原詩:アイルランドの詩人トマス・ムーアの詩集、『アイルランド歌曲集』所収の英語詩(『 How dear to me the hour 』)
詩:ベルリオーズの友人トマ・グネによる原詩の翻案(フランス語)
位置付け:歌曲集『アイルランド9歌曲』(1830年)第1曲。なお、この歌曲集のタイトルは、初版では『9つの歌曲( Neuf Mélodies )』であったが、後の版(1849年)では、『アイルランド』 とされている。当館では、作品の特定の便宜のため、上の表記とした。
題辞:楽譜の題名の下に、次の言葉が記されている。
「太陽は傾き、姿を消す。1日は終わる。だが、それ[太陽]は、他の場所で新たな生を生じさせる。ああ!なぜ、この地上を飛び立ち、それ[同]を追い永遠の光へと突き進むための翼を、私は持たぬのか!(ゲーテ『ファウスト』)」[『ファウスト』第1部1072-1075行のジェラルド(・ド・ネルヴァル)による仏訳。復活祭の初日、助手ワーグナーを伴い市外散策に出たファウストが、助手との対話の中で語る言葉。]
1 ベルリオーズの『アイルランド9歌曲』について
原詩を収めた『アイルランド歌曲集( Irish Melodies )』は、アイルランドの歌の旋律に合うよう、ムーアが作った詩を集めたもので、1808年から1834年にかけてイギリスで順次刊行され、大きな成功を収めたという。フランスでは、1823年、ルイーズ・べロックによる散文のフランス語訳が出版されている。この本は、同じ作者(ムーア)による物語詩『天使たちの愛』、舞台用台本『愛国的音楽によるメロローグ( A Melologue upon National Music )』(いずれもべロック訳)。を併せ収録したものだった。
ベルリオーズは、ムーアの詩集との出会いについて、『回想録』11章で、次のように語っている。
「私は、シテ島のアルレ通りとオルフェヴル河岸の角の建物の5階の、たいそう小さな部屋を安値で借り、それまでしていた外食をやめ、主としてパン、干しブドウ、プルーン、ナツメヤシの実からなる、一食せいぜい7、8スーの食事をとる倹約生活に、切り替えたのである。・・・・(中略)・・・私は、ヴァレリヤンの丘に沈む夕陽を遠く見ながら、滑るように流れていくセーヌの川面で、陽の光とその反射が、果てしなく戯れ合う様子を、うっとりと眺めた。私の頭の中は、トマス・ムーアの素晴らしい詩のイメージで満たされていた。私はその頃、この本の翻訳を見つけ、夢中になって、読み耽っていたのである。」
この記述は、1826年夏(ベルリオーズは22歳)のことだと考えられている。また、ベルリオーズが見つけた「翻訳」とは、上記べロックの訳書だったとみられる。
約1年後の1827年9月、ベルリオーズ(23歳)は、イギリスから来たシェークスピア劇団による『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』の公演を観て大きな衝撃を受け、それとともに、この公演でオフィーリア、ジュリエットを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソンに対し、芸術作品への感情移入と一体になった、痛切な憧れの感情を持つようになる(『回想録』18章)。
更にその1年余り後、ベルリオーズ(25歳)は、故郷の妹、ナンシーにムーアの詩集[べロックの訳書]を贈り、詩人への賞賛を、次のように語っている(1829年1月10日付)。
「・・・僕を悲嘆に暮れさせてくれる作家、トマス・ムーアの詩集も、君に送っておいた。これこそまさに、詩というものだ!」・・・「『天使たちの愛』と、『[アイルランド]歌曲集』の幾つかの詩・・・(略)・・・を、君が気に入ってくれるとよいのだが。音楽についての詩は見事なもので、ムーアが音楽を理解していること、音楽がもたらす高揚を、彼が経験していることが分かる。」
ベルリオーズは、ハリエット・スミッソンへの思いについて、家族には何も告げていなかった。この手紙においても、そのことについては、沈黙を守っている。とはいえ、彼の心中にあるものは、「僕を悲嘆に暮れさせてくれる作家」といった言葉に、滲み出ている。他方、親友、エドゥアール・ロシェには、すべてを打ち明けており、この手紙を書いた翌日には、ある人物(ハリエットの代理人)の仲介で、ハリエットと連絡を取り合う計画が進んでいることを、手紙(1月11日付)で知らせている。(なお、「計画」の詳細については、2月2日付、フェランへの手紙を参照されたい。)
しかし、その約2ヶ月後、その計画が偽りであったこと、また、ハリエットにはベルリオーズと連絡を取り合う意思がまったくないことが、疑いの余地なく明らかになり、ベルリオーズの失恋は、決定的なものとなる。その経緯は、友人アルベール・デュボワ宛の手紙(3月2日付)に説明されているが、彼は、そこでもムーアに言及し、次のように書いている。
「僕はいま、ムーアを読んでいる。彼の歌曲集は、時に、僕に涙を流させる。この人は、彼女[ハリエット]の同国人だ。アイルランド、今もなお、アイルランドだ!」
