手紙セレクション / Selected Letters / 1831年8月7日(27歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

ローマ発、1831年8月7日
アデール・ベルリオーズ[及び家族]

ああ!まったく、やれやれだ。・・・スビアコから戻って2週間、僕は、ひどくじりじりしながら、これまでに書いた3通の手紙に、君たちから返事が来るのを待っている。というのも、当地[ローマ]に来ていたそちらの手紙(大切なお母さん、貴女からの手紙です)には、僕が書いた最初の手紙すら、受け取ったとは記されていないからだ。そちらには三人も四人も人がいるというのに、独り異郷にいる家族との連絡すら、途切れなく続けることができないのだろうか。このこと[手紙が来ないこと]でやきもきさせられるのは、もう、うんざりだ[ Je m’ennuie à en devenir fou; ]。山[スビアコとその一帯のこと]を後にしたのは、お金が尽きたことが理由だ。ティヴォリまでは、ロバに乗り、岩場の道を戻ったが、その難儀さは、どれほどの急階段もそれに較べたら何でもないと思うほどだった。当地に帰って来てからは、物憂さ[ l’ennui ]が、今まで以上の激しさでぶり返している。非常に能動的な精神生活を送った後で、本も音楽も劇場もない土地に、釘付けにされているのだ。何か作品を書いても、ロマンス[恋歌]ひとつまともに伴奏できないピアニストしか、見つからない。館長夫人の夜会に度々出るのは、あまりに苦痛が大きく、僕の力に余る。そこでは、いつも同じことが繰り返されている。ダンスをし、意味のないことを話す。装飾彫刻を眺め、古い新聞や雑誌を読み、不味い紅茶をすする。それから、ローマの街を見下ろす窓のところへ行き、月の光を浴びながら、なんとも月並みで、新味がなく、退屈で、くだらない、決まりきった意見を、いくつか口にする。話題は、コレラのこと、パリの騒擾のこと、[蜂起した]ポーランド人たちの敗北のこと、フランス軍のアルジェでの敗戦のこと、花火のこと、サン・ピエトロ寺院のイルミネーションのこと、館長令嬢のダンスのこと、館長の屈託のない陽気さのこと、ある枢機卿の策動のこと、テベレ川の水浴場のこと。僕はいつも、前の集まりのときよりも一層孤独で鬱いだ気分になって、悪魔かコレラが、彼らをみな運び去ってしまえばいいと願いながら、会場を後にする(それはたぶん、もうすぐ現実になるだろう。すでに当地では、家禽の全滅が危惧されている[ の意か。 je m’en retourne plus seul, plus ennuyé qu’auparavant, souhaitant que le diable ou le choléra morbus les emporte tous, ce qui ne tardera peut-être pas d’arriver, et que redoute déjàˋ toute la volaille du pays. ])。

ここには、登ろうにも登る山がない。急流も、ひんやりとした日陰も。あるのはただ、パン焼き窯の底面の石のように灼熱した街路と広場、黄色い泥水が流れているだけの、どうということもない一本の川、いつも眠たげな様子をした住民たちばかりだ。それに司祭と修道士。彼らは、高所にも低地にも、右にも左にも、戸外にも屋内にも、貧しい人のところにもお金持ちのところにも、教会にも舞踏会にも、カフェにも円形劇場にもいる。ご婦人方と二輪馬車に乗っていることもあれば、男性たちと連れだって歩いていることもあり、オラス館長の夜会にも、氏のアトリエにも、我々の館の庭にも来ている。要は、至る所にいるのだ。

それから、城壁の外に出ると、1リューも進まぬうちに、かつてそこで人が殺されたことを示す、小さな木の十字架が据えられた石の塚を、ひっきりなしに見かけるようになる。御者にそれが何かを問うと、彼は、ことも無げに、こう答えるのだ。「ある女が恋人を殺したのです」、「あるフランス人がマドンナを侮辱して、鉄砲で撃ち殺されたのです」、あるいはまた、「あるイギリス人が、山賊に殺されたのです」等々。

