『回想録』 / Memoirs / Chapter 41

目次
凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

第41章 ナポリへの旅のこと、エンスージアストの兵士のこと、ニシタ島渡航とラザローニのこと、彼らに夕食に招かれたこと、鞭の一打ちのこと、サン・カルロ劇場のこと、アブルッツォの山々を越えローマに歩いて帰ったこと、ティヴォリのこと、再びウェルギリウスのこと

ナポリ!!!澄み渡った空、朗らかな太陽、肥沃な大地!

この素晴らしい豊穣の地については、多くの人が、私には望んでも書けないような見事な文章を書いている。実際、その見事な景観に心を打たれなかった旅人があるだろうか!真昼、午睡する海の紺碧のドレス。そのふんわりとしたプリーツを彼女[海]が穏やかに揺らす音。その心地よさに感じ入らなかった者があるだろうか!真夜中、ヴェスヴィオ山の火口をさ迷い、山の内部の鈍い轟音、その口から漏れる怒りの叫び、繰り返される噴火、火と燃える冒涜の言葉のように天に放たれ、山の首に落ちてきて転がり、止まり、広大なその胸できらめく首飾りとなる途方もない量の熔融した岩石に、漠とした畏れの感情を覚えなかった者があるだろうか!さらには、あの荒れ果てたポンペイの遺構を悲しい気持ちで逍遥しない者が、あるいはまた、この街の円形劇場の階段席のたった一人の観客となり、その舞台が今なお彼らのために用意されているかのように感じられるエウリピデス、ソフォクレスの悲劇の開演を待たない者があっただろうか!そして、この土地で群れをなす感じのよい子どもたち、明るく、吹っかけやで、機知に富んでいてひょうきんで、時として無邪気に人のよい、ラザローニ[lazzaloni〜ナポリの下層民。この語は複数形で、後出のラザローネ(lazzalone)が単数形]の仕来(しきた)りに、少しばかり気前よくつきあわない者があっただろうか?

それゆえ、それら数多(あまた)の文筆家の領分に踏み込むことは控えよう。だが、ナポリの漁民たちの気性を見事に示す、ある出来事をここで語る喜びにだけは、抗うことができない。それは、私がナポリに着いて3日目、彼らラザローニが、私にふるまってくれたごちそうと、食後にくれた贈り物の話である。そしてそれは、秋のある晴れた日のことで、その日は爽やかな微風が吹き、空気は澄み渡り、ナポリから腕を少し伸ばすだけでカプリ島のオレンジが摘めそうに感じられるほどだった。私は、ヴィラ・レアーレ(la villa Reale)[「王の別荘」の意。現在のヴィラ・コムナーレ(Villa Comunale)]を散策していた。その日は、ローマのアカデミーの同僚たちに頼み込んで、独りで自由に行動する了解を取り付けてあったのである。そうして、とある小さなあずまやを見過ごし、その前を通り過ぎようとしたときのことである、あずまやの入口で歩哨に立っていた一人の兵士が、突然、私にフランス語で言った。

「脱帽願います。」
「どうしてですか?」
「ご覧なさい!」

彼は、あずまやの中央にある大理石像を指し示した。私は、台座に刻まれた二つの単語を読み取るや、このエンスージアストの兵士が求めたとおりの表敬の動作をした。そこには、こうあったのである。「トルクアート・タッソー」[16世紀イタリアの詩人]。確かにそのとおり、的を射た指摘だ![Cela est bien ! cela est touchant !]・・・だが、私は今でも、この詩人像の見張り番が、いったい何故、私がフランス人で、芸術家で、彼の指示に喜んで従うと分かったのか、不思議に思う。まったく大した人相見もいたものである!ラザローニの話を続けよう。

こうして私は、気の毒なタッソーのことを思いつつ、すっかり心を動かされた状態で、海岸をそぞろ歩いた。その数か月前、私はメンデルスゾーンと、この詩人の慎ましい墓を、心から詩人だった詩人たちの不幸についてその他、種々の哲学的な問題をひそかに考えながら、ローマの聖オノフリオ(Sant-Onofrio)の修道院に訪ねたのだった。突然、タッソーがセルバンテスを私に連想させた。連想は、セルバンテスから彼の魅惑的な牧人物語(pastorale)、『ガラテア』へと、『ガラテア』からこの物語に登場し、女主人公[ガラテア]の脇で輝く、ニシダ(Nisida)という名の魅力的な女性へと移っていき、ニシダから、美しいその名と同じ名前の、ポッツオリ湾に浮かぶ島(原注1)に至った。出し抜けに、私はその島を無性に訪れたくなった。

