『回想録』 / Memoirs / Chapter 05

目次
凡例:緑字は訳注

第5章 医学修養の一年のこと、アミュサ教授のこと、オペラ座のある公演のこと、パリ音楽院図書館のこと、抗いがたい音楽への衝動のこと、父の反対のこと、家族との論争のこと

1822年[正しくは1821年]、志望を同じくする従兄弟のアルフォンス・ロベールとパリに入ると、私は自分に押し付けられた職業に就くための勉強に専念した。出立に当たり、父にした約束を、忠実に守ったのである。だが間もなく、厳しい試練に直面することになった。ある朝、ロベールが、「対象」(死体)を一体購入したことを私に告げ、初体験の私を、ド・ラ・ピティエ施療院の解剖室に連れて行ったのである。死体置場の恐ろしい光景。人の手足が散らばっている。生首が顔をしかめている。大きな穴の開(あ)いた頭蓋骨。足元の汚水溜めは血でいっぱいだ。胸が悪くなる臭気が立ちのぼり、雀の群れが肺の切れ端を奪い合っている。隅ではネズミが血まみれの椎骨をかじっている。これらを目にするや、私は嫌悪と恐怖でいっぱいになり、解剖室の窓から飛び降りると、一目散に駆け出した。そして、あたかも死神とそのおぞましい手下どもが背後に迫ってきているかのように、息を切らせて家に逃げ帰ったのである。最初の出会いの衝撃は、まる24時間続いた。この間、私は、解剖学だの、解剖だの、医学だのといった言葉は、もう金輪際聞きたくないと思い、強いられた前途から逃れるための奇想天外な計画をあれこれと考えていた。
ロベールは、私の嫌悪感を和らげ、私の計画がばかげていることを悟らせようと熱弁をふるったが、それも空しかった。それでも、彼はとうとう、私にもう一度やってみさせることに成功した。私は、彼とまた施療院に行き、死体置場に入った。不思議にも、最初は私をあれほど嫌悪させた光景も、いまはなんともなくなっていた。私はただ冷めた不快感をもっただけだった。私はすでに、経験を積んだ医学生のように、この眺めに慣れていたのだった。試練はそれで終わりになった。実際、私は、解剖室に入るなり、気の毒な死骸の胸部を探り、この魅力的な場所の有翼の住人たちに、彼らのささやかな食事である肺の切れ端を振る舞うことに、歓びを覚えるまでになった。「よし、ようやく君もまともになってきたな。『汝小鳥に日々の糧を与え』だ。」、笑いながらロベールが言った。「そう、『我が慈しみ森羅万象に及ぶ』、さ。」[いずれもラシーヌの詩句のもじり]と私は応え、ひどく空腹そうに私を見つめている巨大なネズミに、肩甲骨を一切れ投げ与えた。
こうして私は、意欲的にではないにせよ、少なくとも冷めた諦めをもって、解剖学の講義を受け続けた。のみならず、私が音楽に対してもっているのと同じ情熱を、この学問に対してもっていた、指導者のアミュサ教授には、密かな共感さえ覚えたのである。彼は、解剖学の分野における、芸術家だった。今日、彼は、外科学の大胆な革新者として、ヨーロッパじゅうにその名を知られており、彼の発見は、学問の世界で賞賛と敵意を引き起こしている。昼夜を分かたず働いても、まだ満足しないほど仕事熱心で、そうした生活のストレスがいかに過酷であっても、この憂愁の夢想家は、大胆な研究をやめないし、危険を顧みぬ生き方を、堅持している。彼の行動は、天才のそれである。彼とはいまも交友があり、私は、彼を大いに敬愛している。
ほどなく、パリ植物園で行われていた、テナールの化学、ゲイ・リュサックの物理の講義と、機知に富んだ率直な言葉で聴講者を魅了していたアンドリューの文学の講義という、強力な埋め合わせも、みつかった。これらは、いずれも、非常にいきいきとしていて、聴くほどに面白い講義だった。こうして私は、恐ろしいほど大勢いるへぼ医者の1人として、ぱっとしない自分の名を彼らの名に連ねる定めに置かれた、どこにでもいる医学生の1人になろうとしていた。私がオペラ座に出かけたのは、そうしたある夕方のことだった。そこでは、サリエリの『ダナオスの娘たち』が上演されていた。この公演の盛大で豪華な演出、耳に快いオーケストラとコーラスの厚み、ブランシュ夫人の心に染み入る名演と非凡な声、デリヴィの荒々しく威厳のある歌唱、ヒュペルムネストラのアリア(私はこの作品に、父の書斎にあったグルックの『オルフェ』の断片から私が思い描いていた彼(グルック)のスタイルの特徴のすべてを、サリエリによる模倣を通じて、認めることができた)、そして最後に、スポンティーニが同国人の先輩であるサリエリのスコアに書き加えた、すさまじいバッカナルと、もの悲しく官能的なバレエ音楽。これらが、筆舌に尽くしがたく私の心を乱し、高揚させた。それは、船乗りへの情熱をもって生まれてきたが、故郷の山の湖の小舟しか知らなかった若者が、いきなり大洋上の三層甲板船に乗せられたようなものだった。