手紙セレクション / Selected Letters / 1831年5月6日(27歳)

凡例:緑字は訳注

ニース発、1831年5月6日
グネ、ジラール、ヒラー、デマレ、リシャール、シシェル宛

さあ、グネ君、これを皆に読み聞かせてくれたまえ[Allons, Gounet, lisez-nous ça.]

まずもって、貴君らみなを抱擁する。諸君と再会し、その友情が僕にはとても大切な友人たちと、ようやくこうして音楽、エンスージアズム、天賦の才の持主たち、そして詩について語ることができることは、とても嬉しい。僕は救われた。そして、自分がこれまでより良い状態で再生したことに気付きつつある。心中の怒りさえ、もはや、消えている。・・・僕は、フランスを出て以来、貴君らに便りをしてこなかったから、まずは、自らの旅について語らねばならない。

僕は、マルセーユで、サルディニアのブリッグ[横帆の二本マストの舟]に乗り、リヴォルノに向け、帆走を開始した。普通、まずまずの天気で5日といった行程だが、僕らの場合、それが11日もかかった。最初の一週間は、日暮れまで続くべた凪(なぎ)に、終日辟易させられた。多少なりとも前に進むことができるのは、夜だけだったのだ。退屈を持て余し、僕らは、甲板でピストル射撃をすることを思いついた。標的は、船尾に取り付けられた棒の先に刺した乾パンだったが、船の揺れのせいで、うまく当てるのは非常に難しかった。それが僕らの気晴らしになった。船旅の仲間は、イタリアの軍人たちで、彼らは、モデナで勃発した革命に加わるべく、同地に駆けつけようとしていた。ジェノバの河口付近に差し掛かったところで、突如、アルプスから降りてくる猛烈な風が僕らを襲った。波が次々と昇降口から船内に浸入し、デッキを絶えず水浸しにした。・・・よし!と僕は思った。足りなかったのは、これだ。ちょっとした嵐のひとつも来ないままでは、いかにも残念だ。これは面白くなるぞ!・・・だが、これから話すように、面白さは、少しばかり度を越すようになる。

失われた時間を取り戻そうと、船長が、すべての帆を張ったままにさせていたので、船は舷側に風を受け、ひどく傾いていた。夜、船室で眠ろうとしていると、乗船客の一人が、水夫たちに向かってこう叫ぶのが聞こえてきた。「Coraggio, corpo di Dio ! sara niente. [イタリア語。「ええい、くそっ、勇気を出せ、これしきのことは、何でもないぞ」]」「何とまあ。」僕は思った。「何でもないどころか、これはきっと、深刻な状況になっているに違いない。」僕はそれで、外套に身を包むと、甲板に上がって行った。叫び声に恐怖を感じた4人の士官たちも、僕について来た。

このような光景は、確かに容易に想像がつかないだろう。僕はそのとき、生きることにさして重きを置いていなかったが、にもかかわらず、心臓が早鐘のように打ち出した。思い描いてみてくれたまえ。陸上では思いも及ばないような激しい怒りを露わにして轟(とどろ)く風、次々と海から持ち上げられ、空中に放り出されては元の場所に再び落ち、粉々に砕け散っていく波、そして、いっぱいに張られた14枚の巨大な帆に一気に風を受け、右舷が完全に水没するほど傾いた船を。いましがた僕らがその叫ぶ声を聞いた乗船客は、ヴェネツィアの私掠船の船長で、奇しくも、バイロン卿がエーゲ海を走破するために自費で艤装させたコルベット艦[3本マストの軍艦]の艦長をしていた人物だった。まさに言葉の意味どおりの果断な人だということだ[c’est ce qu’on appelleun crâne.]。数分後、風が一段と烈しさを増すなか、僕らは、彼がフランス語でこう言うのを聞いた。「奴め、俺たちを、あの帆もろとも海の底に沈めちまうつもりだぜ。」僕はそれで、いよいよ覚悟を決めねばならないと悟った。そうなると、心臓はかえって平常どおりの鼓動しかしなくなった。僕は突然、目の前に広がっている幾つもの波の白い谷間を、この上ない無関心をもって眺めるようになった。自分がいままさに優しく揺すられながら最後の眠り[=死]に導かれようとしているに違いないにもかかわらず。デッキは、立っていられないほど傾いていた。僕は、右舷の鉄の部品にしがみつきながら、外套に包まって、手足を動かせないようにしていた。自らを強いて泳げない状態に置くことで無益な苦しみを回避しようと考え、大砲の部品のごとく速やかに海中に沈んでいくことを望んでいたのだ。