私は島を目指し、駆け出した。ポジリポの丘の洞窟に入り、それを抜けても、まだ私は走っていた。海岸に着いた。小舟があったので、雇い上げることにした。4人の漕ぎ手を求めたところ、6人で漕ぐという。私は、胡桃の殻のような小舟でニシダ島に渡るのに6人もの漕ぎ手は要らないことを説き、相応の代金を示した。ところが、彼らは、にこにこしながら、せいぜい5フランの仕事に、およそ30フランもの金をせがんでくる。私は上機嫌だった。2人の年下の少年たちが、何も言わず、離れた場所で羨ましそうにしていた。私は、漕ぎ手たちの厚かましい要求が可笑しくなってしまい、その2人のラザロネッティ[「小さなラザローニ」の意]を指すと、彼らに言った。
「・・・分かった!よし、30フランだ。その代わり、8人で、力いっぱい漕いでくれ。」
年かさの少年たちも、年下の少年たちも、歓声を上げ、踊り上がった!我々は舟に跳び乗り、何分か後には、ニシダ島に着いていた。私は、「乗組員」らに「船」を見張らせ、島に上陸した。島内を隈なく歩き、『アエネーイス』の作者[ウェルギリウス]に美しく歌われたミセヌム岬の向こうへ日が傾くのをみた。そして、私がそうしている間中、ウェルギリウスのことも、エネアスのことも、アスカニウスのことも、ミセヌスのことも、パリヌルスのことも、みな忘れてしまった海が、きらめき、美しく調和する無数の調べを、長調で陽気に歌っていた・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・

こうしてあてなく歩いているうちに、非常に流暢なフランス語を話す軍人が一人私に近づいてきて、島の様々な名所や風景が最も美しい場所等を案内すると言う。私は二つ返事でこの申し出を受け入れた。1時間ほど経ち、観光が済んだところで、習慣どおり心づけを渡そうと私が財布を出しかけると、彼は後ずさりし、ほとんどむっとした様子で私の手を押し戻して、こう言った。
「—-何をするのですか、私は何も要りません。・・・ただ・・・私のために祈ってください。」
「—-もちろん、そうしよう。」財布をポケットに仕舞いながら、私は思った。「この人の考えることはいかにも奇妙だが、誓ってそうしないわけにいくまい」。
実際には、その夜、寝床に就くとき、たしかに一度は大真面目にこの善良な下士官のために主の祈りをとなえたのだが、二度目は、吹き出してしまった。それゆえ私は、この気の毒な人が出世できず、昔と変わらぬ下士官のまま終わったのではないかと危惧している。

・・・・・・・・・・・・・・・

何事もなければ、私は翌日までニシダ島に留まっただろう。だが、乗員の一人が「艦長」の「派遣」で私を「呼び」(héler[船や船員に呼びかけるときに用いられる言葉。このパラグラフの少し前から、文章中に海事に関わる言葉が頻出し、話者のイマジネーションがウェルギリウスの世界に入っていくことが予示されている。なお、これらの言葉(本訳では鉤括弧「 」で表示)は、原書ではイタリック(傾斜書体)の活字で示されている。])に来て、風が強まっているから、急ぎ「揚錨」、出航しなければ本土への帰着が難しくなると言う。思慮に富んだこの意見に従い、私は、離島することにした。かくして、各員船で位置に着き、トロイアの英雄らにも喩(たと)うべき艦長は、

・・・・・・Eripit ensem
Fulmineum
(大きなナイフの鞘払い、)

strictoque ferit retinacula ferro
(素早い動作で綱を切る。)

Idem omnes simul ardor habet; rapiuntque, ruuntque;
Littora deseruere; latet sub classibus oequor;
Adnixi torquent spumas, et coerula verrunt.
(総員大いに意気に燃え、胸に幾らか恐れ秘め、わき目もふらず突き進み、
岸辺を離れ、漕ぎ急ぐ。櫂(かい)は水面(みなも)を泡立てて、
海は覆わる・・・[艦隊ならぬ]我らの小舟に)

括弧内は筆者[ベルリオーズ]の自由訳

[ウェルギリウス『アエネーイス』第4歌、英雄エネアス率いるトロイア勢のカルタゴ出航の場面(ラテン語)を、ベルリオーズのニシダ出航に合わせてユーモラスに脚色して仏訳したもの。なお、ラテン語テクストは原典のとおり変更なく、その意味内容(「Idem」以下)は概ね次のとおり。「同時に同じ情熱が全員を支配した。彼らは急ぎ、突進した。彼らは岸を離れた。海は艦隊の下で見えなくなった。彼らは力を込めて泡を飛ばし、青い海をすべるように進んだ。」]