『アイルランド9歌曲』は、大部分がその年(1829年)の後半に作曲され、翌(1830)年2月、出版された(前年「作品1」として自費出版した『ファウストの8つの情景』に続く、「作品2」として。なお、出版費用は、グネと分担。)。以下、手紙の抜粋から、出版までの経緯を見よう。
「僕は、ムーアのアイルランド歌曲集に作曲している。グネが訳してくれている。一つは数日前に出来たが、とても気に入っている。」(1829年8月、友人アンベール・フェラン宛)
「トマス・ムーアのバイロンの伝記が出るのを待っている。ムーアといえば、僕は彼に、僕のアイルランド歌曲集を献呈しようと考えている。」(1829年12月28日ナンシー宛。なお、この手紙の末尾には譜例が記されており、それは、『9歌曲』の第8曲、『さよなら、ベッシー』のリフレインのものである。ただし、歌詞中の「さよなら、ベッシー」の呼びかけが、「さよなら、ナンシー」に置き換えられている。)
「僕ら[ベルリオーズとグネ]はいま、歌曲集を製版中だ。出来上がったら、すぐに貴君に送るつもりだ。」、「費用は、暫くすれば、回収できるだろうと踏んでいる。」(1830年1月2日、フェラン宛)
「ムーアの詩による僕の歌曲集が、この3日のうちに出る。」、「何人ものパリの有名な歌手たちが、最近、音楽の夜会で歌うため、この曲集の作品をレパートリーに取り入れた。」(1830年1月30日、ナンシー宛)
「僕の『[アイルランド]歌曲集』を結ぶ作品、『エレジー・アン・プロズ( l’Elégie en prose ~散文の哀歌 [9歌曲中、唯一、ベロックの散文訳に作曲したもの。他はすべてグネの詩に作曲。])』の作曲で、ひとつの心の落ち着きが乱暴に破られた後、僕はまたしても、果てもなく、鎮めることもできない、理由のない情熱に起因する、苦悶の状態に追い込まれてしまっている。彼女[ハリエット]は、まだロンドンにいる。」、「この手紙と同時に、僕の大切な『[アイルランド]歌曲集』が、2部、貴君に届くと思う。ロンドンのイタリア劇場のある演奏家が、ムーアを知っていて、この作品を、彼に届けてくれたところだ。僕らは、この作品を、ムーアに献呈した。最近、アドルフ・ヌリが、彼がいつも出ている夜会での演目に、この作品を取り上げてくれた。」、「いまは、作品の周知が課題になっている・・・」(1830年2月6日、フェラン宛)
以上のように、この歌曲集が書かれた時期は、作曲者がシェークスピア女優・ハリエット・スミッソンへの報われぬ思いに苦しんでいた時期に重なっている。
なお、上記フェランへの手紙から、歌曲集の終曲、『エレジー(・アン・プロズ)』[全集CD8(9)、YouTube:élégie berlioz ]が、1829年末から1830年1月中のいずれかの時期に作られたことが分かる。また、上記『回想録』18章には、この作品(『エレジー』)を作った経緯が語られているが、その記述が、シェークスピアの公演を見てから2年以上を経てからの出来事に関するものであることも分かる。さらに、これらのことから、彼が『回想録』18章で「長い苦悩の期間」としている時期が、言葉のとおり、数年間に及ぶ長いものだったことが理解される。すなわち、それは、1827年秋(23歳)、シェークスピア一座の公演を観てから、1830年春(26歳)、カミーユ・モークによってハリエットに関する「恐ろしい真実」を知らされたことで、ハリエットへの思いからの「治癒」が始まる(同年4月16日、フェラン宛)一方、程なくカミーユから愛情を告白され、彼女との結婚を決意するに至る(6月5日、ロシェ宛)までの、2年半余りの期間を意味するものと考えられるのである。
2 この作品(『日没〜夢想』)について
『日没〜夢想』は、歌曲集が出版されて間もない1830年2月18日、『聖歌』(第5曲)とともに、パリのアテネ・ミュジカルで演奏された。演奏の翌日、ベルリオーズが父、ベルリオーズ医師に書いた手紙は、その模様を、次のように語っている。
「大切なお父さん、昨晩、とても見事な成功を収めたことについて、ご報告します。アテネ・ミュジカルで、たいへん多くの聴衆を前に、僕の歌曲集から、2曲が演奏されたのです。」、「演奏された2つの作品(『夢想』と『聖歌』)は、静かで、哀愁を帯びたジャンルのもので、それゆえ、群衆を沸き立たせるような性質の音楽ではなかったのですが、にもかかわらず、何度も満場の喝采で迎えられました。・・・」
このほか、イタリア滞在中の1831年、家族宛に書いた手紙の中に、この作品(又はその原詩や題辞)に言及したものが、二つある。
1831年5月、癒しの地、ニースから、妹ナンシーに書いた手紙(当館未収録)。
