『回想録』 / Memoirs / Chapter 11

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凡例:緑字は訳注

11章 パリに戻ったこと、音楽のレッスンをするようになったこと、音楽院のレイハのクラスに参加したこと、ポン・ヌフでの夕食のこと、父が再び仕送りを止めたこと、宥めようのない反対のこと、アンベール・フェランのこと、クロイツェルのこと

バリに戻り、ル・シュウールの下で音楽の勉強を再開するとすぐに、私は、ド・ポンスからの借財の返済に取り組んだ。この負債は、私の心に重くのしかかっていた。月120フランの仕送りからは、その返済まではできなかった。幸いにも、ソルフェージュ、フルート、ギターの生徒を、何人かとることができたので、これらのレッスン収入と、個人支出の節減から、数か月のうちに、600フランばかり貯め、私の鷹揚な債権者[ド・ポンスのこと]に、それを急ぎ届けることができた。僅かな収入から、どうしてこれだけの節約ができたのか、不思議に思われるであろうが、その答えは、次のとおりである。
私は、シテ島のアルレ通りとオルフェヴル河岸の角の建物の5階の、たいそう小さな部屋を安値で借り、それまでしていた外食をやめ、主としてパン、干しブドウ、プルーン、ナツメヤシの実からなる、一食せいぜい7、8スーの食事をとる倹約生活に、切り替えたのである。
季節は、あたかも最も過ごしやすい時期で、私はいつも、近くの食料品商で、これらのご馳走を買うと、ポン・ヌフ[セーヌ川に架かる橋の名]のアンリ4世の騎馬像の下の、小さなテラスに持っていくのだった。私はそこに腰掛け、この良き国王が、彼の農民たちが日曜の夕食にしていると想像した鶏肉のポトフのことは考えないようにしながら、この質素な食事を摂ったのである。私は、ヴァレリヤンの丘に沈む夕陽を遠く見ながら、滑るように流れていくセーヌの川面で、陽の光とその反射が、果てしなく戯れ合う様子を、うっとりと眺めた。私の頭の中は、トマス・ムーアの素晴らしい詩のイメージで満たされていた。私はその頃、この本の翻訳を見つけ、夢中になって、読み耽っていたのである。ところが、ド・ポンスが、ひとつには、明らかに、私が彼への返済のために自らに課していた厳しい耐乏生活を心配したため(彼にはたびたび会っていたので、隠しようがなかった)、また、もうひとつには、おそらく自身が苦境に陥って貸金を全額回収する必要に迫られて、私の父に手紙を書き、事情をすべて説明した上で、残る600フランの支払いを求めたのである。この率直さが、破滅的な結果をもたらした。父は、このときすでに、私に甘い対応をしたことを、ひどく後悔していた。5か月パリに居ても、私の立場は一向に変わらず、音楽家としての私のキャリアに、目に見える進展はなかった。父の想像では、私はその頃までに、学士院の本選で一等賞を取り、3幕のオペラを書いて、その上演で見事な成功を収め、レジオン・ドヌール勲章を受章し、政府から年金を受けるなどの成功を収めていたはずだったに相違ない。ところが、届いた報せといえば、私の借財のことで、しかもその半分が未払いだというのである。彼が受けた衝撃は大きく、それは、私に重く跳ね返ってきた。彼はド・ポンスに600フランを払い、私には、見込みのない音楽の絵空事を追い続けるのをやめないのなら、パリに留まることを支援するつもりは一切ないから、自活すべきであると通告してきた。だが、私には数名の生徒がおり、倹約生活も板についてきていた。その上、ド・ポンスへの借財もなくなったのであるから、躊躇する理由はなかった。私はパリに留まり続けた。実際、私は、音楽の勉強を、熱心、かつ、積極的に続けた。ケルビーニは、なすことすべてに彼の整然とした思考が表れる人であったが、私が音楽院でル・シュウールの作曲のコースを受講するための通常の経路を踏んでいなかったことから、学科のヒエラルキー上、作曲コースに先行すべきものとされていた、レイハの対位法とフーガのコースにも、私を編入していた。そのため、私は2人の指導者の下で、2つのコースを履修していた。その上、私はアンベール・フェランという名の、暖かな心をもった、聡明な青年と友人になったばかりだった(喜ばしいことに、彼は、いまも私の最も親しい友人の1人である)。彼は、私のためにグランド・オペラ、『秘密裁判官』[『宗教裁判官』とも訳されている]の台本を書いてくれたので、私は、かつてない勢いで、そのスコアに取り組んでいたのである。この台本は、その後、オペラ座の経営陣に断られ、私のスコアも、同時に忘却の淵に追いやられ、再び日の目を見ることはなかった。ただ、序曲だけは、自らの道を切り開いた。私は、このオペラの最良の部分を取り出し、後の作品のあちこちで、素材に用いた。残りの部分は、機会があれば、同様の運命を辿るであろうし、そうでなければ、燃やされることになるだろう。このほか、フェランは、当時人々の心を捉えていた「ギリシャ革命」を題材に、コーラスの付いた、英雄的な情景(シェーナ)を書いた。私は、『秘密裁判官』の作曲を一時中断して、それに曲を付けた。この曲のスコアは、どのページも、スポンティーニの影響を強く受けていた。この作品は、まさかそのようなものが存在するとは思いもしなかったある事実を、私に思い知らせる役割を果たした。それは、有名作曲家の多くがもつ、冷酷な利己主義と、彼らが、若手の作曲者に対して(最も無名の新人に対してすら)一般的に感じる反感のことである。
ルドルフ・クロイツェルは、オペラ座の音楽監督だった。オペラ座では、当時、聖週間の宗教音楽演奏会(コンセール・スピリテュエル)が間もなく開催されるところだった。私のシェーナがそこで上演されるかどうかは、彼の判断にかかっていたから、私は、彼にそのことを依頼しようとしていた。私の訪問は、芸術局長のド・ラ・ロシュフーコー氏の紹介状により、あらかじめ準備されていた。フェランの友人が、局長の側近を務めており、その人物が、私をクロイツェルに紹介することを、局長に強く進言してくれたのである。さらに、ル・シュウールも、同僚の立場から、非常に好意的な言葉で口添えしてくれていた。見通しは、明るいと思われた。だが、それは、束の間の幻想だった。優れた音楽家であり、オペラ『アベルの死』(見事な作品で、私は大いに熱中し、数か月前に、手紙で賛辞を送っていた)の作曲者であるクロイツェル。私は、彼を大いに賞賛していたから、彼が私の師と同じように好意的で気さくな人物であるに違いないと想像していた。ところが、彼は、最大級の不作法と軽蔑をもって、私を遇したのである。彼は、私にほとんど挨拶も返さず、振り向くことすらせずに、肩越しに、こう言った。「我が友よ(彼とは初対面だった!)、コンセール・スピリテュエルでは、新作の演奏はできない。練習する時間がないのだ。ル・シュウールも、よく分かっているはずだ。」私は、非常に当惑しながら、部屋を出た。次の日曜日、彼とル・シュウールは、王室礼拝堂で議論した。クロイツェルは、そこでヴァイオリンの一奏者を務めていたのである。彼は、私の師匠に問い詰められた挙句、不機嫌を隠さず、次のように言った。「ああ、そうですとも!そんな風に若い連中を助けていたら、いったい我々はどうなってしまうんです?」少なくとも、彼は、率直ではあった。(了)

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