ところが海は危険な状態になっていて、我々の小舟は並外れた大きさの白波の上で盛んに揺れた。私が雇い上げた屈強な男どもは、もはや笑わなくなり、ロザリオ(数珠)を探し始めている。すべてがひどくばかばかしく思われてきた私は、次のように自問していた。いったいどうして、私は溺れようとしているのか?文学通でタッソー賛美者の兵士のせいか?いや、もっと些細なこと[pour moins encore]、つまり、帽子のせいだ。なぜなら、もし私が帽子を被らずに歩いていたら、あの兵士も私を呼び止めはしなかっただろうし、私もアルミード[タッソーの叙事詩『エルサレム解放』に登場する魔女]を歌った詩人のことや、『ガラテア』の作者[セルバンテス]のことや、ニシダのことを考えはしなかっただろうから。この愚かな島歩きもしなかっただろうし、今頃はきっと、サン・カルロ劇場にゆっくり腰を落ち着けて、ブランビラやタンブリーニの声に耳を傾けていたに違いない!こんなことを考えていたせいと、難破に瀕した船の揺れのせいで、実際、私はすっかり気分が悪くなってしまった。だが、海の神は、冷やかしはもうこれで十分と判断したものとみえ、我々に着岸を許してくれた。それまで黙りこくっていた「水夫」たちも、カケスのように賑やかにしゃべりだした。その喜びが大きかったせいもあるにせよ、彼らは、私が彼らにせしめ取られることに同意していた30フランを受け取ると、良心の呵責を感じ、正真正銘の善良さをもって、私を夕食に招いてくれた。私は、その招待を受けることにした。彼らはポプラ林の中をポッツオリに通じる街道を進み、ひどく遠くの人気(ひとけ)のない場所に私を案内した。私が次第に彼らの無邪気な意図を邪推しはじめた(気の毒なラザローニ!)頃、彼らのよく知っている一軒の田舎造りの食堂(chaumière)に着いた。わがアンフィトリオン[「歓待する人」の意。モリエールの喜劇『アンフィトリオン』で同名の登場人物が接待者として大宴会を催すことから〜出所:小学館ロベール仏和大辞典]たちは、急いで宴のための注文を出した。

ほどなく、湯気の立った一皿の小山のようなマカロニが出され、彼らに倣(なら)いそれに右手を突っ込んで食べるよう勧められた。テーブルにはポジリッポ・ワインの大きな壺が置かれ、我々は、歯の抜けた老人を先頭に、それを順番に回し飲んだ。2番手が私で、この善良な若者たちの間では、年長者に払うべき敬意は客人に尽くすべき礼儀に優先すべきものなのだった。老人は、ひどくたくさん酒を飲んでから政治の話をはじめ、大切にしているジョアシャン王[ジョアシャン・ミュラ。ナポレオンの騎兵指揮官として活躍し、ナポレオンの妹と結婚、元帥に昇任し、その後、ナポリ王に任じられた]の思い出を、感情を込めて語った。若いラザローニたちは、彼に気晴らしをさせ、私に娯楽を提供するため、老人に思い出話をせがんだ。それは、この老人がかつて経験した、有名な長く困難な航海の話だった。

老ラザローネ[ラザローニの単数型]は、そこで、20歳の頃、彼がいかにして一艘の「スペロナーレ」[沿岸航行用の小帆船]を操って「3日と2晩」洋上に留まり、「絶えず新たな岸辺へと駆り立てられ」つつ航行を続けた結果、ついに、後にナポレオンがそこに流されたという、現地民がイゾラデルバ[エルバ島]と呼ぶ、遥か遠くの島に打ち寄せられたかを物語り、聴き手の私を非常に驚かせた。私は、この途方もない話に大いに心を動かされ、それを様子に表すとともに、それほどまでの危険をくぐり抜けたこの勇敢な船乗りに、心から賛辞を述べた。そのときから、ラザローネたちは、彼らの「閣下」[ベルリオーズを指す。ナポリ発1831年10月5日付の手紙から、当時、ナポリの庶民が外国人観光客に「閣下」と呼びかけていたことが窺われる。]に深い共感を表して色めき立ち、互いの耳元に何ごとかをささやきあいながら、謎めいた様子で店を出たり戻ったりしはじめた。どうやら、私を驚かせるために何かが準備されているようだった。事実、私が彼らに暇(いとま)乞いをするために立ち上がると、若いラザローニのうち一番年長の者が、気恥ずかしげに私に声をかけ、仲間たちの名において、また、彼らの親愛の情の証(あかし)として、記念の品を受け取ってくれるよう、私に懇請したのである。それは、彼らが提供しうる最も素晴らしい贈り物で、いかに無感動な者にも涙を流させずにはいない品だった。彼らは私に、巨大なタマネギひとつと、並外れて大きなネギを一本、贈ってくれたのである。私は、その場に似つかわしい謙虚さと厳粛さをもってそれらを受け取り、幾つもの別れの言葉を彼らと交わし、握手し、変わらぬ友情を誓いあった後、ポジリポの丘の頂まで持ち帰った。

