手紙セレクション / Selected Letters / 1830年6月16日(26歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1830年6月(推定)16日
ナンシー・ベルリオーズ宛

親愛なナンシー、
心優しい、素晴らしい妹よ、思いやりと愛情のこもった君の手紙に、僕はどれほど感謝していることか!これほど早く両親が承諾してくれるとは予期していなかった。受け取るや、僕は喜びに我を忘れそうになった。この報せを届けようと、僕はモーク夫人の家へと急いだ。より好意的でない返事を予想していたモーク夫人も(というのも彼女はいつも僕らにしぶしぶとしか希望を持たせないようにしているからだ)、自分の娘と僕が大喜びするのを見て、その喜びを分かち合わない訳にはいかなくなった。いずれにせよ、僕はついに幸福な一日を過ごすことができた。その幸福は翌日、お父さんの手紙でひどく曇らされてしまったが、まあ、そのことはひとまず措こう。君たちへの最初の手紙で、僕は、モーク夫人のはっきりした約束は何も貰っていないと書いたが、お父さんのパリ来訪の返事を心待ちにしていたのは、それが理由だった。その後、僕ら二人をひどく動揺させる出来事が持ち上がった。母親を介し、彼女が不意に、パリの音楽家たちの間で非常に高い地位を占めている巨万の富をもつ男性[ピアノ製造業者カミーユ・プレイエル(誕生日前なら当時41歳)のことであろうと推測されている]から結婚を申し込まれたのだ。その人物は、彼の地位とモーク夫人が彼にいつも示してきた友情からして、自分の申し込みが好意的に受けとめられることを疑っていなかった。だが、彼は思い違いをしていた。彼はまず、手紙で断られた。彼はそれに屈することなく母親[モーク夫人]に向けて自己の大義を擁護すべく自ら赴いてきたので、夫人も拒絶の真の理由を明かさざるを得なくなった。しかし、この結婚は夫人には非常に都合の良いものだったので、彼女はこの求婚者に、娘の同意を得る余地がまったくないものかどうか、本人の意向を探ってみることを約束した。夫人は娘に、彼女[カミーユ]の前に開けた輝かしい運命を説いてきかせ、彼女はもはや自らの意に反して演奏家であろうとする必要はなく、いまのように苦労してレッスンをしなくともよく、彼女の才能は更に伸びるだろうし、このようなことを言って彼女を不愉快にさせるつもりはないけれども、方や僕には彼女に提供し得るものがほとんどなく、もし夫人が二人の結婚に同意するとしても、それは先のことでしかあり得ず、彼女[カミーユ]は自分の苦労が倍に増え、豊かさが失われていくことを身をもって経験する危険を冒すことになると諭した。それでもやはりカミーユは、僕の前で母親に、何が起ころうと彼女は僕のもの以外ではありえないと、はっきりと何度も言った。
モーク夫人は、こう答えた。「ようございます、分かりました。これで終わりです。この話はもう繰り返しますまい。けれども、ベルリオーズさんの立場(sort)が変わらないうちに彼と結婚しようとは絶対に考えて欲しくありません。それに、まずは彼のご両親のお返事を待とうではありませんか。」僕らは、残りの時間をその晩の始まりよりは快活に過ごした。その2、3日後、君の手紙が届いた。モーク夫人は、僕らと喜びを完全に分かち合いながらも、もっと見栄えのする立場を僕が手にするまで1年、必要なら2年、僕らが待つことが絶対に必要だと繰り返し言った。「そもそも」と彼女は言う。「あなた方の愛情がそれほど強いのなら、あなた方の志操堅固さへのその程度の試練を恐れることはないはずです。私は、世間から非難されたくありませんし、ベルリオーズさんをもっとよく知ることや、あなた方二人がお互いを試すことも、大いに喜んでいるのです[ Je ne veux pas me faire jeter la pierre par tout le monde, et en même temps je suis bien aise de connaître mieux M. Berlioz et de vous éprouver l’un et l’autre. ]。」君の言う「二人の未来はただ二人の才能だけに基づいている」という状況を彼女は大いに心配している[ Ta phrase, que notre avenir n’est basé sur nos talents, l’inquiétait beaucoup. ]
これらのことがあった後、お父さんの手紙が届き、お父さんが承諾してくれていることが確認できたほか、君たちのパリ滞在中にすべてが片付くとお父さんが考えていることも分かった。それから、資金について、結婚後、僕が期待できるのは、年1000フランだけだということが分かった。一方でお父さんの承諾を得られていながら、他方でそれを活かすことができないことが明らかになったときに僕が味わった悲痛な思いは言葉にできない。どうすればよいか、どう考えるべきか、分からなかった。その晩、僕は、いつもよりずっと沈んだ気持ちでモーク夫人の家を訪ねた。そして、お父さんから手紙を受け取ったことは言わずに、僕がお父さんから受け取れる収入はせいぜい2万フランに留まる可能性があるということを彼女が自ら推知するよう、うまく仕向けた。「まあ、」彼女は言った。「年1000フランばかりの不労所得(rente)で何ができますか。ご自身で幾らか稼ぐにしても、それでは足りません。それでは、この子は生活を変え、すっかり馴染んでいるゆとりある暮らしをやめねばならなくなります。さもなければ、この子が2人分仕事をしなければならなくなるということです。貴方だってそんなことは耐えられないでしょう。この子が仕事をするようになってまだ2年です。この子にパリで勉強を続けさせるため、この子の父親は手許に残った財産をすべて擲(なげう)ちました。今度は自分がお父さんを助ける番だとこの子は考えていたのですが、それももっともなことでしょう。そんなわけで、この子はまだ何も貯えがないのです。お待ちなさいな、この子が幾らか稼ぐまで。その間に貴方も同じことができるでしょうし、貴方の境遇もより良くなり、結婚してもよいくらいに出世もすることでしょう。考えてもご覧なさい、この子が病気でもして、あるいは手を捻挫するかして一部であれ全部であれこの子の才能が損なわれたときに、この子を支えられるだけの財産がなければ、あなた方がどうなってしまうかを。駄目です。いまの時点で結婚に同意することは、私はできません。」
