展示3:フランス古典オペラ(トラジェディ・リリック)の伝統承継者 / Exhibit 3 : Successor to the French classical operatic tradition ( tragédie-lyrique )

ベルリオーズは、フランス古典オペラの伝統を、グルックとその楽派の諸作品、とりわけ、グルックの代表作、『トリドのイフェジェニー』から受け継いだ。ベルリオーズの文章から、その経緯をたどる。 / Berlioz inherited the legacy of French classical opera from the works of Gluck and his school, particularly from Gluck’s masterpiece “Iphigénie en Tauride”. The excerpts from his writings in this exhibit show how.

Christoph Willibald von Gluck (1714-87) 提供:ウィーン・美術史博物館 Courtesy: KHM-Museumsverband
Christoph Willibald von Gluck (1714-87)
提供:ウィーン・美術史博物館
Courtesy: KHM-Museumsverband

ベルリオーズは、出生から17歳の終わり近くまでの時期を、生地である、フレンチ・アルプス地方の小さな町、ラ・コート・サンタンドレで、家族とともに過ごした。グルックとの出会いは、その頃に遡ることができる。ただし、それは、実演ではなく、読書を通じてのものだった・・・/ Berlioz’s encounter with Gluck dates back to the days he spent in his birthplace, La Côte-Saint-André, Isère,  before he left for Paris at the age of seventeen to study medicine. The encounter was made not by listening to any of Gluck’s music, but by reading his biography.
・・・これら様々の音楽に関わる活動をし、読書、地理、キリスト教信仰に夢中になり、初恋に伴う心の落ち着きと動揺の入れ替わりを経験している間にも、職業従事に備えるべきときが近づいていた。父は、私を自分と同じ医者にするつもりだった。それ以上に立派な職業は、父には、考えられなかったのである。そのため、彼は、ずっと前から、私に自分の意図を悟らせようとしていた。
他方、この件についての私の感情は、それ以上強い意見はあり得ないほどの父の考えに対する反発であったから、私の方でも、折に触れ、それを力説していた。私は、自分の感じていることをはっきりと認識してはいなかったが、病床、施療院、解剖室といったものとは遠く隔たったところで送る生涯を予感していた。自分の夢みるものが何であるかについては、自分自身に対してすらまだ敢えて認めようとはしていなかったものの、私は、自分に医学の道を歩ませようとするいかなるものにも、断固、抵抗しなければならないと感じていた。その頃、私は、『総合列伝』シリーズに載っていた、グルックとハイドンの伝記を読んで、深く心を動かされていた。これら2人の偉人の生き方を知り、私は思った。何と輝かしい栄光だろう!なんと素晴らしい芸術だろう!このようなものに生涯を捧げるとは、なんという幸福だろう!・・・ / …Sans me rendre compte précisément de ce que j’éprouvais, je pressentais une existence passée bien loin du chevet des malades, des hospices et des amphithéâtres. N’osant m’avouer celle que je rêvais, ma résolution me paraissait pourtant bien prise de résister à tout ce qu’on pourrait faire pour m’amener à la médecine. La vie de Gluck et celle de Haydn que je lus à cette époque, dans la Biographie universelle, me jetèrent dans la plus grande agitation. Quelle belle gloire me disais-je, en pensant à celle de ces deux hommes illustres quel bel art quel bonheur de le cultiver en grand!..
『回想録』第4章「医学に対する嫌悪のこと」 / Excerpt from Chapter 4, Memoir, “Mon aversion pour la médecine”