・・・・・・・・・・・・・・・

この善良な若者たちと別れて間もなくのことである。私は、ニシダ島を離れる際、右足を痛めたせいで、歩くのに難儀していた。辺りはほぼ暗くなっていた。ナポリ方向へ進む、きれいな小型4輪馬車が、そこに通りかかった。私は、従者がいないために空きになっている後ろの腰掛けに飛び乗り、労せずナポリに帰り着こうという、行儀のわるい[peu fashionable]気まぐれを起こした。だが、まさかモスリンに身を包んだ小粋なパリジェンヌが車内に君臨していようとは、思いもよらなかった。刺(とげ)のある優しげな声が、たちまち御者に飛んだ。「ルイ、後ろに誰かいるわ!」御者が鞭を揮(ふる)い、私は、したたかな打撃を顔に被った。それがこの優雅な同国人からの贈り物だった。フランス人形め!この場にクリスピーノがいさえしたら、君も暫し特別な時間を過ごしたところだぞ!

どうにかこうにか再び歩き始めた私は、山賊の暮らしの魅力を思っていた。相応の苦労はあるにせよ、それは昨今、まっとうな人間に相応しい、ただ一つの稼業であるまいか。もしその最小の集団にもこれほどのばかでお高いろくでなしどもがいるのでないのなら![Je revins donc, clopin-clopant, en songeant aux charmes de la vie de brigand, qui, malgré ses fatigues, serait vraiment aujourd’hui la seule digne d’un honnête homme, si dans la moindre bande ne se trouvaient toujours tant de misérables stupides et puants !〜原文「si」以下文意不詳につき、「もし」以下は暫定訳。]

心を落ち着け、身体を休めようと、私はサン・カルロ劇場に赴いた。そこで私は、イタリアに来て初めて、音楽を聴いた。オーケストラは、それまでに耳にしていたものに較べ、卓越したものと思われた。管楽器は安心して聴くことができた。彼らには心配すべき点が一切なかった。ヴァイオリンも十分達者だった。チェロもよく歌っていたが、数が少なすぎた。イタリアで一般的に採られている、チェロの数をコントラバスよりも常に少なくするやり方は、イタリアのオーケストラが通常演奏する音楽のジャンルを考慮に入れても、妥当とはいえない。また、楽長が少々無遠慮に指揮台をヴァイオリンの弓で打って出す、この上なく不快な音も、私としては大いに咎めたいところだった。ところが、彼が指揮する奏者たちは、これがないと混乱して拍子を外してしまうことがあるのだそうだ。・・・そう言われては、言葉の返しようがない。というのも、結局のところ、器楽というジャンルがほとんど知られていない国では、ベルリン、ドレスデン、パリにあるようなオーケストラを要求することは、できない相談だからである。合唱隊員たちは、非力の極みにある。サン・カルロ劇場に作品を書いていたある作曲家によると、4部で書かれたコーラスを、彼らにきちんと歌わせることは、不可能とは言わないまでも、非常に難しいそうである。ソプラノがテノールから独立した旋律を歌うことに非常に難儀するため、作曲家は、ほぼ恒常的に、2つのパートをオクターブで重ねて書かざるを得ないというのである。

フォンド劇場では、オペラ・ブッファ[喜歌劇〜イタリア語]が、この劇場に大方のオペラ・コミック[同〜フランス語]劇場に対する明らかな優越を保証する生気、情熱、活気をもって、上演されていた。私の滞在中の彼らの演し物は、ドニゼッティの大変面白い滑稽劇(farce)、『劇場の都合と不都合(Les convenances et les inconvenances du théâtre)』であった。

それでもやはり、ナポリの劇場の魅力は、近郊探検の魅力に太刀打ちできるものではなく、私が市内にいるより郊外に出ていることの方が多かったことは、ご明察のとおりである。

ある朝、海洋画家のミュニエ(我々は彼にネプチューン[ローマ神話の海の神]なる渾名を奉っていた)とカステラマーレで朝食をとっていると、ナプキンを放り出しながら、彼が私に言う。
「さてどうするか。ナポリにはうんざりだ。あそこに帰るのはやめにしよう・・・」
「シチリアへ行くか。」
「よし、それだ。シチリアへ行こう。描きはじめた習作だけ、仕上げさせてくれ。5時に蒸気船の席を確保しに行こう。」
「よしきた。資産はどうか?」
それぞれ財布を点検したところ、パレルモに行くには十分だったが、そこから帰ってくるには、坊さんたちの言う、神のみこころを当てにせざるを得ない状態だった。よって、フランス人の常として我々には「山を動かす」[聖書の言葉]ほどの徳がまったく欠けていたから、神を試すべきではないと判断し、各自別行動を取って彼は海を描きに行き、私はローマまで歩いて帰ることにした。

