなされた頃の状況(イタリア劇場で上演されるロッシーニらイタリア楽派の作曲家のオペラの人気が急上昇し、オペラ座でのグルックらフランス古典派の作曲家の作品の上演が低調になりつつあった)に符合することから、これらの投書がなされた時期とほぼ同じ頃とみてよいであろう。

(3)本章後段で言及されている『ジュルナル・デ・デバ』は、ベルリオーズが後年(1835年[31歳]から1863年[59歳]までの28年間)、音楽批評欄の執筆を担当し、400点近い評論を発表した、フランスの高級政治文芸紙である[出所:ベルリオーズ辞典Journal des débats, politiques et littérairesの項(執筆者A.Bongrain)]


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訳注2/この章に関係する手紙

1829年5月10日、母ベルリオーズ夫人宛
「僕は、近頃創刊された強力な定期刊行物の寄稿者になりました。宗教、政治、哲学、文学を扱う週刊誌で、名称は、『ル・コレスポンダン』です。(中略)ベルリンの『ラ・ガゼット・ミュジカル』誌の社主からも、最近、在フランスの通信員になって欲しいと頼まれました。(中略)当地[パリ]には、僕がこの2誌に寄稿していることを知っている人は、誰もいません。そうでなければ、僕は、良いことであれ、悪いことであれ、思っていることの半分も書けないでしょう。」

1829年6月3日、アンベール・フェラン宛
「ベルリンの『ガゼット・ミュジカル』誌のために通信記事を書く仕事も、ほとんどただ同然で、引き受けている。(中略)『コレスポンダン』誌の方は、まだ1本しか記事が出ていない。僕は、もう1本の記事で、イタリア楽派をやっつけていたのだが、一昨日、ド・カルネ氏から手紙が来て、もう1本は別のテーマで書いて欲しいと懇願されてしまった。(以下略)」

1832年1月8日、アンベール・フェラン宛(ローマ発)
「僕はいま、『ルヴュ・ウーロペエヌ』誌(貴君も知るとおり、『コレスポンダン』誌の新しい名だ)に向けた、イタリアの音楽事情に関する長文の記事を書き上げようとしている。依頼主はド・カルネで・・・」


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訳注3/文章家ベルリオーズの誕生

(1)訳注1に記したとおり、ベルリオーズは、1823年から1825年にかけ、パリの日刊紙『ル・コルセール』に、少なくとも3つの匿名の投書をしている。これらは、以後40年余りにわたるベルリオーズの音楽に関する言論活動の、最も早期のものである。その概要は、次のとおりである。

1823年8月12日号〜同紙が掲載したイタリア楽派寄りの記事への批判、論駁を内容とする、編集者宛の投書。署名「Hector B……」。イタリア音楽の愛好家たち(「ディレッタンティ」)が、オペラ座の音楽家たちによる不十分な演奏を聴いただけで、自ら総譜を確かめることもせず、優れたオペラ[スポンティーニの『ヴェスタの巫女』]に不当な評価を下していることを批判。『フィガロの結婚』[モーツァルトのオペラ]の上演時、あるディレッタンティが劇場で交わしていた、モーツァルトを軽視し、グルックを見下す内容の会話を紙上で再現した上、これに反発を示し、グルック、モーツァルト、スポンティーニ、ル・シュウールの作品は、その一部だけで、ロッシーニの全てのオペラを合わせたものに優る価値がある等の意見を開陳している。(ベルリオーズは当時19歳)

1824年1月11日号〜同紙宛の投書。署名「H.B…..」。「偉大な才能を持つ非常に重要な音楽家」[ベルリオーズの師匠、ル・シュウールのことか]が投書者[ベルリオーズ]に直接語ったという、ディレッタンティの実態(イタリア劇場にしか行かない、スコアも読まず軽々しく作品や作曲家の価値を判断する、作曲家の意図に忠実な表現を行うことで素晴らしい効果を生み出す能力を持つブランシュ夫人[フランス古典オペラの名歌手。『ヴェスタの巫女』の初演者。]のような卓越した芸術家の価値が理解できない等々)を紹介し、同紙にこれらの点について見解を示すことを求めている。(ベルリオーズは当時20歳)