1821年の秋、18歳の誕生日を間近にしたベルリオーズは、父親の意向に従い、医学を修めるため、パリに出る。以下は、パリに着いて間もない頃の出来事である・・・/ Then, soon after his arrival at Paris in the fall of 1821 …
・・・私がオペラ座に出かけたのは、そうしたある夕方のことだった。そこでは、サリエリの『ダナオスの娘たち』が上演されていた。この公演の盛大で豪華な演出、耳に快いオーケストラとコーラスの厚み、ブランシュ夫人の心に染み入る名演と非凡な声、デリヴィの荒々しく威厳のある歌唱、ヒュペルムネストラのアリア(私はこの作品に、父の書斎にあったグルックの『オルフェ』の断片から私が思い描いていた彼(グルック)のスタイルの特徴のすべてを、サリエリによる模倣を通じて、認めることができた)、そして最後に、スポンティーニが同国人の先輩であるサリエリのスコアに書き加えた、すさまじいバッカナルと、もの悲しく官能的なバレエ音楽。これらが、筆舌に尽くしがたく私の心を乱し、高揚させた。それは、船乗りへの情熱をもって生まれてきたが、故郷の山の湖の小舟しか知らなかった若者が、いきなり大洋上の三層甲板船に乗せられたようなものだった。その晩は、ほとんど眠れなかった。・・・ / …J’allais devenir un étudiant comme tant d’autres, destiné à ajouter une obscure unité au nombre désastreux des mauvais médecins, quand, un soir, j’allai à l’Opéra. On y jouait les Ddhaides, de Salieri. La pompe, l’éclat du spectacle, la masse harmonieuse de l’orchestre et des choeurs, le talent pathétique de madame Branchu, sa voix extraordinaire, la rudesse grandiose de Dérivis; l’air d’Hypermnestre où je retrouvais, imités par Salieri, tous les traits de l’idéal que je m’étais fait du style de Gluck, d’après des fragments de son Orphée découverts dans la bibliothèque de mon père; enfin la foudroyante bacchanale et les airs de danse si mélancoliquement voluptueux, ajoutés par Spontini à la partition de son vieux compatriote, me mirent dans un état de trouble et d’exaltation que je n’essayerai pas de décrire. J’étais comme un jeune homme aux instincts navigateurs, qui, n’ayant jamais vu que les nacelles des lacs de ses montagnes, se trouverait brusqument transporté sur un vaisseau à trois ponts en pleine mer. Je ne dormis guère, on peut le croire, la nuit qui suivit cette représentation,..
『回想録』第5章「オペラ座のある公演のこと」 / excerpt from Chapter 5, Memoir, “Une représentation à l’Opéra”

18歳の誕生日の3日後には、パリから、郷里の妹ナンシーに宛て、次のように書き送っている。/ Three days after his eighteenth birthday, he wrote from Paris to his sister Nanci in La Côte as follows.
・・・グルックの傑作、『トリドのイフィジェニー』を観たときは、気絶でもするのでなければ、それ以上激しく心を動かされることは、あり得ないくらいだった。まずはじめに、あたかも一つの楽器のようなアンサンブルで演奏する、80人のオーケストラを想像して欲しい。オペラは、こんなふうに始まる。遠くに広い平原が見え(完璧な幻視効果だ!)、その遥か遠くに海が見える。オーケストラが嵐を予告し、黒雲がゆっくり降りてきて、平原を覆い尽くす。劇場内の灯りといえば、雲間を突き抜ける、稲妻の閃光の明滅だけだ。それは、実際に見なければ信じられないほど、本物そっくりだった。一瞬、沈黙が訪れる。舞台上は無人だ。オーケストラが、かすかにざわめき、風が吹く音を思わせる(君も、冬、一人でいるときに、凍てつく風の音を聞いたことがあるに違いない)。そう、まさに、あの感じだ。不安が次第に強まり、突然、嵐になる。それから、オレステスとピラデスが、トリドの蛮族に鎖で繋がれ、引き立てられてくる。蛮族どもの恐ろしいコーラスは、こう歌っている。「我らの罪の贖いは、生贄の血で成就する。」次の場面で、観客の忍耐は、限度を超えてしまう。不幸な二人は、まるでそれが最善のものでもあるかのように、争って死を求めるのだ。どんなに鈍感な人間でも、これには深く心を動かされずにいないだろう。・・・ / …A moins de m’évanouir, je ne pouvais pas éprouver une impression plus grande quand j’ai vu jouer Iphigénie en Tauride, le chef-d’oevre de Gluck. Figure-toi d’abord un orchestre de quatre-vints musiciens qui exécutent avec un tel ensembre qu’on dirait que c’est un seul instrument…
1821年12月13日付け、ナンシー・ベルリオーズ宛の手紙 / Excerpt form the letter to Nanci Berlioz dated December 13th, 1821

