手紙セレクション / Selected Letters / 1832年5月21日(28歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

ミラノ発、1832年5月21日
ベルリオーズ夫人宛

大切なお母さん、
この前のお母さんの手紙は、ローマを発つ前々日に受け取りました。すぐ返事を書かなかったのは、ここ[ミラノ]で書こうと思っていたからです。けれども、ここに来るまでの旅に、思いのほか時間が掛かりました。僕の返事が来ないことで、心配をお掛けしたではないかと思います。ひどく遠い旅でした。フィレンツェ滞在も3日間だけでしたが、たくさんの知り合いに出会いました。

当地には昨日着いたばかりですが、もう二つも招待を受けています。ミラノは本当に大都会で、ほとんどパリ並です。僕はもう180リューも[1リューは約4キロメートル]お母さんたちのところに近付いて来ています。当地にどれくらい滞在するか分からないので、この手紙に返事は出さないでください。アデールの手紙が郵便局に届いているはずだと思っていたのですが、なぜないのでしょうか?・・・

グルノーブルでまたつまらない騒ぎが起きましたね!まったくばかな人たちです!

それでも、懐かしい街、グルノーブルを再び目にするまでの時間は長く感じます。もうあとはアルプスを越えるだけです。フィレンツェからボローニャに至るまでの間に味わったアペニン山脈越えの辛さに較べれば、アルプス越えの苦労など大したものでないに決まっています。アペニン山脈はとても寒く、吹き飛ばされるのではないかと思うほどの風が吹いていました。

僕の種々の懸案事項[mes affaires〜所定の滞在期間より早期の帰国、パリ帰着までの給費の一括払い等のことであろう]について、オラス[・ヴェルネ]さんと手筈を整えるのは、至って簡単でした。出発に際しては、氏のご家族の誰もが、僕への愛情の証(あかし)をふんだんに示してくれました。心から別れを惜しんでくれていることは疑う余地がありませんでした。こんなことを書くのも、お母さんが時々非難するほど、僕は、人見知りでも非社交的でもないことを、分かっていただきたいからです。

そちらでは、家族皆、元気とまではいえないにせよ、変わりなく過ごしていることと思います。僕の義弟[ナンシーの夫、カミーユ・パルのこと]も、ディジョンから戻っているに違いありません。フィレンツェでは、お母さんの勧めどおり、妹たちの帽子[複数]を買いましたが、実のところ、それが元で、あちこちの税関でひどい目に遭いました[繰り返し関税を徴収された、の意]。が、いまではそれにも慣れ、この先のことも気にならなくなっています。

ローマ出発の前日、『ルヴュ・ウーロペエヌ』誌第3号[1832年3月15日号]を受け取りました。僕の記事[『イタリアにおける音楽の現状についてのあるエンスージアストからの手紙』。回想録21章訳注3(3)参照]が活字になって[après l’impression]1月半も経ってからです。それはともかく、この号はそちらにも届いていると思います。

ベルリンから僕宛に手紙が届いたら、保管しておいてください。おっと、これは言うまでもないことでしたね。転送しようにも、そちらでは僕の宛先が分からないのですから。ばかなことを書きました。

さようなら、大切なお母さん、愛情を込めて抱擁します。

H.ベルリオーズ(了)[書簡全集271]

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