危険がますます切迫するなか、我らがヴェネツィア私掠船の船長が、ついに操船の指揮を引き受けた。「Tutti, tutti, al perrochetto,[イタリア語。「皆だ、皆でかかれ、トゲルンスル[トゲルンマスト(下から三番目の継ぎマスト)に掛ける四角い帆]だ!」] 」彼は叫んだ。「s’écria-t-il prestissimo al perrochetto ; ecco la borresca.[同。「全速力でトゲルンスルにかかれ!突風が来るぞ!」]」水夫たちは、彼の指揮に従った。だが、彼らが、絞り綱で帆を絞ろうと、メインマストに突進している間に、風が、最後の猛攻を仕掛けてきて、船をほとんど横倒しにしてしまった。かくて、その場は、見事な修羅場と化した。船内では、戸棚、テーブル、椅子、台所用具など、備え付けられていた調度品や備品が、凄まじい音を立てて崩れ落ち、甲板上では、樽が互いにぶつかりあいながら転げ、大量の海水が浸入して、船は、古い胡桃(くるみ)の殻のように軋(きし)み、操舵手が転倒し、舵が解放された。とうとう沈没のときがきたのだ。だが、恐れを知らぬ我らが水夫たちは、それでも帆桁の高所で帆を大急ぎでたたむ作業をやめなかった。そして、船が少し立ち直ったちょうどその時に一番大きな帆が絞られたため、次の揺れの幅が前より少なくなった。操舵手が舵を放したことで船が自由に向きを変えられるようになり、風に対して縦向きの姿勢を取るようになった。ごく短いその時間は、僕らが窮地を抜け出すに足りるものだった。

そうなると、僕らは大急ぎで排水ポンプに駆けつけなければならなかった。気が変になるほどの騒々しさで怒号が飛び交った。苦難の仕上げに、その後、さらなる危機が出来(しゅったい)した。船室内でランタンが壊れて羊毛の包みの上に落ち、出火していたのだ。僕らはそのことに昇降口から煙が出ているのを見て気付いた。その刹那は、地獄ですらこれほど恐ろしくはあるまいと思ったほどだ。僕にとって幸いだったのは、船酔いに罹らなかったことだ。とはいえ、他の乗船客が極度の眩暈(めまい)に襲われ、階段の途中やデッキの上で倒れては、次々と嘔吐するのを目の当たりにする羽目にはなったが。それは実に気の毒な光景だった[ の意か? cela faisait mal. ]。ひとたび船が立ち直ってからは、帆を一枚だけ揚げ、暴風にも船の傾きにもいささかも心を煩わすことなく航行できるようになった。それからは、風が裸のロープや滑車やシュラウド[帆船のマストを左右から支える索の総称〜小学館ロベール仏和大辞典]に当たってひゅうひゅうと鳴り、それらがあたかもピッコロのオーケストラのような冷笑的で耳障りな音を出すのを聴く、もう一つの音楽会になった。それでも、僕の横にいた水夫は、ただ次のように言うばかりだった。「Oh ! adesso, mi futto del vento ! [イタリア語。「ああ、もう風など構うものか!」]そしてそのとおり、僕らは翌朝、それ以上事故なく、リヴォルノに到着したのだった。ああ、それにしても、何という夜だったことか!月が、雲間を走り抜けながら、ひどくひきつった顔で僕らを眺めていた!その様子はまるで、たいそう急いでどこかへ向かっていて、道を塞いでいる僕らを邪魔に思っているかのようだった。

