手紙セレクション / Selected Letters / 1830年10月20日(26歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1830年10月20日
ベルリオーズ夫人宛

大切なお母さん、
アメデ・フォールさんが近いうちに発つので、お母さんたちに僕の手紙[複数]を渡してくれるよう依頼します。彼が手紙を渡しがてら僕についての報せをお母さんたちに直接伝えに行ってくれることを期待しています。
イタリア行きに関する[当局の]前向きな反応は、まだまったく得られていません。内務省では、今週は美術学校[ l’école des Beaux-Arts ]関係の重要な規則改正で忙しく、それが済むまで待ってもらう必要があり、僕がフランスに留まることの許可が出せるか否かはその後で検討すると言われました。僕はこれまで以上にパリに留まることを望んでいます。およそ成り立ち得るすべての道理がこの旅行[イタリア滞在]を思いとどまるよう、僕に告げているのです。ロッシーニも先日ある僕の知人と僕の話をしたとき、僕がまだイタリアに行くつもりでいるなら、やめるよう説得すべきだと言ったそうです。彼[ロッシーニ]はこうも付け足したとのことです。「彼[ベルリオーズ]に話してやることだ。あの国でなし得ることは何もなく、彼は時間を無駄にするだけで何も持ち帰りはしないだろう、と。」
僕は近いうちに、僕の出す要望書に推薦文を書いてくれるよう、ロッシーニに頼みに行かねばなりません。彼の名は他の誰の名にもまして芸術局の幹部の人たちを印象付けるでしょうから。・・・
アカデミー会員の先生方は、僕の要望を支援しようとしませんでした。そのような許可を僕が得ることは、ローマ賞の廃止につながると言うのです。
僕は、いまパリに来ているスポンティーニの支持も当てにしています。先日、彼に手紙で面会を申し込んだのですが、すぐにとても親切な返事をくれ、翌日に会うと約束してくれました。彼は思い遣りと友情の限りを尽くして僕を迎えてくれ、ドイツの演奏家たちが彼を讃えて作らせたメダルをプレゼントしてくれました。今日もまた会いに行きます。彼がパリにいるうちに僕の音楽を聴いてもらえるだろうと思います。
僕は、シェークスピアの有名な戯曲、『あらし』を題材にしたコーラス、4手のピアノ2台、鍵盤ハーモニカ、大編成オーケストラのための大規模な作品を書き終えたところです。自分ではそれと知らずこの着想を僕に生み出させてくれたのは、またしても僕の良き天使、僕の美しいエーリアルです。僕はまったく新しいこの構想の実行に完全に成功したと思っています。今から2週間以内に開かれる大きな募金演奏会でこの作品を演奏する約束をオペラ座の監督から取り付けています。僕の『あらし』の序曲は、はじめはイタリア劇場で演奏するはずだったのですが、この劇場は、これほど大がかりな楽曲を扱うにはコーラスも弱すぎ、オーケストラも小さすぎました。オペラ座で演奏してもらう機会を得たことで、僕はまず、この作品が見事に演奏されること、次によりよく理解してもらえることを期待しています。その上、きわめて有益な結果[オペラ座の門戸が開かれること]を僕にもたらしてくれる可能性があります。要するに、僕は、長い間の大望だったこの世界についに足を踏み入れようとしている、ということです。
これが一時の成果でしかないことは、確かにそのとおりですが、何事にも始まりというものがあります。もし僕が長生きできるなら、この素晴らしいオーケストラは早晩僕のものとなり、僕は、この演奏団体に新しい方向を示すようになるに違いないと思います。
モーク氏は、まだ当地に来ていません。ここしばらく僕らは氏が長男と一緒に来るのを待ち続けていたのですが、最新の手紙によれば、来られなくなる公算が大です。アールスト[ベルギー北西部、ブリュッセル北西方の都市]の学校が混乱に陥っていて、氏は、学監補佐官の職を失うことになった場合、かの地にとどまって別の仕方で生計を立てる方途を整えねばならないのです。ブリュッセルの「ナシオナル」紙の主要執筆者の1人だったアンリ・モーク氏[モーク氏の長男]も、いまはその職を失っています。復職の手立てがあるのかどうか、僕には分かりません。このような事情から、モーク夫人はかつてないほど僕らの結婚に承諾を与えることに後ろ向きになっています。カミーユはこの状況を果敢に受け入れ、長くて辛いこの待ち期間を耐え忍ぶよう僕を励ましてくれていますが、僕は苦い悲しみが自分を待ち受けているのではないかと、不安でなりません。モーク夫人の抵抗には本人の個人的な利害が大いに絡んでいるということに、僕は気付いています。僕の心を落ち着かせてくれることができるのは、カミーユの約束と彼女が将来その約束を守れることの確かさだけです。H.B.(了)[書簡全集184]

訳注/モーク家の危機
フランスの七月革命(1830年7月27—29日)は、近隣諸国にも速やかに波及した。
ウィーン会議(1814〜15年)後、オランダ王国に編入されていた南部ネーデルラント(今日のベルギー)においても、8月25日、ブリュッセルで、市内の歌劇場で上演されたオペラに触発された暴動が発生し(圧政への抵抗を題材とした作品が演目だった〜後述)、これを契機に同市の上層市民(ブルジョアジー)が市民軍を組織して市政を掌握するに至り、その後、オランダ軍との激しい市街戦を経て9月26日に臨時政府が樹立され、10月4日(この手紙が書かれる2週間程前)にはベルギー国家の独立が宣言された(「ベルギー独立革命」)。
ベルリオーズの手紙が伝えているモーク氏とその長男の失職の危機も、これら一連の出来事の影響によるものだった可能性がある。
なお、ベルギー独立革命のきっかけとなったオペラとは、スペインの支配からの独立を求めて蜂起するナポリの民衆を描いたフランスの人気オペラ、『ポルティチの娘(La Muette de Portici)』(オベール作曲、スクリーブ他台本)であり、登場人物の1人、ナポリの漁師マサニエロが第2幕で歌う抵抗の決意を秘めたバルカロール(舟歌)は、当時、ヨーロッパ中で愛唱されたという(出所:『新グルーヴ・オペラ事典』)。8月25日、ブリュッセルのモネ劇場でこれを歌ったのは、この役をパリで初演したフランスの名歌手、アドルフ・ヌリであったが、先にみた8月4日付けのベルリオーズの手紙(妹ナンシー宛)が伝えるところによれば、この人は7月革命の直後、パリ・オペラ座で聴衆の求めに応じ、3色旗を手に『ラ・マルセイエーズ』を歌った人でもあった。
参照文献
『新版世界各国史14・スイス・ベネルクス史』、森田安一編、山川出版社、1998年
『物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』、松尾秀哉、中公新書、2014年
『新グローヴ・オペラ事典』

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