ローマの民衆が本当に夢中になれるものは、二つしかない。彼らが言うところの愛と、聖母マリアだ。一般には、彼らは芸術に対する鋭敏な感受性を持っていると信じられている(あたかも、芸術への感受性が、それ以外の感受性を何ら持たず、人生がただ外的な官能の満足のためだけにあるような人々の心にも、宿り得るかのように)。僕はある日、あるモデルに、ラファエロの話をした。すると彼はこう言うのだ。自分はその画家とは面識がないし、その人のところでポーズを取ったこともない、とね。いわんや音楽においてをや、だ!・・・にも関わらず、僕はここで暮らさなければならない!・・・何ごとにつけ、パリだけなのに[ Pour la musique!… Et il faut vivre ici!… Il n’y a que Paris, pour tout ; ]。それなのに、そこ[パリ]に居ることができないのだから、そうである以上、僕はむしろ、そのように制約された生活領域の可能な最大部分を、旅し、駆け回り、真に新奇なものを見、踏破し、2通り、3通り、10通り、30通りの生き方を試し、運を試す[ jouer à la roulette 〜 ルーレットをする]ことを望む。たぶん、これらすべての可能性の組み合わせから、1、2週間の完全な満足が生まれてくるのだと思う。そして、いずれにせよ、賭けることによる気晴らし、あるいは、たとえ賭けに勝てなくとも、繊細で知的な人々の99パーセントがその犠牲となるこの瞞着が、いったいどこまで広がるものなのかを身をもって知るという気晴らしが得られるのだと思う[ et on aurait toujours l’amusement du jeu, ou celui, si l’on ne gagne pas, de voir jusqu’où s’étend la mystification dont les quatre-vingt-dix-neuf centièmes des êtres sensibles et intelligents sont victims. ]。バイロンの真似をしてみたいというのではない。そんなことをしてもつまらないと思う。そうではなく、僕は、アメリカ大陸、南洋の島々、自然の大厄災、若い民族、大地から生じたばかりの都市を、見てみたいのだ。あらゆることを試したい。僕は、アンティル諸島のプランテーション経営者になってみたい。合衆国の篤志家にも、ペルーの愛国者にも、タヒチ島のクエーカー教徒にも、オーストラリア[ Nouvelle Hollande]の開拓者にも。そうしてヨーロッパに帰り、このよぼよぼの老女[ヨーロッパのこと]が相変わらずくどくどと同じことを言い続けているのかどうか、錯乱を伴う彼女の高熱が治ったかどうか、知りたがっていたことを彼女がついに知ったのかどうかを、確かめてみたいのだ。[そうすれば、]少なくとも、人生の終わりを迎えたときにも、それ[自分の人生]を力の限り追求しなかったということにはならないと思う。それなのに、ここでくすぶっていなければならないのだ!・・・

『パリのノートルダム』、『レ・ザンティム』[いずれもパリで出版されたばかりの小説。]等、好みに合った本が手に入るのなら、日照りの中、40リュー[1リューは約4キロメートル]の距離を歩くことも、僕は厭わない。だが、[ローマでは]それもかなわない。アカデミーにも図書室はあるが、どのような本がそこにあるかは、まあ、見てもらうほかない。・・・君たちも退屈しているに違いないとは思うが、少なくともそちらには、本がある。

フェランの結婚は、アデールの手紙で知った。彼がご両親の承諾を得たことは知っていたが、彼からは、5月24日を最後に、便りがない。スビアコに発つ前に手紙を書いたが、返事がない。

僕は、今夜、あるアカデミーの同僚に誘われて、ローマから12リューほど離れた狩猟場に出かける。野を歩くことが幾らか刺激になるかどうか、試してみるつもりだ。そうなってくれるとよいが。僕らは、自分の身体を疲れさせ、その後、日差しが強くなる朝10時には、いずれかの酒場でオルヴィエト酒を飲み、連れていった猟犬たちと一緒に、干し草の上で眠る計画だ。さあ、送ろう、動物の暮らしを!・・・

H .B.

お父さんは手紙を全然くれない。だから、メランに手紙を送るには、宛先をどう書けばよいか、知らせてください。僕はもう、書き方を覚えていない。(了)[書簡全集238]

次の手紙

年別目次 リスト1(1819-29)  リスト2(1830-31a)