その計画は、数日前から暖めていた。その晩、ナポリに戻り、デュフとダンタンに別れを告げた後、偶然にも、知り合いの2人のスウェーデン士官に出会った。彼らは歩いてローマに行くことを計画していて、そのことを私に話した。
「そうだろうとも!」私は彼らに言った。「僕も、明日、スビアコを目指して出発するつもりだ。山を越え、一直線に進む。シャモア[高山に棲むヤギに似た動物]撃ちの狩人のように、「岩場、急流、乗り越えて」[スイスのジュネーヴ近郊の農夫の作とされる牛追い歌の1節。ベルリオーズは、イタリア滞在中、この歌の旋律と歌詞を恩師ル・シュウールの夫人に宛てた手紙(ローマ発1931年7月2日付、書簡全集233)に書き写して送っている]ね。一緒に行動しようじゃないか。」

いかにも突飛な考えだったが、両氏とも、同意した。我々は、直ちに荷物を御者に託して送り出し、それから、鳥の飛翔のような最短ルートでスビアコへと向かい、同地で1日休養した後、街道を進んでローマに帰ることを取り決めた。そしてそのとおりにしたのである。3人とも、お決まりの灰色の亜麻の上着を身に付けていた。B・・氏は、スケッチブックとクレヨンを持った。我々の護身具は、杖2本だけだった。

時あたかも葡萄の収穫期で、初日はほぼ、見事な葡萄(ヴェスヴィオ山の葡萄には及ばなかったが)だけを食糧にした。農夫たちは決まってお金を受け取らなかったし、ときには畑の持ち主に訊ねる手間を省いたこともあった。

その晩、我々はカプアで、「上等の夕食とねぐら」[ラ・フォンテーヌ(『寓話』)の言葉]、それに・・・ある即興歌手を見出した。

この善良な人物は、彼の大きなマンドリンで、ひとしきりきらびやかな前奏を聞かせると、我々がどこの国の人間かを尋ねてきた。
「フランス人さ」Kl・・rn氏が答えた。
私は、このカンパーニア地方[イタリア南部]のテュルタイオス[古代ギリシャの詩人。兵士称揚の詩を作ったという〜出所:小学館ロベール仏和大辞典]の即興演奏を、一月前に、すでに聴いていた。彼はそのときも、私の旅の道連れに同じ質問をし、相手はそれに「ポーランド人さ」と答えたのだった。
すると彼は、大いに熱情を込め、次のように歌った。
「世界中を股にかけ、わたしゃ旅して歩いたよ。イタリア、スペイン、フランスに、ドイツ、イギリス、ポーランド、ロシアの国まで訪ねたが、真の勇者はポーランド、ポーランド人が一番さ。」

今回も彼は、いささかの躊躇もなく、3人の自称フランス人を前に、前回同様、即興の伴奏で、次のように歌った。

[訳注:譜例の歌詞(イタリア語)は、本文中のそれとほぼ同内容。ただし、ポーランド、ロシアは、旅した国に挙げられていない。また、最後に持ち上げられているのは、ポーランド人ではなく、フランス人である。]

私がどれほど得意になり、2人のスウェーデン人がいかに悔しがったか、お分かりいただけると思う。

アブルッツォ地方に完全に入り込む前にサン・ジェルマーノに1日滞在し、有名なモンテ・カッシーノ修道院をみた。

この修道院は、同じベネディクト会のスビアコの修道院と同じく丘の上に建っているが、どの点においても、スビアコの修道院には少しも似ていない。[スビアコの]聖ベネディクト修道院の人を魅了する素朴で個性的な飾りの気なさとは対照的に、ここで見出されるのは、宮殿のような豪華さと規模の大きさである。聖堂ひとつを建てるために用いられた稀少な資材や物品の調達費の莫大さを思うだけでも、人はたじろぐ。ひどく奇妙な天使の飾りが付いたオルガンがあり、弾くと、その人形たちがトランペットを吹いたりシンバルを打ったりする。聖堂前広場にはこの上なく稀少な大理石が敷かれている。内陣の木椅子には、修道生活の様々な場面を示す精緻な彫刻が施されていて、美術愛好者たちは、聖歌が歌われている間、それに見とれることができる。

強行軍の結果、サン・ジェルマーノからイゾラ・ディ・ソラへは、1日で到達できた。この町は、ナポリ王国の[教皇領国家との]境界付近にあり、小さな川が、周辺のいくつかの工場に動力を提供した後、非常に美しい滝を作っている点が特徴である。我々はこの町でたいそう奇妙なたぶらかしに遭った。Kl・・rn氏と私は、足に血豆ができており、また、3人ともひどく喉が渇き、疲れ果て、焼けるように熱い埃にまみれていたから、この町に着いて最初にしたことは、ロカンダ(宿屋)を探すことだった。
「エ・・・ロカンダ・・・ノン・チェ・ネ(-E…locanda…non ce n’è,)[さて、宿屋ね・・・ここにはないね]」農夫たちは、からかい、蔑むように答えた。
「マ・ペロ・ペル・ラ・ノッテ・ドヴェ・シ・ヴァ?(Ma però per la notte dove si va?)[でも、夜はどこへ行けばよいのですか?]
「エ・・・キロサ?・・・(-E…chi lo sa?…)[はて、誰が知っていようかね?]
我々は、とある粗末な道具置場で一夜を過ごさせてもらうことを請うた。藁屑すらない場所だったが、持ち主は、それをも断った。我々の苛立ちは、この田吾作どもの平然とした様子と薄笑いとでいっそう強められ、筆舌に尽くせぬほどだった。このような商いの盛んな小市場町で、宿の一つすら、もてなしてくれる家の一軒すら見出せず、路傍での夜明しを余儀なくされるとは、あまりのことだったが、ちょうどそのときある記憶が私の頭をよぎらなければ、まさにその事態に陥るところだった。