1825年12月19日号〜編集者宛の手紙。署名「H.B.」。パリ・オペラ座でのグルックのオペラ『アルミード』の復活上演を巡って『ロピニョン』紙上で戦わされた論争を取り上げ、自分はグルックの作品を深く研究した音楽家であると明らかにした上で、それぞれの論者の意見を要約、批評している。後段では、『ジュルナル・デ・デバ』紙の匿名批評家(「XXX」氏)が行った『アルミード』への種々の否定的な論評に激しい怒りを示し、「だが、それにしても、人は問うだろう、この容赦なき批判者、正義の騎士、万能の添削者は、いったい誰かと。きっと何処かの大作曲家、叙情詩人、あるいは少なくとも学士院会員ではあるに違いないだろうと。・・・否、その人は、それらすべてに優る人物だ。その人は、カスティル・ブラーズ氏である」と、この批評家の名を明かして文章を結んでいる。(ベルリオーズは当時21歳)
なお、カスティル・ブラーズについては、『回想録』16章(「カスティル・ブラーズのこと」)参照。

(2)本章前段に語られているとおり、ベルリオーズは、その後、ローマ賞の受賞者としてイタリアに渡るまでの間に、『コレスポンダン』誌に寄稿している。それらは、次の3点である。

『コレスポンダン』1829年4月21日号〜『宗教音楽についての考察(Considérations sur la musique religieuse)』。署名「H.」。ベルリオーズは当時25歳。記事の概要はこちら

『コレスポンダン』同年8月4日号、8月11日号、10月6日号〜『外国人の伝記:ベートーヴェン(Biographie étrangère: Beethoven)』。署名「H.」。当時25歳。記事の概要はこちら

『コレスポンダン』1830年10月22日号『古典主義の音楽とロマン主義の音楽の概観(Aperçu sur la musique classique et la musique romantique)』(署名「H.B.」)当時26歳。記事の概要はこちら

これらの文章と、(1)に挙げた『コルセール』紙への一連の投書(取り分け、はじめの2点)とでは、書き手の成熟度に大きな違いがみられる。上掲及びその参照先に示した情報は、それぞれの文章の要約にすぎないけれども、それらを比較するだけでも、この間の書き手の進歩は、十分に感じ取ることができるのではないだろうか。ベルリオーズが、職業芸術家の志望者として、また、一人の若者として、この時期に経験した出来事のあらましは、下記略年表のとおりである。こうした経験を通じ成長、成熟を遂げた25歳、26歳のベルリオーズのペンによって書かれた『コレスポンダン』誌の3つの記事は、彼の後の文章(例えば『回想録』)の特徴である、知性と情熱の見事な均衡、議論のすじみちの明晰さ、詩情の豊かさ、そして、いかなる題材を扱う場合にも決して失われることのない品格を、既に十分感じさせるものとなっている。本章の見出しに彼自身が「批評家となった」と記しているとおり、これらの文章の発表は、「文章家ベルリオーズ」の誕生を画する出来事と位置付けてよいだろう。

(3)訳注1に示した1832年1月のフェランへの手紙にあるとおり、ベルリオーズは、イタリア滞在中に、『コレスポンダン』の創刊者・編集者、ド・カルネの依頼を受け、同誌の後継誌、『ルヴュ・ウーロペエヌ』に、長文の記事を寄稿した。『イタリアにおける音楽の現状についてのあるエンスージアストからの手紙(Lettre d’un enthousiaste sur l’état actuel de la musique en Italie)』(同誌1832年3月15日号)がそれである。

この文章は、彼が帰国後、同誌ほか数誌に寄稿した他のいくつかのイタリアに関する文章とともに、『回想録』の「イタリアの旅」の諸章に、多くの素材を提供している。すなわち、同書「イタリアの旅」のジェノヴァの劇場の音楽についての記述、フィレンツェの劇場と教会の音楽についての記述、ローマの聖体祭の音楽についての記述(いずれも35章)、ローマの東方に位置するアブルッツォ地方の町、スビアコで聴いた野趣に溢れた山人のセレナードについての記述(38章)、ローマの劇場の音楽についての記述、ローマに毎年姿を現すアブルッツォ地方の山国の笛吹きたち(ピフェラーリ)についての記述(39章)、ナポリの劇場の音楽についての記述(41章)は、いずれも、(その後、同書に取り込まれるまでに多少手を加えられてはいるものの、)この文章が初出である。

