目次
凡例:緑字は訳注 薄紫字は音源に関する注
29章 学士院の4度目のコンクールのこと、1等賞を得たこと、7月革命のこと、バビロン攻略のこと、ラ・マルセイエーズのこと、ルージェ・ド・リールのこと
この年の学士院のコンクールは、例年より少し遅く、7月15日に催された。私にとって5回目のエントリーであり、何がどうあれ、二度とこの場所に来ることはすまいと固く心に決めていた。1830年のことである。課題カンタータの仕上げに取り組んでいると、突然、革命(la révolution )[「七月革命」]が起きた。
「重苦しい日ざしが人気(ひとけ)のない橋や河岸(かし)の大敷石を熱していたあの時、
打ち鳴らされる教会の鐘[複数]が遠吠えのように轟いていたあの時、
銃弾がしゅうしゅうと音を立て霰(あられ)のように降り注いでいたあの時、
蜂起した民衆がパリ中で上げ潮のように唸り声を上げていたあの時、
古い鋳鉄の大砲の不気味な発射音に「ラ・マルセイエーズ」の歌が応えていたあの時・・・」(原注1)
Et lorsqu’un lourd soleil chauffait les grandes dalles
Des ponts et de nos quais déserts,
Que les cloches hurlaient, que la grêle des balles
Sifflait et pleuvait par les airs ;
Que dans Paris entier, comme la mer qui monte,
Le peuple soulevé grondait
Et qu’au lugubre accent des vieux canons de fonte
La Marseillaise répondait …
学士院構内(多くの世帯がそこで暮らしていた)の様子が、それ故、大いに気になった[L’aspect du palais de l’Institut, habité par de nombreuses familles, était alors curieux ;]。固く閉ざされたドア[複数]をマスケット銃の弾が貫いている。建物の正面を砲弾が揺るがし、女性たちが悲鳴を上げている。発砲の合間、静けさが訪れるたびに、幾度となく遮られていた陽気な歌を燕たちが一斉に再び歌いはじめる。私は、建物の屋根の上を流れ弾が放物線を描いて飛び、私の部屋の窓の近くの壁に当たって潰れる乾いた鈍い音を聞きながら、提出作品のオーケストレーションの最後のページを書いていた。大急ぎで。そしてやっと29日に、自由の身となって施設の外に出、「聖なるならず者ども( la sainte Canaille )」(原注2)に加わってパリの街を翌日まで駆け回ることができるようになった。
この有名な数日間のパリの表情を、私は決して忘れないだろう。下働きの小僧や浮浪児たち( gamins[ガマン])の並外れた勇敢さ、男たちの熱情( enthousiasme )、娼婦たちの興奮( frénésie )、スイス兵・国王の守備兵たちの悲しげな諦めの表情、職人たち( les ouvriers )が(彼らの言い分によれば)一つの盗みも許さずパリの街を掌握したことに抱いていた特別な誇り。せっかく本物の勇猛果敢ぶりを発揮したのに、手柄話の口調やその内容に彼らが付けたおよそありそうにない尾鰭のせいで、かえってそれを滑稽なものに感じさせてしまう、何人かの若者たちの途方もない大言壮語。この若者たちは、たとえば、彼らがバビロン通りの騎兵隊の営舎を奪取したときのことを、確かに大きな犠牲を払わないではなかったにせよ、まるで自分たちがアレクサンダー大王の兵士ででもあるかのように「我々はバビロンの攻略に当たっていた」などと大真面目に語るほかないと思っていたのである。このフレーズは、目的には適っているにしても、長すぎた。その上、あまりに何度も繰り返し言っていたので、切り詰めた言い方がどうしても必要になった。こうして彼らは、何という仰々しい声色で、何というアクサン・シルコンフレックス[母音を長く伸ばすことを示す記号]を「o」の字に付けて、「バビロン( Babylone )」の語を発音していたことか!ああ、パリっ子たちよ!まあ、これを、茶目っ気がある( farceurs )とか、並外れている( gigantesques )と言うのもいいだろう、だがそれにしても、並外れたいい加減さ( gigantesques farceurs )である!・・・
そして通りを満たしていた音楽、歌、唸り声と言ったら!それがどのようなものだったかは、実際に聞いた人にしか分からないだろう。