これに対して僕は、僕が学士院の賞を手にする可能性は極めて高く、そうなれば年1000エキュ[1エキュは3フラン]の支給が5年間受けられるから、それにお父さんからのお金を合わせれば、作品から収入を得られるようになるまでの時間は十分に稼ぐことができると反論した。この議論ははるかに道理に適っていると、モーク夫人も受け止た。だから僕は、賞さえ取れば、フランスに留まる許可を得られた場合であれ、何か月かのイタリア流浪を強いられた場合であれ、僕らの試練の期間は短くなるだろうと思っている。
モーク夫人は、非常に頭がよく、きちんとした女性だ。彼女の家は、贅沢ではないけれどもたいへん快適に、趣味良く設(しつら)えられている。娘の立場上、そうする必要があるのだ。パリの上流社会や貴族階級の人たちとの交際が、心地よい調度を整えることを彼女に余儀なくさせている。使用人は2人で、カミーユの小間使いと料理人だ。けれども、母娘の生活はこの上なく質素だ。彼らはめったに人を家に招かない。カミーユが非常に長い時間、ピアノに向かわねばならないからだ。彼女は、レッスンの時間に加え、毎日欠かさず4、5時間は練習している。母親は、カミーユにこの上なく優しい愛情を注いでいて、これ以上長い間根を詰めて彼女[カミーユ]が体をこわすことを非常に心配している。それで、そうした苦労を娘にさせないようにしてくれる縁談を何にもまして望んでいるのだ。とはいえ、モーク夫人も、僕らの苦悩に同情していない訳ではない。昨日も、「心安らかにしておいでなさい」と僕に何度も言った。「娘を他の誰かと結婚させようとすることはないから、そのようなことで気を揉まないように」というのだ。モーク夫人は、自分が娘のためにすることについてはすべて夫の同意が得られるものと確信している。
だが、彼女が何といおうと、僕は不安でいっぱいだ。このことは言っておかねばらならないが、お父さんに最初に手紙を書いたときに僕が冷静だったのは、こういう場合落ち着いていることが絶対に必要だと思ったからだ。だが僕は、彼女を激しく熱烈に愛しているのだ。彼女が何度となく与えてくれている、彼女を信頼してほしい、何があろうと僕から引き離されはしないという約束や保証の支えがなかったら、実際のところ、僕は不安と心配で死んでしまうだろう。
せいぜい数千フランのお金のために、幸福、将来、人生といったもののすべてが危うくなることを甘受しなければならないのだろうか。いまお父さんがパリ訪問を計画してくれようとしているのかどうか、僕には分からない。旅行が健康を損なうとお父さんが考えているのなら固執はしないけれど、そうでないのであれば、当地でお父さんと君に会うためなら僕の寿命を10年あげてもいいと思っている。
お父さんが[結婚に同意する]決断をするに当たってお母さんが果たしてくれた役割に、心から感謝している。君たちが来てくれることになったら、お母さんがラ・コートで独りになると思うと胸が痛む。どうか僕のためにお母さんをたくさん抱擁してあげてくれたまえ。
学士院のコンクールはどうやら来月上旬に始まるらしい。今年は1等賞が二つあり、チャンスが倍になっている。世間は僕が受賞するだろうという話で持ちきりだから、僕も今度ばかりは受賞できるだろうと思わない訳にいかない。僕としても、課題が何であれ、いささかの怠りもなく彼ら好みのアカデミックな音楽を作るつもりだ。ここまで来たら、不出来な総譜を書くこともいとわない。お金を手にするためになら、どんなことでもする覚悟だ。
それにしても、20日間も閉じ込められていなければならないとは!彼女には会えず、獣(けだもの)みたいな連中と一緒にされて!・・・ただ、君たちとは、毎日6時から8時まで面会できる。優しいナンシー、どうかアデールに伝えてやってくれないか、彼女が僕のことを気に掛けてくれていることがとても心に沁みたと。彼女の僕への友情がそんなふうに高まっていることを、僕はただ申し訳なく思うばかりだ。僕は、君たち皆が僕に抱いてくれている情愛の感情をすべて消し止めてしまいたい気持ちだ。それらはただ君たちに辛い心痛を与えることに役立つだけだから。僕は不幸になる運命を背負った人間なのだ。ええい、くそっ!それでも僕は、物事のよい面を見るよう、なお努力しようと思う。モーク夫人は、昨日、僕にこう言った。「なぜ前もって苦しんだりするのですか。結局、失われたものなど何もないのですから、しばらく待てばよいのです。貴方は賞を取り、劇場も貴方に門戸を開くでしょう。娘も幾らかお金を貯めるでしょう。貴方は志操堅固で誠実なところを示すのです。私はあなた方が私のいるところで何度か会うことを認めているし、彼女は貴方にぜひ自分を当てにしてほしいと約束しています。私は貴方の知らないところで娘を結婚させようとしたりはしませんし、ご両親も、いま貴方が結婚することに同意されているのですから、ましてこの先ならいっそう賛成されることでしょう。さあ、そうなれば、万事解決するに違いありません。」
それはそのとおりだ。・・・だが、そうしたことを待っているうちに何が起きるか、誰に分かるだろうか?
さようなら、愛しい妹よ。僕の心は引き裂かれてはいるが、いつも君への友情でいっぱいだ。それは決して僕の心を去ることはない。(了)[書簡全集166]

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