ところで、近時、ベルリオーズが彼の手紙の下書き又は写しを備忘用に手元に残していた可能性があることが、研究者により指摘されている[ブルーム編『回想録』Introduction p.26, p.34]。家族や友人たちへの彼の手紙に記された内容と『回想録』等の後の文章との間にはしばしば密接な関連が認められること、また、これらの手紙の文章が非常によく整った見事なものである一方、写真等でみるその原本には抹消や加筆の跡がほとんどないことなどから、当館訳者もまた、ベルリオーズは、綿密に下書きした上で手紙を書くこと、また、その下書きを(文通及び後日の文章書きに用いるための)控えとして保存することを、習慣としていた可能性が高いと感じている。いま試みに、このことを『イタリアにおける音楽の現状についてのあるエンスージアストからの手紙』についてみると、フィレンツェの劇場と教会の音楽に関する記述は1831年4月のフェランへの手紙及び同年5月のグネらパリの友人たちへの手紙に、また、スビアコの山人のセレナードに関する記述については、同年7月の家族への手紙に、それぞれ原型となる記述が見出される。そして、それが後に(ここでは触れないが、さらに別のいくつかの文章に取り入れられた上で、最終的に)『回想録』に取り込まれていったのである。このような例は、他にも枚挙にいとまなくみられる。とはいえ、これらの手紙の下書きは、仮に実在していたとしても、残念ながら、後世に伝えられてはいない。すなわち、下書きの存在は、ひとつの仮説に過ぎない。ただ、現存していないという点に関しては、存在していたことが確実な家族・友人その他の文通相手からベルリオーズが受け取った手紙についても、事情はさして変わらない。そのほとんどが(おそらくベルリオーズ本人によって廃棄されために)失われてしまっているのである。

さて、『イタリアにおける音楽の現状についてのあるエンスージアストからの手紙』に話題を戻すと、この文章には、架空の対話相手の質問に答える形で、ローマ賞を受賞した作曲家をローマに送ることの無意味さを説明し、そのような規則を定め、その遵守を求めて譲らないフランス学士院を痛烈に批判する一節が挿入されている。『コレスポンダン』誌の前回記事と同様、この文章は、文末に「H.B.」のイニシャルのみを記す形で、匿名で発表されたものであるが、そのイニシャルとこの記述から、書き手をベルリオーズと特定することは、多少なりとも本人を知る当時の人々にとっては、容易なことだったと思われる。後に見るように、このようなジャーナリズムを通じた学士院批判は、イタリアから帰国した後も、さらに痛烈さを増しつつ、続けられることになる。


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略年表
1821年10月(17歳) 医学を学ぶためパリに出る(『回想録』4章)
1822年 8月(推定)  グルックのオペラを(再び)聴き、作曲家を志す決意を固める(5章)
1823年 1月(19歳) パリ音楽院作曲科教授・学士院会員・王室礼拝堂音楽監督ル・シュウールの私的門下生となる(6章)
   同年  夏(同)   『コルセール』紙に投書
1825年 7月(21歳) 『荘厳ミサ曲』初演(8章)
1826年 7月(22歳) ローマ賞選抜受験(予選失格)
   同年  夏(同)   パリ音楽院に正式に入学(9章)
1827年  夏(23歳) ローマ賞本選参加(『オルフェウスの死』〜演奏不能の判定)
   同年 9月(同)   英国劇団の『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』を観る(18章)
1828年  春(24歳) ベートーヴェンの交響曲(3番、5番等)を聴く(20章)
   同年 5月(同)   パリ音楽院ホールで最初の自作演奏会(18、19章)
   同年  夏(同)   ローマ賞選抜2等賞(『エルミニー』)
1829年  春(25歳) 『ル・コレスポンダン』誌に最初の寄稿

参照文献
本訳注の作成に当たり、同本文中に記載したもののほか、下記を参照した。
音楽評論集1巻
書簡全集1巻

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