このイゾラ・ディ・ソラの町には、以前に1日滞在したことがあった。そのため、私は幸いにも、製紙工場を経営しているフランス人、クリエ氏の名を思い出した。辺りにいる人々のなかに彼の兄弟がいることが分かり、その人に窮状を説明すると、彼は一瞬の沈思の後、フランス語で(ドーフィネ語でといってもよいだろう。この方言は、訛りというより、ほとんど固有語のようなものだからである)、穏やかに応えた。
「――もちろん!お泊めしましょう。」
――やれやれ、助かった!クリエさんは、ドーフィネ人である。私も、ドーフィネ人である。そして、ドーフィネ人同士なら、シャルレの言うとおり、「話はつく」のである。

実際、クリエ氏は、私のことを覚えていて、我々に、正真正銘の歓待をしてくれた。たいそう心安らぐ夕食の後、全員を収容できる、イタリアでしか見たことのない巨大なベッドがひとつ提供され、3人とも非常に快適にそこで休むことができた。そのとき我々が考えたのは、今回辛うじて脱したような窮地に再び陥らないようにするため、この先の旅では、ロカンダのある町をあらかじめ調べておく必要があるということだった。翌日、クリエ氏は、あと2日歩けばスビアコに着くことができると我々に請け合い、いくらか安心させてくれた。運まかせの夜明かしは、あと一度でよいということだからである。小さな少年が1時間ばかり、葡萄畑と森の中を先導してくれたが、その先は、その少年が残していったかなり曖昧な指示を頼りに、3人だけで歩き続けた。

ヴェローリは、山のてっぺんに広がった、遠目には町といってもよいくらいの、大きな村である。我々は、そこでパンと生ハムの質素な夕食を摂って元気をつけ、別の岩山の上にあるもう一つの集落に、日没前に到達することができた。そこは、一段と険しく、荒涼とした、アラトリという名の村だった。村の中心の通りに入るとすぐ、一群の女たち、子供たちが我々の背後に姿を見せ、猛烈な好奇心のありとあらゆる兆候を示しながら、広場までついてきた。村民たちが我々に指し示した家は、ほとんど犬小屋同然のぼろ家で、ロカンダと書かれた古い看板が、宿屋であることを示していた。どれほど嫌でも、そこに泊まるほかなかった。それにしても、何という夜だったことか!断言するが、眠るどころではなかった。ありとあらゆる種類の虫が寝具の中にごまんといて、休むことなど、およそ不可能だったのである。私は、無数の虫にひどく噛まれ、翌朝、高熱を出してしまった。

どうするか?・・・同行者たちは、私をアラトリに残して行くことは承知しなかった・・・だが、スビアコには着かなければならない・・・このあばら家にもう一泊するのはあまりのことだった・・ところが私はひどく震え、どう奮い立たせればよいか分からず、一歩も歩けそうにない状態だった。不幸を共にする私の旅の仲間たちは、私ががたがた震えている間、スウェーデン語で話し合っていた。私が彼らを非常に困らせていることは、彼らの表情に誤解の余地なく表れていた。私の奮起が不可欠だった。私はそれをした。歩き始めて2時間後、熱は引いていた。

アラトリ出発に当たり、我々に示すべきルートを話し合おうと、村の広場で地元の地理学者たちの会議が開かれた。様々な意見が出され、討議された結果、アルチノ、アンティコリを経てスビアコに至る経路を支持する意見が優勢となり、我々は、それを採用した。旅を始めて以来、この日が最も困難だった。もはや道はなく、我々は急流の川床を辿り、行く手に絶えず立ち塞がる岩の塊をひどく苦労して越えながら進んだ。

そうするうちに、名前も分からない荒れ果てた村に着いた。集落を成している、家と呼ぶのもためらわれる、ひどくみすぼらしいあばら家は、どれも開け放たれ、まったくの無人だった。人の姿はどこにもなく、ただ、集落の通路の役目をしている岩場で、2頭の若豚が黒い泥の中を転げているばかりである。村人たちはいったいどこにいたのだろうか?まさに「キロサ(誰が知ろうか)?」の言葉に相応しい場面だった。