ローマに着くと、[在ローマ・フランス・]アカデミーがこの地で当面している危険に関し、フィレンツェで広まっていた色々な噂は、少し誇張されてはいたものの、十分に根拠のあるものであることが分かった。トランステヴェレ[「テヴェレ川の向こう側」を意味する地名]地区の住人たちが、フランス人というものは、例外なく革命支持派で、ローマ教皇に敵意を持っていると思い込んでいて、アカデミーに火を放ち、僕ら全員の喉を掻き切ることを望んでいたのだ。彼らは、すでに何度か、庭園の並木道を調べに来ていて、オラス氏[アカデミー館長のオラス・ヴェルネのこと]も、ある小道でその一人に遭遇していた。賊は、外套の下の長いナイフを見せ、彼を脅した。館長はそれで、在館者全員を、2連発銃、ピストルなどで武装させていた。・・・しかしながら、これだけの備えをした挙げ句、実際に起きたことといえば、トランステヴェレの人たちが、迫り来るフランス人の死を題材に、タランテラ[南イタリア起源のテンポの速い舞曲〜小学館ロベール仏和大辞典]1曲を作ったことだけで、彼らはそれを、僕らの居館の窓の下に来て歌ったのだった。僕の到着を待っていた館の同僚たちは、この上なく純粋な好意をもって、僕を受け入れてくれた。それぞれの名前を覚えるのに、4、5日かかった。館では、皆が互いにテュトワ[親しい間柄の呼び方。君・僕、お前・俺に相当。]で呼び合う習慣だったので、僕は四六時中、同僚たちに「ええと、君の名は何といったかな?」と訊き続ける羽目に陥った。

僕は、オラス氏と彼のご家族からも申し分のない歓迎を受けた。殊に、彼の父親、カルル・ヴェルネ老に至っては、僕がグルックの賞賛者だと知ってからは、僕を放してくれなくなってしまったほどだ。「お分かりと思いますが」この人は言うのだった。「貴方の前任のデプレオさんときたら、彼の作品はどれもロココ[18世紀フランスに起こり全ヨーロッパに及んだ装飾様式。ここでは「流行遅れの、古臭い」の含みで用いられている。]だとか、グルックは鬘(かつら)つけた人[ perruque 。「旧弊な年寄り」の意味がある。 ]だとか仰っていたのですよ。」

僕は、メンデスゾーンと会った。モンフォールがすでに彼を知っていたので、僕らはすぐに仲良くなった。彼は驚くべき若者だ。演奏の才能も、音楽上の天賦の才も、非常に優れている。まったく大したものだ[暫定訳。原文「C’est beaucoup dire.」は、現代フランス語では、「それは言いすぎだ」の意とされる〜小学館ロベール仏和大辞典等〜が、メンデルスゾーンの才能に対するベルリオーズの賞賛は、心からの、かつ、全面的なものであったから、ここでの意味は、それとは異なると思われる。]彼が話すことのすべてが、僕を魅了した[Tout ce que j’ai entendu de lui m’a ravi ; ]。当代最高の音楽的才能の持ち主の一人だと、僕は確信している。彼は僕の観光ガイド役も務めてくれた。僕は、毎朝彼に会いに行き、彼は、僕にベートーヴェンのソナタを聴かせる。僕らは、グルックの『アルミード』を歌う。そのあと、彼が僕を、ありとあらゆる有名な遺跡の見学に案内してくれるという次第だ。だが、白状すれば、それらの遺跡に、僕はほとんど心を動かされなかった。メンデルスゾーンは、ごく稀にしかみられない、純真な心をもった人たちのうちの一人だ。彼は、自己の宗派であるルター派の教えを、固く信じている。僕は、あるとき彼の前で聖書を笑い飛ばして、彼をたいそう憤慨させてしまった。ローマ滞在中は、メンデルスゾーンだけが、何とか耐えられる時間を僕に過ごさせてくれた。僕の心は、不安に苛まれていた。僕の誠実な婚約者が、まったく手紙をくれなかったからだ。オラス氏の存在がなかったら、到着の3日後には、この地を発ってしまっていただろう。ローマに来て、彼女からの連絡が一切届いていないことを知ったときの絶望は、それほど深かった。月末になっても手紙が来ないままだったので、僕は、聖金曜日[キリストの復活日前の金曜日。キリストの十字架上の死を記念する日。]、パリで何が起きているのかを知ろうと、給費を受ける権利を擲(なげう)って、帰国の途に着いた。メンデルスゾーンは、僕が本気でそんなことをするとは思っていなかったので、僕を相手に負けた方が3人分の夕食を振る舞う賭けをして、僕がイタリアを出ない方に賭けていた。それで、聖水曜日、僕がオラス氏から帰国旅費の払い出しを受け、馬車の手配をしたことを彼が知ったところで、僕らはモンフォールを加えた3人で食事をした。