その晩は、ほとんど眠れなかった。当然、翌日の解剖学の実習には、身が入らなかった。私は、「対象」の頭蓋骨をのこぎりでひきながら、ダナオスのアリア「運命のよきめぐり合わせを(Juissez du destin propice)」を歌った。ロベールは、ビシャの教科書の神経組織の章を参照すべきところで、私が「アンフィトリテ[海の妖精]の許に降り(Descends dans le sein d’Amphitrite)」をハミングしていることに我慢できなくなって、「おいおい、もっと集中しなければ!これじゃどうにもならないや!3日もすれば対象は腐ってしまうんだぜ、18フランもかかるのに!君は本当に分別をもたなければいけない!」と叫んだ。私はそれにネメシスへの讃歌で応え、「飽かず血を求める女神よ」と歌った。彼の手から解剖メスが落ちた。
私は翌週もオペラ座に行った。このときはメユールの『ストラトニース』とペルスュイが音楽を作曲、編曲したバレエ『ニナ』を観た。『ストラトニース』については、序曲、セレウコスのアリア『Versez tous vos chagrins』、相談の4重唱(le quatuor de la consultation)には感心したものの、全体的には、やや生彩に乏しいと感じた。これに対し、『ニナ』のバレエは、大いに気に入った。とりわけ、ビゴッティーニ嬢が悲痛なパントマイムを演じる際、ヴォクト(Vogt)が奏したコーラングレの旋律には、深く心を打たれた。それは、私の最初の聖体拝領のときに、ウルスリーヌ会の女学校で、妹の同級性たちが歌ったあの聖歌の旋律だったのである。それは、『愛しい人が帰ってきたら』というロマンスだった。隣の席で歌詞を口ずさんでいた人に訊ねて、私はペルスュイが借用した元のオペラの題名と、その作曲者の名を知った。それは、ダレラックの『ニナ』だった。ニナの役を最初に演じた歌手(原注)の歌唱がいかに素晴らしかったとしても、私には、それが、あの晩、有名なパントマイムの名手によるドラマティックな演技とともにヴォクトの楽器が奏でた、あの旋律以上に、真に迫り、感動的な表情をもっていたとは、信じがたいのである。
こうした寄り道はしたものの、また、自分の現在の専攻分野と自分の生来の志向との食い違いについて、憂鬱に思いめぐらす晩が、少なからずあったものの、私は、このような二重生活をしばらく続けていた。そのようなことでは、医学修養の実もはかばかしくは上がらなかったし、限られた音楽知識の幅を広げることにもならなかったが、私は、自分がした約束を守り続けていたのである。しかし、パリ音楽院の図書館が、一般に解放されており、そこで膨大なスコアを閲覧することができると知ったときには、そこを訪れ、グルックのスコアを見てみたいという気持ちを、抑えることができなかった。グルックの作品は、そのときはまだオペラ座で上演されていなかったが、私はすでに、この作曲家に、直感的な情熱を感じていたのである。そして、ひとたびその音楽の楽園に入ってからというものは、私はもう、再びそこを出ることはなかった。これは、医学修養に対する、とどめの一撃となった。解剖室は、断固、放棄されてしまったのである。
こうして私は、音楽にすっかり夢中になり、ゲイ・リュサックの指導の下で始めていた電気の実験のコースにすら、指導者を大いに賞賛し、コースのテーマにも強い関心を持っていたにもかからず、行かなくなってしまった。私は、グルックの作品のスコアを繰り返し読み、筆写し、暗記した。私はそのために寝食を忘れた。私はそれらに陶然とした。そして、待ちに待ったグルックの『トリドのイフィジェニー』を、オペラ座でついに聴いたとき、私は、父、母、叔父、叔母、祖父母、友人たちが何といおうと、自分は音楽家になるのだと心に固く決めて、劇場を出たのである。実際、私は、すぐさま父に手紙を書き、私の使命が、差し迫り、抵抗することのできない性質のものであることを知らせるとともに、どうかそれに無駄な反対をしないでほしいと懇願した。父は、情愛のこもった論旨でこれに応じたが、いずれは私も自らの考えの愚かさを悟り、絵空事を追うのはやめ、あらかじめ決められた、名誉ある職業をめざす道に復帰するだろうと結論付けていた。だが、父は、思い違いをしていた。私は、それに対しても、彼の考えに同意するどころか、自分の考えを、いっそう粘り強く主張したのである。そのときから、父と私は、定期的に手紙の応酬をするようになり、それは、回を重ねるにつれ、父の手紙はますます厳格で威嚇的なものに、私の手紙はますます熱のこもったものになっていった。そして、ついに、やがて激怒に至る憤慨に、突き動かされるようになるのである。

原注/Dugazon夫人(了)

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