岩の迷宮のような渓谷で、我々は何度も道に迷い、その都度、降りてきたばかりの斜面をまたよじ登ったり、谷底から大声でどこかの農夫に呼び掛けたりせねばならなかった。
「Ohé!!! La strada d’Anticoli?…[おーい!アンティコリにはどう行けばよいのですか?]」
これに対する相手の応えは、爆笑か、「via! via![あっちへ行け、失せろ!]」で、お分かりのとおり、さして我々を安心させてくれるものではなかった。それでも我々はアンティコリに行き着いた。この町で卵、ハム、トウモロコシを大量に手に入れることができたことも覚えている。トウモロコシは、この不毛の地の貧しい住人たちの流儀に従い、あぶり焼きにしてもらった。野性味のあるその風味は、なかなかのものだった。アンティコリの外科医は、肉屋のような風采の太った赤ら顔の人物で、我々にパリの国民衛兵について質問に答える光栄を与え、彼が商っている印刷本を見せようと、訪ねてきた。

日暮れまでになお広大な牧草地を横断しければならなかったから、案内人が不可欠だった。我々が雇ったガイドは、経路に確信が持てないらしく、しばしばまごついた。ある池の端に、年取った牧夫が腰掛けていた。彼はもう一月も人の声を聞いていなかったのかもしれない。密生した牧草のせいで足音が聞こえず、我々の接近にも気づかなかったのだろう。(我々の案内人の話では)非常に美しい村で、色々な種類の冷たい飲み物が手に入るという、アルチナソへの道を尋ねようと、我々が急に話しかけると、危うく水に落ちそうになった。

友好の証しに我々が渡した何枚かのバヨッコ貨[ローマの小銭]のおかげで、男はいくらかパニックから立ち直った。だが、彼の返事は、人語よりも鶏の声に近いしわがれ声のせいで、ほとんど理解できなかった。「美しき村アルチナソ」は、広大で静謐な草原の真ん中にある、一軒のオステリア(居酒屋)に過ぎなかった。老女がひとり、そこでワインと冷たい水を商っていた。彼女がB・・t氏のスケッチブックに関心を示すので、我々は彼女にそれらは聖書並みに貴重なものだと言った。すると彼女は立ち上がり、喜びに溢れた様子で、デッサンを一枚一枚、丹念に眺めた。それからB・・t氏を暖かく抱擁し、我々全員に祝福の言葉をかけてくれた。

どこまでも続く草原を、どのような言葉にも表すことのできない静けさが支配していた。この場所の住人といえば、羊の群れを追う老牧夫と、悲しげな威厳を湛えて歩く、一羽のカラスだけだった。・・・そのカラスは、我々が近づくと、北へ飛び去った。・・・私は、長い間、それを目で追った。・・・そして、私の想いも、同じ方角に飛翔した。・・・英国へ・・・私は、あるシェークスピアの夢想に沈潜した。・・・

「白日夢を見、カラスを見上げて大口を開け[=空(くう)を見てぼんやり過ごす]」ことも大切だったが、何としても日暮れ時のうちにスビアコに着く必要があった。アンティコリのガイドは、もう帰っていた。夕闇が急速に迫っていた。我々は、もう3時間も、幽霊のように黙って歩いていた。とそのとき、見覚えのある茂みが目に入った。7ヶ月前、ツグミを仕留めた場所だった。私は、自分たちの現在位置を知った。
「さあ、あと一息だ!」私はスウエーデン人たちに言った。「知っている場所に出た。あと2時間もすれば、到着だ。」

実際、40分と経たぬうち、足元のはるか前方に灯りがみえてきた。スビアコである。町にはちょうどジルベールが来ており、大いに必要としていた、替えの肌着類を貸してくれた。すぐに寝床に就くつもりだったが、たちまち、次のような叫び声が上がった。「Oh ! Signor Sidoro(原注2)! Ecco questo signore francese chi suona la chitarra! (原注3)[あっ!シドロさん、見て!ギター弾きのフランス人さんだ!]」フラシュロンと美しきマリウチア(原注4)も、タンバリンを手に、駆けつけて来た。こうして私は、否応なく、夜中までサルタレロを踊らないわけにいかなくなった。

これから語る傑作な実験を思いついたのは、2日後、スビアコを出発する際である。

2人のスウェーデン人の旅の仲間、ベネット氏とクリンクスポルン氏は、歩くのがたいへん速く、そのスピードに、私はいつもひどく疲れさせられていた。ときどき休憩することも、速度を緩めることも、彼らは承知してくれないので、私は、彼らを先に行かせ、寓話のウサギよろしく後で彼らに追い付かねばならないにせよ、日陰で安楽に寝そべった。彼らがたいそう遠くまで去った頃、私は起き上がり、自問した。「ここからティヴォリまで、休まずに走れるだろうか?(それは、優に6リュー[1リューは約4キロメートル]はある道のりだった。)よし、やってみよう!」・・・いまや私は、連れ去られた恋人を追うかのように、疾駆していた。スウェーデン人たちに追い付き、追い越した。犬という犬に吠え立てられ、怯えて鼻を鳴らす豚を追い散らしながら、ひとつ、またひとつと、村を通過した。村人たちは、私が逆上のあまり腕力に訴えた(faire un malheur)(原注5)に違いないと考え、走る私に情け深い目を向けていた。