フィレンツェで、喉の痛みに襲われた。僕はそこに足留めされ、旅を続行できるようになるまで待たねばならなくなった。その地でピクシスに手紙を書き、モンマルトル街[のモーク夫人の住居]で何が起きているのか、できるだけ早く知らせてくれるよう依頼した。彼からの返事はなかったが、フィレンツェで返事を待つと彼に伝えていたことから、僕は実際、モーク夫人の見事な手紙を受け取るその日まで、同地で待っていた。その間、隔絶された状況の中で、僕が味わった憤激、怒り、憎悪、愛情が混じり合った思いは、言葉には到底表せない。健康は、完全に回復していた。フィレンツェから半リュー[1リューは約4キロメートル]ばかり離れたアルノ河岸の魅惑的な森で、シェークスピアを読んで日々を過ごした。『リア王』を初めて読み、この天才の作品に感嘆の声を上げたのは、そこでのことだ。熱中(エンスージアズム)の余り、僕の心は、破裂せんばかりになった。僕は(実は草の上を)転げ回ったが、それは、感情の昂(たかぶ)りに触発された、痙攣のような不随意運動だった[ je me roulais ( dans l’herbe à la vérité ), mais je me roulais convulsivement pour satisfaire mes transports.]。だが、数日後には、気の鬱(ふさ)ぎが戻ってきた。不安に苛まれ、状況からして当然としか言いようのない様々な思いが、情け容赦なく僕を悩ませた[ je me rongeais le coeur, et mes pensées qui ne se sont trouvées que trop justes, me poursuivaient impitoyablement. ]。ある晩のこと、大聖堂( la cathédrale )が開いていたので、僕は堂内に入っていった。外陣の片隅に座って夢想していると、白衣の苦行会員たち[pénitents blancs ]、司祭たち、燭台と十字架を持った聖歌隊の少年たちの長い列が、聖具室から姿を現した。近くの人に一体何事かを問うと、彼は、こう答えた。「 Una sposina morta el mezzo giorno. [若い奥方が、お昼にお亡くなりになったのです。]」僕は、行列に従った。血が巡り始めるのを感じ、様々な感覚が刺激されることを予感した[mon sang commençait à circuler, je pressentais des sensations. ]。若い女性が亡くなったのだ。彼女を熱愛していた富裕なフィレンツェ人の夫のものである、近くの見事な邸宅で。飾り付けられた棺(ひつぎ)台が運び出されるのを見ようと、夥(おびただ)しい数の人々が、屋敷の門の前に集まっていた。無数の蝋燭(ろうそく)が配られ、それらが暗い街路にひどく風変わりな光を投げかけていた。教会に着くと、司祭たちがそこで勤めを行い、その後、亡骸(なきがら)は会葬者の手に委ねられた。すっかり日が暮れていた。僕は、担ぎ手たちが棺台の装飾を取り除け、小さな棺から新生児の遺体を取り出し、母親の亡骸が納められている大きな棺に移すのを見た。僕はそれで、「スポジーナ[sposina 。イタリア語。「若奥方、新妻」の意。]」は産褥で亡くなり、子供と一緒に埋葬されようとしているのだと分かった。その後どうなるのかが知りたくなり、ふと担ぎ手たちについて墓地に行こうと思い立った。それから、長い道のりを経て、フィレンツェのある遠方の市門の近くに着いたが、そのときはすでに、見物に来ていた群衆は誰も居なくなっていた。ところが、葬列は、墓地には入らず、一種の遺体安置所のようなところで止まった。午前2時、死者を墓地まで運ぶ一台の荷車がやって来るまで、亡骸はそこに預けられるのだ。聖歌隊員の一人が、フランス語で僕に話しかけてきた。「入りたいですか?」――「ええ。」彼は、代金1パオロ(12スー[1スーは5サンチーム。当時の1フランを1000円と仮定すると、1サンチームは10円、1スーは50円、1パオロは、600円となる。])で僕を自分の隣に導くと、安置所の番人に何か耳打ちした。僕は中に入ることが出来た。気の毒なスポジーナは、柩(ひつぎ)から取り出され、この種の地下墓所によくみられる木のテーブルの上に安置されていた。「ご覧なさい、旦那。」聖歌隊員の男が、ある種の喜びの表情をみせながら話しかけてきた。「ここにあるこのテーブルがですな、まあ、どれもこれも死人で一杯になっちまう日が、結構、あるんでさ。ところが旦那、夜中の2時になるとですな、件の荷車がやって来て、それらを全部、運んでいっちまうんで。」・・・「それはよいのですが、このご婦人を見せてもらえませんか。」彼はすぐに亡骸から覆いを取り除けた。そして、ああ 、何と!彼女は、とても美しかった!22歳の若さで、パーケール[目の詰んだ平織り綿布]の見事なドレスが足元で結ばれ、髪にもまだそれほど乱れがなかった。死因は脳内の膿の蓄積に違いなかった。唇と鼻孔から黄色がかった液体が流れ出ていた。僕は、男に彼女の顔を拭わせた。無作法なこの男は、作業を終えると、彼女の頭を台の上に乱暴に放り出した。鈍い音が響き、墓所内のテーブルというテーブルを共振させた。僕は咄嗟に彼女の手を取った。その手はいかにも魅力的で、小さく繊細で、白かった。僕はそれを離せずにいた。彼女の子どもは醜く、胸が悪くなるほどだった。1パオロの代価で、僕はこの美しい人の手を取った・・・彼女の夫が悲嘆に暮れている間に。誰も居なかったら、彼女に接吻していたことだろう。僕はオフィーリアを想っていた。1パオロで・・・。そしてもちろん、2時になって荷車引きが獲物を引き取りに来たときには、このフィレンツェのカロン[ギリシア神話。 冥(めい)府の川、アケロンの渡し守。]は、死者たちから渡し賃を徴収するのだろう。彼女の美しい衣装がそのままにしておかれるはずはなく、彼女はそれを剥ぎ取られてしまうに違いない。1パオロで彼女の手を取り、そんなことを僕は考えていた!