さらに、上記『回想録』第5章は、次のように続く・・・/ Furthermore, Chater 5 of the Memoirs continues as follows…
しかし、パリ音楽院の図書館が、一般に解放されており、そこで膨大なスコアを閲覧することができると知ったときには、そこを訪れ、グルックのスコアを見てみたいという気持ちを、抑えることができなかった。グルックの作品は、そのときはまだオペラ座で上演されていなかったが、私はすでに、この作曲家に、直感的な情熱を感じていたのである。そして、ひとたびその音楽の楽園に入ってからというものは、私はもう、再びそこを出ることはなかった。これは、医学修養に対する、とどめの一撃となった。解剖室は、断固、放棄されてしまったのである。・・・[中略]・・・私は、グルックの作品のスコアを繰り返し読み、筆写し、暗記した。私はそのために寝食を忘れた。私はそれらに陶然とした。 / Mais, ayant appris que la bibliothèque du Conservatoire, avec ses innombrables partitions, était ouverte au public, je ne pus résister au désir d’y aller étudier les œuvres de Gluck, pour lesquelles j’avais déjà une passion instinctive, et qu’on ne représentait pas en ce moment à l’Opéra. [ text partly omitted ] Je lus et relus les partitions de Gluck, je les copiai, je les appris par cœur; elles me firent perdre le sommeil, oublier le boire et le manger; j’en délirai.
このときベルリオーズが筆写した『イフィジェニー』の総譜の一部が、今日に伝えられている(ケアンズ『ベルリオーズ』1部6章及び図版参照)。 / Berlioz’s manuscript of extracts from Gluck’s two Iphegénie operas, copied in the Conservatoire Library in 1822 has been preserved ( See D.Cairns “Berlioz” vol.1 illustration ).

そしてついに・・・ / Then finally,…
・・・待ちに待ったグルックの『トリドのイフィジェニー』を、オペラ座でついに聴いたとき、私は、父、母、叔父、叔母、祖父母、友人たちが何といおうと、自分は音楽家になるのだと心に固く決めて、劇場を出たのである。 / Et le jour où, après une anxieuse attente, il me fut enfin permis d’entendre Iphigénie en Tauride, je jurai, en sortant de l’Opéra, que, malgré père, mère, oncles, tantes, grands parents et amis, je serais musicien.
『回想録』第5章「パリ音楽院図書館のこと」、「抗いがたい音楽への衝動のこと」。なお、この公演は、1822年8月21日のものであろうと考えられている(ケアンズ前掲1部6章)/ from Chapter 5, Memoirs “La bibliothèque du Conservatoire”,” Entraînement irrésistible vers la musique”. The performance is thought to be the one in August 21, 1822 ( Cairns id. Chapter 6).

以後、ベルリオーズのグルックへの傾倒は、終生のものとなる。/ Thereafter, his devotion to Gluck becomes lifelong.

約36年後、自らの畢生の大作、オペラ『トロイアの人々』の完成を目前にした1858年(54歳)、最愛の妹、アデール宛に、次のように書いている。/ Some 36 years later, in 1858 (at the age of 54), just before the completion of his own masterpiece “Les Troyens”, he writes  to his beloved younger sister Adèle as follows …
・・可愛い妹よ、断言するが、『トロイアの人々』の音楽は、気高く壮大なものだ。その上、刺すような真実性をもっている。そして、もし僕がみじめな思い違いをしているのでなければ、ヨーロッパ中の音楽家たちの注目を集め、そしてたぶん彼らの髪の毛を逆立たせるような創意が、いくつも含まれている。もしグルックがこの世に帰ってきて、この作品を聴いたなら、「間違いなく、彼は私の息子だ。」と、僕のことを言ってくれると思う。こんな言い方は、謙虚でないかもしれないね。だが、僕は、少なくとも、謙虚さを欠くことが自分の欠点だと認めるくらいの謙虚さは、持っている。・・ / … Je t’assure, chère petite sœur, que la musique des Troyens est quelque chose de noblement grand; c’est en outre d’une vérité poignante et il y a plusieurs inventions qui feront dresser les oreilles et peut-être les cheveux des musiciens de toute l’Europe, ou je suis dans une pitoyable erreur. Il me semble que si Gluck revenait au monde, il dirait de moi en entendant cela : « Décidément, voilà mon fils. » Ce n’est pas modeste, n’est-ce pas ? mais j’ai du moins la modestie d’avouer que j’ai le défaut de manquer de modestie…

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