だが、私がある一つの途方もなく強い印象、より適切には音楽上の衝撃とでもいうべきものを受けたのは、この統制のとれた革命の、数日後のことだった。パレ・ロワイヤルの中庭( la cour )を通り抜けようとしていると、ある一群の人々の方向から、よく知っている旋律を歌う声が聞こえてくるような気がした。近づいてみて、10人から12人の若い男性たちが、実は私が作曲した戦いの頌歌を歌っているのだということが分かった。その曲の歌詞は、ムーアの詩集、『アイルランド歌曲集』から訳されたものだったが、図らずも、まさしく時宜にかなった歌になっていたのである(原注3)。この種の成功にはひどく不慣れだった作者の私は、すっかり喜んで歌い手たちの中に入って行き、自分も加わらせてもらえるだろうかと彼らに尋ねた。彼らは、少なくともこの合唱団に関しては全く無用の長物だったバスのパート1つを増やすことにして、この申し出に同意した。とはいえ私は、歌い手諸氏にこの曲の作者が自分であることを悟られないように気をつけていた。私の作品に与えていたテンポのことで、拍子を取っている人にかなり強く意見を言うことまでしたことを思い出す。幸い、私は、その直後に歌ったこの人の作曲したベランジェの『古い軍旗』( le Vieux drapeau )で、受け持ちのパートを正確にこなし、この人の寵愛を取り戻すことができた。この即興演奏会の幕間には、人だかりから我々を保護してくれていた3人の国民衛兵が、軍帽を手に聴衆の中を巡り歩き、革命の3日間の負傷者のための寄付を募った。この行動は、パリっ子たちの目には珍しいものに映ったが、募金の成功には、それで十分だった。やがて我々は、持ち主の財布の紐を弛める働きをする我らが妙なる調べなかりせば何事もなく元の在りかにとどまっていたに違いない100スー硬貨が、帽子の中にたっぷり落とされるのを目にした。だが、聴衆は次第に数を増し、愛国的なオルフェウスたちの歌う場所として確保されていた小さな円形の余地は、絶えず縮小していった。我々を護ってくれていた「軍勢」( la force armée )も、上げ潮のごとく押し寄せてくる野次馬を前に、なす術(すべ)を失いつつあった。我々はどうにかその場を逃れたが、人波は我々を追って来る。ヴィヴィエンヌ通りに通じるギャルリ・コルベール[パレ・ロワイヤルの北隣にあるアーケード(屋根付きの通路)]に来たところで、縁日のクマのように追い詰められ、囲まれてしまった我々は、歌を再開するよう彼らから促された。ちょうどその時、アーケード( galerie[ギャルリ])のガラス張りのロトンダ[ドームのある円形の建物〜小学館ロベール仏和大辞典]に面した場所に店を構えていた小間物屋の女主人が、その店の2階に上がるよう、我々に申し出てくれた。その場所からであれば、我々も、窒息させられる危険を冒すことなく「我らの熱烈なる讃美者らに奔流のようにハーモニーを注ぎかける」[当時よく知られていた詩句をもじった表現とのこと〜シトロン編『回想録』p.157, n.6、ブルーム編『回想録』p.284, n.14 ]ことができるに違いなかった。我々はその申し出を受け入れ、『ラ・マルセイエーズ』を歌い出した。すると、最初の数小節で、それまで我々の足元でせわしなく動きまわり、騒々しくしていた群衆が、動くことを止め、水を打ったように静かになった。その沈黙の深さ、厳かさは、ローマ法王がサン・ピエトロ広場のバルコニーから全カトリック信者に向けウルビ・エト・オルビ( urbi et orbi [ラテン語。「都(ローマ)と世界に」〜小学館ロベール仏和大辞典])の祝福を与えるときのそれにも劣らぬものだった。第2連が終わっても、聴衆は黙ったままである。第3連が済んでも変わらない。これではいけない、と私は思った( Ce n’était pas mon compte. )。この大群集を目の当たりにして、私は、ルージェ・ド・リールのこの歌を、自分が大編成オーケストラと二重合唱のために編曲したばかりであること、そして、その総譜のタブラチュア[tablature。通常は「文字譜」を意味する(小学館ロベール仏和大辞典、新音楽辞典等)が、ここでは総譜の声楽の段の声部指定の記載を指しているように思われる。]に、「バス、テノール」の代わりに、次のように記したことを思い出していたのである。「声、心、そして血管に血を持てる者すべて」。「ああ!」私は思った。「これこそ、僕の仕事ではないか!( voilà mon affaire. )」だからこそ私は、この頑なな聴衆の沈黙を、この上なく不本意に感じていたのだった。第4連では、もう我慢できなかった。「ええい、もう!歌うんです、歌うんですってば!」