凡例:緑字は訳注 薄紫字は音源に関する注
ローマ発、1831年11月7日
ベルリオーズ医師宛
大切なお父さん、
当地[ローマ]に帰り着き、お父さんたちからの手紙をすべて受け取りました。最初の方のもの[複数]を読んで、お父さんたちが幾日も心配していたと知り、ひどくつらい気持ちになりました。もっと早く手紙を書かなかったのは、非常に不機嫌な状態だったので、僕の前の手紙[単数]が招いた非難をまた引き出してしまうことが心配だったからです[Je n’avais pas écrit plus tôt, parce que je me trouvais vraiment si mal disposé, que je craignais toujours de mériter encore les reproches que ma précédente lettre m’avait attirés.]。今は今で、グルノーブルへの旅行についてナンシーが漏らした言葉のことで、何とももどかしい思いをしています。ニュースがあればすぐ連絡してくれると分かってはいるのですが[; je pense bien toutefois qu’on ne m’en fera pas attendre les nouvelles,]。いったい誰なのですか?どうして教えてくれないのですか?・・・たぶん、僕が知っている誰かですね・・・ああ、もう、まったく・・・[以上の言葉の解釈につき、下記訳注参照]
ナポリを出て3日目にサン・ジェルマーノで書いた僕の手紙は、受取っていただいたと思います。そこでは、ポンペイ訪問のことを書きました。
サン・ジェルマーノを出て、イゾラ・ディ・ソラには、その晩に着きました。そこは、前にも一度、日中に訪ねたことがあったのです。ところが、この村には、安食堂(taverne)の一つすら見つかりませんでした。村人たちに尋ねても、取りつく島のない、否定の言葉しか返ってきません。途方に暮れましたが、幸い、村で製紙工場を経営している、ヴォアロン出身のドーフィネ人の名前を思い出しました。その人は、イゾラで初めて会った時、話し方ですぐに同郷人と分かりました。そこで、[その人、]クリエさんに会いたいと告げ、彼の家に連れて行ってもらいました。彼は、僕らを快く受け入れ、非の打ちどころのない親切さで、宿を提供してくれました。僕はたまたまナポリで手に入れたきれいな黒玉(くろだま)の懐中時計用の鎖を持っていたので、それをお子さんたちの一人にプレゼントすることができ、たいへん幸いでした。道連れのスウェーデン人の一人は絵がとても上手で、出発前、クリエ夫人が幼いお嬢さんの髪を三つ編みにしているところを描いた小さなスケッチを、僕らのホストに渡しました。見事に特徴を捉えたその絵は、家族全員を大喜びさせました。そして翌朝、僕らは、広大な山地を横切ってスビアコまでまっすぐに進むべく、かろうじてラバが通れるくらいの葡萄畑の道をまた歩み始めました。僕らの苦労は、ナポリからここまでの間のそれとは、まったく別物になりました。道のない場所がしばしばありました。アラトリからアルチノまでは、ずっと急流の川床を進みました。アラトリで過ごした夜は、それはひどいものでした。というのも、ベッドがとても硬く、巨大なノミがうようよしていて、その上、ギターと恐ろしく調子外れなクラリネットを持った若者たちが一晩じゅう村を歩き回り、彼らの意中の野生の美女たちの窓の下で、セレナードを歌うのです。僕はこれで熱を出してしまい、アンティコリで卵と火で焙ったトウモロコシの粗末な夕食を食べるまで、治りませんでした。僕らはこの村でガイドを雇い、高い山々の峰を覆う広大な牧草地を通ってスビアコから8マイルの地点に至るまで、案内してもらいました。午後7時、スビアコに着き、住人たちの歓呼を受けました。彼ら曰く、「 eh! lo Signor Stefano!… lo Signor Maestro! benvenuti, signori! … Come? di Napoli ?… a piede!… d’avvero! non e possibile ? … 」[イタリア語。「おや、ステファノさん!・・・音楽の先生も!お二人ともようこそ!・・・何と、ナポリからですって?・・・歩いて?・・・本気で仰っているのですか?・・・あり得ないことです!」]
スビアコには、アカデミーの風景画家が来ていて、僕が衣類を洗濯してもらっている間、洗い替えを貸してくれました。3日ばかり休養してから、やはり徒歩でティヴォリに向けて出発し、その翌日、ローマに向かいました。様々な巡り合わせ、一風変わった方針、泊まった場所、その他どの点からも、辛かったことを含めてさえ、これほど面白かった旅は、他にありません。その上、二人のスウェーデン士官とも知り合うことができましたが、彼らは、これからドイツに行ったとき、助けになってくれるかもしれません。僕は、ストックホルムに行く可能性のこともぼんやりとは考えているのですが、彼らは、ベルナドット[フランス出身のスウェーデン(=ノルウェー連合王国)国王、カルル14世のこと。ナポレオン(1世)の将軍として活躍した後、スウェーデン国王の招請を受け、同国の王位を継承した。]の護衛隊の所属で、多くの人を知っていますから、その場合、僕が道を切り開くのを、支援してくれるかもしれないのです。
他方、次のような困った事態にもなっています。ニース行以来、僕はいつも給費に遅れている[en arrière de ma pension〜辞書にないが、「支給日前に所持金が尽きてしまう」の意か?]のですが、今回のナポリ旅行で、完全に破産してしまいました。先月ナポリで給費の前渡しを受けたので[ayant touché d’avance à Naples mon dernier mois]、当地ではもう何も受け取れないのです。その結果、旅行から帰って以来、文字どおりの文なしで、食住はアカデミーで提供されるとはいえ、かなり困った状態です。大切なお父さん、ですから、真面目な話、もしお金を送っていただくことが可能なら、それは、僕を大いなる苦境から救い出してくれることになります。
愛する息子より
H.ベルリオーズ (了)[書簡全集247]
訳注/この手紙の第1パラグラフの意味について
「非常に不機嫌な状態」とは、おそらく、『回想録』40章で詳しく説明されている、鬱ぎ(スプリヌ)の状態のことであろう。それは、同42章冒頭で、ナポリからローマに戻った後、憂鬱(アンニュイ)が再発したと語られていることとも、符合する。なお、40章最終パラグラフ冒頭の言葉から、ナポリ旅行に出る直前も、この状態に陥っていたことが分かる。
家族の「非難」を招いたという、ベルリオーズの「前の手紙」は、8月7日にローマで書かれた手紙(アデール宛)である可能性が高い。終始不機嫌な調子で書かれたこの手紙は、書き手が強い鬱ぎの状態にあったことを示している。「非難」の言葉はおそらく、この手紙への返書、すなわち、この手紙の末尾に書かれた依頼に応え、メランの祖父ニコラ・マルミオンへの手紙の書き方(住所)をベルリオーズに知らせる手紙に記されていたのではあるまいか。その書き手は、おそらく母、ベルリオーズ夫人(ニコラ・マルミオンは彼女の父親で、メランにあるその家は彼女の実家である)で、息子の手紙の不機嫌な調子や、手紙をくれないと家族をなじっていることなどをたしなめる内容だったのだろうと推測される。
なお、ベルリオーズは、この8月7日の手紙の後、9月15日に、ローマからメランの祖父宛に手紙を書いている(書簡全集240)。また、(現存する)次の家族宛の手紙は、10月2日、ナポリで書かれたものであるが、この手紙は、文面から同月8日以降まで投函されなかったことが見て取れるから、それがラ・コートに届くまでの間、家族がベルリオーズから音信がないことを心配したことは、あり得ることである。
パラグラフ後半、「今は今で」以下の言葉は、当時進められていた、ナンシーの縁談に言及したものである。