だが、この出来事は、実際、予期せぬ幸運だった。というのも、僕はその翌日、若い方のナポレオン・ボナパルトの葬儀に参列したからだ。あのオルタンス女王の子息で、もう一人のナポレオン[ナポレオン1世]の甥に当たる人だ。亡くなったばかりだったが、その死は折よく訪れたとも言える。革命派として極刑に処される危険が目前に迫るなか、先んじて亡くなったからだ。彼の弟[後のナポレオン3世]と母親[オルタンス]は、その間、アメリカ大陸に逃れつつあった!・・・気の毒なオルタンス!何という人生の浮き沈みだろう!40年前、彼女は、当時まだボーアルネ夫人に過ぎなかった母親のジョゼフィーヌに伴われ、サント・ドミンゴから渡って来た。陽気なクレオール人[西インド諸島、ギアナなどの旧植民地で生まれた生粋の白人およびその子孫~小学館ロベール仏和大辞典]で、船上では黒人奴隷のダンスを踊り、カリブ族[ヨーロッパ人の進出以前に小アンティル諸島を中心に住んでいた民族~同]の歌を水夫たちに聴かせていた。彼女はいま、息子の一人を反革命派の斧から救うため、同じ大洋を再び渡りつつある。夫とは、フィレンツェで離別した。この人こそ、現代で最も偉大な人物[ナポレオン1世のこと]の養女、ヨーロッパ大陸からの亡命者、大切にされていた国フランスからの被追放者、王国も王権もない女王、悲嘆に暮れた母親、孤児、事実上の寡婦、忘れられ、見棄てられた女(ひと)だ。

教会に入るときに僕の心を捕らえていたのは、こうした様々な考えだった。それらは、パイプオルガン奏者にとって感情表出の意欲を大いにかき立てる題材に違いないと、僕には思われた。ところが、このときの弾き手は、奏者の名にも値しない輩(やから)だった![mais cet homme n’est pas un homme ! ]あろうことか、彼はピッコロ・ストップを引き、晴れた冬の日のミソサザイ[よくとおる美声をもつ小鳥]よろしく陽気で軽い歌曲の旋律(  petits airs gais  )を弾いていたのだ。

