手紙セレクション / Selected Letters / 1830年6月5日(26歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1830年6月5日
エドゥアール・ロシェ宛

親愛なエドゥアール、
短い手紙しか書けないことを許してくれたまえ。ほとんどペンも持っていられない状態なのだ。死んでしまいそうだ。僕は今日、父に手紙を書いた。僕の結婚に、承諾を求める手紙だ。覚えていると思うが、先日、君といるときに出会った、あの感じの良い、若い女性[カミーユ・モーク(誕生日前なら当時18歳)のこと]だ。スミッソン嬢の不品行(les infamies de Mlle Smithson)4月16日付けフェラン宛の手紙及び注参照]のことを僕に全部教えてくれたと、あのとき僕が君に話した、あの娘だ。そうなのだ、友よ、その娘なのだ。僕は、自分の[心の]傷が癒えてからは、彼女を愛している。だが、彼女の方では、あのヒュドラ[ハリエット・スミッソンのこと。なお、ヒュドラは、ギリシャ神話の水蛇の怪物。]が僕の心を去るずっと前から、僕を愛していたのだ。彼女は、別の人[ベルリオーズの年下の友人フェルディナント・ヒラーのこと]に関心を持っていると[僕が]思っていたときから、僕を愛していた。彼女の方からそれを僕に告白した。僕は、慎重を期してこのことを君に話さなかった。僕はいま、不安でいっぱいだ。彼女は最近、母親にすべてを打ち明けた。僕の方では、父に手紙を書いて、彼女の家庭、教育、才能、生計の手段といったことのすべてについて初期的な情報を伝えた。生計の手段については、彼女のそれは僕のそれよりも輝かしく、年に1万から1万2千フランの収入を、ピアノのレッスンと個人演奏会から得ている。彼女の母親は、彼女を社会的地位の高い有利な相手と結婚させるつもりだったので、怒り狂い、僕らを別れさせることを望んだが、その後、僕らを絶望させないように、ともかくも僕を自宅に受け入れることに同意した。夕べは彼女の家に居たのだが、彼女は苦しげで、心配そうだった。僕は、のろのろと歩くのがやっとで、父が返事をくれるか当地に来てくれるかするまでは、片時も気が休まらない状態だ。父には、当地に来てくれるよう懇請した。父と話す機会があったら、パリに行くよう君からも薦めてくれたまえ。父の来訪を望む理由が、僕には山ほどあるのだ。モーク嬢のピアニストとしての並外れた才能のことも当地で耳にしたと、父に話してやって欲しい。僕がある日君に彼女を指し示して説明したことも。とはいえ打ち明け話は何もきいていないし君が知っているのはそれですべてだということも。それから、僕のH.スミッソンに関する辛い心の病(やまい)のことは、父には一切知らせないでくれたまえ。益のないことだからね。
さようなら、手紙を書いてくれたまえ、
何か僕に知らせてくれるべきことがあったら、すぐに。僕は、自分が死んでしまうのではないかと思っている。夕べは、彼女の母親からありとあらゆる懸念事項をはっきりと告げられ、彼女の前で卒倒してしまった。母親は、父が僕に何もくれないだろうとの考えから、わが娘の僕への感情を受け入れる決心がつかないのだ。正気に戻ると、僕は彼女[カミーユ]に支えられ、彼女の涙を体に受けていた・・・。ああ!大切なエドゥアール、もし父がこの結婚に反対したら!だが、父には、反対する理由など少しもないのだ。いまここで死ぬことの無念さよ( Qu’il serait cruel de mourir à present. )[フランス革命期、断頭台の犠牲となった若い詩人、アンドレ・シェニエが、処刑を前に自らの額(ひたい)を叩きながら吐露したとされる言葉、「とても良いものがここにあったのに、死ぬとは!( 仮訳。原文:Mourir ! J’avais quelque chose là.)」に倣ったものと思われる。なお、回想録34章の復讐計画断念のくだりもこの言葉を想起させる思考をもって語られており、このエピソードがベルリオーズの心を深く捉えるものであったことが窺われる。]
さようなら、さようなら。
H.ベルリオーズ(了)[書簡全集165]

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