ほどなく、ひざの関節に激痛が走り、右足が曲がらなくなった。そのため、その足をぶら下げたり引きずったりしながら、左足で飛び跳ねなければならなくなった。困難の極みだったが、私は持ちこたえ、この常軌を逸したレースを寸時も休まず走り通し、ティヴォリに着いた。着いた途端に心臓破裂で死んでも不思議はなかったが、何事もなかった。私は心臓が強いに違いない。

私に遅れること1時間、スウェーデン人士官たちがティヴォリに着いたときには、私は、寝入っていた。彼らはその後、眼を覚ました私の心身が完全に正常だと見て取ると(この点に疑いを持ったことについて、私は快く彼らを許す)、彼らが行う土地の名所旧跡調査の案内役をして欲しいとせがんだ。その結果、我々は、どちらかといえば愛の妖精の神殿のようにみえる愛らしく小ぶりなヴェスタの神殿、大小の滝、ネプチューンの洞窟などを訪ねて回った。高さ100ピエ[1ピエは約32.48センチメートル]の巨大な鍾乳石に驚嘆することも、忘れてはならなかった。その下方には、ホラティウスの住居、すなわち彼の有名なティブル[ティヴォリの古代名]のヴィラ(別荘)が埋もれている。私は、連れの2人に詩人の住まいに茂ったオリーブの陰で1時間ばかり休憩してもらい、独りで隣の丘に登り、頂でギンバイカ[地中海地方に多い常緑低木。葉、花、果実に芳香があり、古代より神木とされる。ミルテ。]の若木を摘んだ。この点については、私はヤギ(chèvre[前出シャモアも語義に含まれる〜小学館ロベール仏和大辞典])と同じで、青々とした丘が近くにあると、登らずにいられなくなるのである。次いで、平原に下る途中では、マエケナス[古代ローマの富豪、政治家。芸術を愛し、芸術家を庇護した。]のヴィラが、訪問者に開放されていた。我々は、彼の邸宅のヴォールト天井の広間を歩き回った。今はそこをアニエネ川の分流が通り、鍛造工の作業場に動力を与えている。そこでは、怪物のようなハンマーが巨大な鉄床(かなとこ)を打つ、リズミカルな音が響き渡っていた。かつては、同じその部屋が、ホラティウスのエピクロス主義の詩を響かせ、かのアウグストゥス帝の重臣[マエケナス]主催の宴の後、ウェルギリウスが彼の田園詩の素晴らしい一節を穏やかな厳粛さをもって哀愁を帯びた声で吟じるのを聴いたのだ。

Hactenus arvorum cultus et sidera coeli:
Nunc te, Bacche, canam, nec non silvestria tecum
Virgulta, et prolem tarde crescentis olivoe.
[これまでは、畑の耕作と天の星を歌った。
これよりは、バッカスよ、あなたを歌おう。そしてさらに、あなたとともに
森の若枝や、ゆっくり育つオリーブの実を歌おう。
(ウェルギリウス『農耕詩』第2歌、冒頭の詩句)]

さらに下方では、タッソーに讃えられ、彼の心中に辛い愛情を生じさせたプリンセス・エレオノーラ(princesse Eleonora)を想起させる、エステ家のヴィラ(ヴィラ・デステ)を、通りがかかりに見学した。

その下方、平原に出たところで、ハドリアヌス帝のヴィラ(ヴィラ・アドリアーナ)の迷路へと両氏を案内した。我々は、その広大な庭園の遺構を巡り歩いた。全能の権力者の奔放な想像力が、ギリシャのテンペ渓谷のミニチュアをそこに作り出すことを望んだ、小さな谷も。今では猛禽の群れが[兵士たちに代わって]見張りをしている、警護の兵士の詰所も。そして最後に、いまや、最悪の野菜、キャベツの畑になっている、皇帝のプライベート劇場の跡地も。

時の流れと死が、こうした数々の奇怪な変容を、嗤(わら)っているに違いない!

原注1/その島の本当の名はニシタ(Nisita)だが、私は、当時、そのことを知らなかった。
原注2/イジドール・フラシュロンのこと。
原注3/スビアコの人々は、私の名前が発音できなかったので、いつもこのような呼び方をしていた。
原注4/今はフラシュロン夫人。
原注5/人を殺めた、の意。(了)

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