ああ、イタリアの人々よ、まったくもって哀れを催す人たちだ、ベリーニ、パッチーニ、ロッシーニ、ヴァッカイ、メルカダンテの作品のようなオペラを作り、かの偉大な人物[ナポレオン]の甥の葬儀に陽気で軽い歌曲の旋律を奏し、1パオロで・・・している、猿か、オランウータンか、いつでも薄笑いを浮かべているあやつり人形のような君たちは!我慢のならないごろつきどもめ!

その2日後、このような精神状態で過ごしているときのことだった、モーク夫人から娘のプレイエルとの結婚を知らせる手紙が届いたのは!・・・それはまさに、厚顔無恥の見本のような手紙だった!実際に見なければ、とても信じられないだろう。この厄介事がどのように始まったかについては、誰よりもよくヒラーが知っているし、僕がパリを出るとき、彼女と交換した婚約指輪を指に付けていたことは、僕自身が知っている。「私のお婿さん」云々と、夫人は僕を呼んでいたのだ・・・。ところが、この驚くべき手紙では、その同じ夫人が、僕が求めた彼女の娘との結婚の承諾を、自分は一切与えていないと言い、僕に自殺したりしないよう、大いに勧めることまでしている。大した食わせ者だ!

ああ、あと150リュー[1リューは約4キロメートル]ばかり近くに、僕がいたのだったら!だが、ここまでにしておこう。僕がしたことや、しようとしたことは、とても手紙に託せる性質のものではない。ただ、[モーク夫人の]この忌まわしく、卑劣で、不実で、胸が悪くなるような下劣な行いがあったことの結果として、僕がいま、ここニースまで来ていることを、貴君らに告げておく。ここには11日間ほど滞在しているが、それは、この場所がフランスに近いこと、家族と迅速に連絡を取る差し迫った必要があることが理由だ。妹たちは、一日おきに手紙をくれている。彼女らと僕の両親の怒りは頂点に達しているが、彼らは僕がこんな女性に捕まらずに済んだことを喜んでもいる。

僕はこのとおり回復し、普段どおり食事もしている。とても長い間、ただオレンジを貪ることしかできない状態だったのだ。結局のところ、僕は救われ、彼女ら[モーク母娘]も命拾いした。僕は、この上ない喜びをもって、生へと帰還した。僕はいま、音楽の両腕に身を委ねている。そして、かつてないほど、友に恵まれていることの幸福を感じている。貴君らにお願いする。リシャール君、グネ君、ジラール君、デマレ君、ヒラー君。各々別に一通ずつ、僕に手紙を書いてくれないか。僕は、伊仏国境を越えることはしない。ヴェルネからの手紙が昨日、届いた。時間はまだあり、僕の給費受給権は失われていないとのことだった。僕は手紙で、自分の名誉に賭け、イタリアの地を離れないことを彼に約束していたのだ。それには、機会を捉えて自分自身を縛り付ける意味があった。そうでもしなければならない理由が、僕にあったのだ[J’ai profité d’un bon moment pour me lier ainsi. J’avais debonnes raisons pour le faire. ]

グネ君。ヴェルネ嬢が貴君の歌曲を歌い、貴君の詩風は優美さと瑞々しさに溢れていると感想を語っていた。

ドイツ劇場はオープンしたのだろうか。それから、パガニーニは?・・・『オイリュアンテ』[ウェーバーのオペラ]は、その後、どうなっただろうか?あのろくでなしのカスティル・ブラーズに、またしても総譜を切り刻まれ、他人の手や足[他の作曲家の作品の一部]を繋ぎ合わされてしまったのだったが。あと、ベートーヴェンの合唱付きの交響曲。これらのことについて、僕に知らせてくれたまえ。