すると人々は、「武器をとれ!市民らよ!」のフレーズを、訓練を積んだコーラスのそれのような団結と力強さとをもって、歌い出した。思い描いていただきたい、ヴィヴィエンヌ通りに通じるアーケードが人で溢れ、ヌーヴ・デ・プティ・シャン通りに向かうアーケードも同様で、中央に位置するロトンダもまたそうだったこと、そして4、5千人もの歌い手が、左右を店舗の板壁で、上を彩色ガラスで、下を響きのよい敷石でそれぞれ塞がれた、よく響く空間に詰め込まれていたことを。さらにはまた、思い起こしていただきたい、歌い手たちの大多数が、男たちも、女たちも、子どもたちも、前日の戦いの興奮にいまなお震えていたことを。雷で撃つようなこの歌のリフレインの効果が、どれほどのものであったか、たぶん想像がつくだろう。・・・私はといえば、言葉どおり、地面に倒れ伏した。我らが小さな一座は、この爆発的な高揚にたじろぎ、雷鳴の後の鳥たちのようにすっかり黙り込んでしまった。
今しがた、『ラ・マルセイエーズ』を二重合唱と大規模器楽のために編曲したと書いたが、私はその作品を、この不滅の賛歌の作者に献呈した。大切に保存してある次の手紙をルージェ・ド・リールから受け取ったのは、そのことに関してであった。
1830年12月20日、ショワジー・ル・ロワ(Ghoisy-le-Roi)発
ベルリオーズさん、私たちはまだ知り合っていません。知り合いになりませんか?貴方の頭は、絶えず噴火している火山のように見えます。私の頭には、なおいくらか煙を上げてはいるものの、少し前に消えてしまった藁(わら)火(feu de paille [「束(つか)の間の輝き」を意味する~小学館ロベール仏和大辞典])があるだけです。それでも、貴方の火山の豊かな成果物と、私の藁火の燃えさしとが組み合わされば、何かが生まれるかもしれなせん。このことに関し、私は、貴方に一つ、あるいは二つ、提案ができると思っています。そのためには、私たちは会い、理解合う必要があります。よろしければ、貴方にお会いできる日、つまり、ショワジーにお越しいただき、当方にて昼食又は夕食(粗末なものには違いありませんが、貴方のような詩人は、田舎の情趣をお汲みになり、そうとはお感じにならないだろうと思います)を差し上げることのできる日を、お示しいただけないでしょうか。[事情さえ許していたなら]、貴方とお近づきになり、さるささやかな私の創造物(certaine pauvre créature[『ラ・マルセイエーズ』のこと。なお、créature(創造物)は女性名詞なので、以後、この歌は女性形の代名詞「彼女」で言及される。]に新たな装いを与え、聞き及びますところでは、裸体の彼女(sa nudité[伴奏なしの『ラ・マルセイエーズ』のこと])に貴方の輝かしいイマジネーションの衣(ころも)を掛けてくださり、評価を高めてくださったことに、お礼の気持ちをお伝えしようとすることを、今日まで待つことはなかったと思います。けれども、私は歩行の不自由な一介の隠棲者にすぎず、貴方のおられる大都会[パリ]を訪れる機会は、ごく稀で短い期間のそれしかありません。そして、その時間のほとんどは、そこで私がしたいことを全くせずに過ごしているのです。私のこの呼びかけを、それは実のところ貴方にとってあまり当てにならないものかもしれませんが、たとえそうだとしても、貴方がお断りにならないことを期待し、また、いずれにせよ、貴方に直接、私の個人的な謝意をお伝えし、さらには、貴方が大切にしてきておられるもの、つまり、真に音楽を愛する人々が貴方の大胆な才能のほとばしりを見て貴方に寄せている期待のことですが、その期待を私もまた共有させていただく喜びをお伝えできるようにしてくださることを期待しても、よろしいでしょうか?[この結びの一文は、相当複雑な修辞が施されているように感じられ、訳出も相応に難しい。原文:Puis-je me flatter que vous ne vous refuserez point à cet appel, un peu chanceux pour vous à la vérité, et que, de manière ou d’autre, vous me mettrez à même de vous témoigner de vive voix et ma reconnaissance personnelle et le plaisir avec lequel je m’associe aux espérances que fondent sur votre audacieux talent les vrais amis du bel art que vous cultivez ?]