「・・・ああ、何という日没だろう!・・・何とクロード・ロラン[1 7世紀フランスの画家。理想風景を追求したことで知られる。]の描く世界そのままであることか![ Quel Claude Lorrain ! ]海上には、トマス・ムーアの言う、「きっとどこかの幸福で平穏な島に通じているに違いない、あの黄金色の光の小道」[『日没〜夢想』の原詩(べロック訳)の引用]が、無数にある。「それ[太陽]は傾き、姿を消す。1日は終わる。だが、それ[同]は、他の場所で新たな生を生じさせる。ああ!この地上を飛び立ち、それ[同]を追い永遠の光へと突き進むための翼を、なぜ私は持たぬのか。」[ベルリオーズ が『日没〜夢想』の楽譜に付した題辞〜ネルヴァル訳『ファウスト』の引用]『ファウスト』からこの言葉を引用したところで、あるアカデミーの画家に、この本をプレゼントしたことを思い出した。・・・」
10月、友人たちとナポリ旅行中のとある1日、孤独な時間を求め、一人でニシダ島を訪れた後、家族に書いた手紙(7日付)。
「・・・小舟は、オリーブや、オレンジ、イチジク、葡萄等の果樹で(高所は緑、赤、黄金色の風変わりな物影で)覆われた魅力的な小島、ニシダに、僕を速やかに運んでくれた。僕は、島を遠方に見ながら、僕の『アイルランド歌曲集』の『日没』の一節、「黄金の帳(とばり)が隠そうとしている、幸福の島へ」を思い浮かべていた。・・・」
最後に、参考資料として、ムーアの原詩のテクスト、その日本語訳、べロックのフランス語訳のテクストを掲げる。
対訳ページの詩のテクストや日本語訳をこれらの資料と較べると、グネが、原詩のアイディアに従う一方、自らのイマジネーションにより、言葉やイメージを、自由に補っていることが分かる。
なお、べロックの訳は、散文のスタイルを採用することにより、押韻、韻律といった詩の規則による拘束を受けない、自由なフランス語で、原詩の意味を正確に伝えることを意図したものと考えられる(したがって、これを日本語にした場合、原詩を基に作成した日本語訳と、ほぼ同内容となる)。これに対し、グネの詩は、上記のように言葉やイメージを補いつつ、韻文のフランス語にしたものである。
(ムーアの原詩)
How dear to me the hour when day-light dies,
And sun-beams melt along the silent sea,
For then sweet dreams of other days arise.
And Mem’ry breathes her vesper sigh to thee.
And, as I watch the line of light, that plays
Along the smooth wave tow’rd the burning west,
I long to tread that golden path of rays,
And think ‘twould lead to some bright isle of rest!
(日本語訳)
昼の明るさが次第に衰え、静かな海に陽の光が溶けてゆくこの時刻を、僕はどれほど大切にしていることか!
その時なのだ、過ぎし日の甘い夢想が湧き起こり、追憶が君に夕べの吐息を漏らすのは!
穏やかな波に沿い、輝く西方を照らす光の筋を見つめ、僕は切望する、どこかの明るく穏やかな島に通じているに違いない、あの黄金色の光の小道を辿ることを!
(べロックの散文訳)
Combien je chéris l’heure où s’éteint la clarté du jour, où les rayons du soleil semblent se fondre dans la mer silencieuse ! c’est alors que s’élèvent les doux rêves des jours passés, alors le Souvenir exhale vers toi son soupir du soir !
Tandis que je contemple les sillons de lumière qui se jouent sur les vagues tranquilles vers le brillant Occident, je brûle de suivre ce sentier rayonnant et doré, qui me semble devoir conduire à quelque île heureuse et paisible !(了)
この頁の記事の作成に当たり、次の文献を参照した。
マクドナルド5章
ケアンズ1部22章
新ベルリオーズ全集15巻
Les amours des anges et les Mélodies irlandaises , de Thomas Moore , traduction de l’anglais par Mme Louise Sw. Belloc , Paris, 1823 〜フランス国立図書館 Gallica
(トマス・ムーアに関する記述)
『ブリタニカ国際百科事典小項目電子辞書版』
『ブリタニカ百科事典第11版』(The Encyclopaedia Britanica vol.28, New York, 1911〜 Internet Archive)
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