ジラール君、貴君は、『オリドのイフィジェニー』を上演しようとしているのだろうか。・・・ああ、そういえば、どうか許してくれたまえ、さるローマのご婦人宛ての貴君の手紙を、僕は失くしてしまった。重要なものでなかったらよいのだが。デマレ君、オペラ座では、いま何を演っているのだろうか。・・・ヒラー君、してみると、君の演奏会は開催されなかったのか?・・・さて、次は君だ、リシャール君、いったいどうしてLoëve-Weimar の新聞や雑誌[ journaux ]で、ベートーヴェンの交響曲の翻訳者として言及されることになるのか?・・・僕は唖然としている。[comment se fait-il que j’aie vu dans les journaux Loëve-Weimar cité comme traducteur de la Symphonie de Beethoven ? … Cela me confond. ]。報せてくれたまえ、グネ君、新婚のオーギュストは、新しい世帯で幸福に過ごしているだろうか。・・・親愛なシシェル君、患者は大勢来ているだろうか?・・・

1830年6月6日、・・・して以来[この日、カミーユと駆け落ちしたことを指しているとみられる]、僕が守ってきた節操を、最近、気散じに解いた話をしよう。

その恋人を、僕は自分の住まいに連れていく気はなかった。僕はそれで、前に見つけていた海沿いの洞窟へと、彼女を導いた。ところがそこへ入って行くと、奥の方から、猪か熊のような誰かの唸り声が聞こえてきた。その場所で寝ている船乗りの鼾(いびき)か、あるいはもしかすると、キャリバン[シェークスピアの戯曲『あらし』に登場する怪物]その人の声だったのかもしれない。僕らは彼をそっとしておくことにして、僕らの結婚は、もっと先の、まさしく 海辺の砂の上で祝われた。海は荒れていた。次々と寄せる波が、僕らの足許で砕けていた。夜の風が激しくひと吹きし、僕は、シャクタスとともに、心の中でこう叫んでいた。「僕らの野生の愛の崇高に似つかわしい、婚儀の荘重さよ!」さあこれで、僕が治癒したことが、貴君らにも分かっただろう。[シャクタスは、シャトーブリアン『アタラ』の登場人物。アタラの恋人で、二人の恋愛の物語をルネに語る。]

僕はいま、窓から海が見渡せる、素晴らしい部屋にいる。絶え間ない潮騒にもすっかり馴染んでしまった。朝、窓を開け、波頭が白馬の群れの揺れ動くたてがみのように駆け寄って来るのを観るのは、素晴らしい経験だ。僕のいる館が建っている岩壁を揺るがす、大砲の音のような波の轟きに耳を傾けながら、僕は、眠りに落ちる。

ニースは、その位置の故に実に魅力的な小さな街だ。海と山は、清々しく、淡い紅色をしている。僕は時折、手足を骨折する危険を冒して岩場歩きをしている。先日は、絶壁の縁に廃墟になった塔があるのを発見した。その前に小さな腰掛けがあったので、僕はそこで日に当たりながら寝そべり、沖合に遠くから船が到着する様を眺めた。僕は漁師たちの小舟の数を数え、(トマス・ムーアによれば)何処かにある幸福で平穏な島へと僕らを導くに違いないという黄金色に輝く小道[ces petits sentiers. 航跡のことか]にみとれた。それは・・・そう、そのとおり!まさしく僕らの歌曲集のリトグラフ(石板画)の情景そのものではないか。グネ君、これは本当のことだ[C’est, parbleu ! en nature le sujet de la lithographie de nos mélodies; Gounet, c’est tout à fait cela. ]。リトグラフといえば、ローマで、肖像画を描いてもらった。何の価値もない代物だ。ただ、ある彫刻家が作ってくれたハーフサイズの石膏メダルは、僕に生き写しだ。

さあ、今回はこれで十分だろう。貴君らがなるべく早く手紙をくれることを期待している。僕の滞在先は次のとおり。ニース海岸、ポンシェット通り、ナポリ領事、クレリシ館、ピカル未亡人方、H.B.

さようなら、諸君。さようなら。

貴君らの誠実な友。

追伸

ピクシス、シナ、シュレザンジェ、A・ヌリ、セゲール、アブネック、トゥルブリ、ユランに宜しく。序曲『リア王』を、ほとんど書き終えた。あとはオーケストレーションの仕上げをするだけだ。僕は大いに仕事をするつもりだ。(了)[書簡全集223]

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