ルージェ・ド・リール
後に分かったことであるが、ルージェ・ド・リールは、『オセロ』に基づくオペラの台本を書き上げていて、それを私に提案しようとしていたそうである(付言すれば、彼は、『ラ・マルセイエーズ』のほかにも、多くの優れた歌曲を作っている)。だが、彼の手紙を受け取った日の翌日にはパリを発たねばならなかったから、私は彼に詫び、彼に負っていた訪問を、イタリアからの帰還後に延期した。その間に彼は亡くなり、私は彼に会わずじまいになった。
パリがどうにか平穏を取り戻し、ラファイエットが、[オルレアン公]ルイ・フィリップを、数ある共和政体のうちで最善の選択として市民らに紹介し、ついに「計略が成就」( le tour fut fait )すると、社会の機構も再び機能しはじめ、芸術アカデミーの業務も再開された。ローマ賞作曲コンクールの課題カンタータの演奏も、既にそのメンバー構成を紹介した二つの会議体[芸術アカデミー音楽部会と同アカデミー全体会合のこと〜22章参照]の前で(相変わらずピアノで)行われた。そしてこれらの会議体のいずれもが、私が後に廃棄した、とある作品[『サルダナパル』]のおかげで、私が健全な教義に宗旨変えしたと認め、ついにようやく・・・私に1等賞を与えたのである( m’accordèrent enfin, enfin, enfin …le premier prix )。私は、それまで幾度ものコンクールで何も得ることができず、非常に大きな失望を味わっていたので、彫刻家のプラディエ( Pradier )が、アカデミーの講堂から、評議の結果を知るために図書室で待機していた私を探しに来て、私の手を強く握り締め、「貴君が1等だ!」と叫んだときにも、わずかな喜びしか感じなかった。嬉々とした様子のプラディエと冷ややかな私とを見較べる人があれば、誰であれ、彼が受賞者で私がアカデミシャン(アカデミー会員)だと思ったことだろう。それでも、私はすぐにこの栄誉に伴う特典の価値を認めるようになった。コンクールの在り方についての私の持論からすれば、受賞の栄誉が私の自尊心をくすぐろうはずは余りなかったにせよ、それでもそれは、私の両親の名誉心を間違いなく満足させる公的な成功だったし、千エキュ[3千フラン]の年金と、すべての歌劇場に入場できる特典とを与えてくれた。それは、ある一つの証書、肩書であり、自立、そして、5年間の概ね不足のない生活を意味したのである。
原注1/オーギュスト・バルビエの詩集『イアンブ( Iambes )』
原注2/オーギュスト・バルビエの言葉
原注3/「その土埃がまだ我らが戦士らの血に染まっている、この野を忘れずにいよう(N’oublions pas ces champs dont la poussière est teinte encor du sang de nos guerriers.)」。[『アイルランド9歌曲』第2曲『戦いの歌(Chant guerrier)』のリフレイン(繰り返し句)。全集CD8(3)、 YouTube : chant guerrier berlioz ](了)
訳注1/時系列表
凡例:薄青字は政治状況、橙字は本章で語られる事項、「B」はベルリオーズを表す。
1829年
8月 国王シャルル10世(フランス大革命中の1792年に処刑されたルイ16世の弟。もとのアルトワ伯。)、過激王党派の政治家、ポリニャックを首相に起用
1830年
1月 共和派の期待を集めるラファイエット(大革命初期に活躍した自由主義貴族。初代フランス国民衛兵司令官)、学生結社の会長に就任(王政復古後政界に復帰したラファイエットは、その後秘密結社シャルボヌリに名を連ねるなど、かねてから同様の動きをみせていた)
同 歴史家ティエールら、自由主義的な大銀行家ラフィトの出資を得て『ナシオナル』紙を創刊。同紙は以後、「君臨すれども統治せず」の原則の確立、オルレアン公(ルイ14世の弟の家系)ルイ・フィリップの擁立等に向けた論陣を張る。
3月 議会下院、内閣不信任案を可決。国王、議会休会(9月まで)を宣言
5/16 国王、議会を解散
5/16 B、ヌヴォテ劇場で『幻想交響曲』のリハーサル(26章)
6-7月 議会選挙、反政府派が圧勝
7月 ラフィト、ラファイエットと会談、ルイ・フィリップを売り込む
7/17 B、ローマ賞課題曲作曲のため学士院の小部屋に入る(本章)
7/25 国王、出版の自由停止、新議会解散等を内容とする勅令案を承認
7/26 上記勅令(「7月勅令」)、官報に掲載
7/27-29 7月革命(「栄光の三日間」)(本章)。この間、ラフィト邸に抵抗運動本部が置かれ、ラファイエットを国民軍司令官とすること、ラフィト、ペリエ(自由派の銀行家)らを委員とするパリ市委員会を設置することなどが決められる。
7/29 B、課題曲を提出、学士院の小部屋を出てパリ市中へ(本章)。ルーヴル宮陥落
7/31 ルイ・フィリップ、ラファイエットとともに市庁舎バルコニーに姿を見せ、民衆の歓呼を受ける
8/2 シャルル10世、退位を宣言(「復古王政」の終焉)
8/9 ルイ・フィリップ、議会両院の議員の前で改正「憲章」(「憲章」は復古王政期の欽定憲法)を遵守する旨の宣誓文を読み上げて即位。「七月王政」はじまる
8/19 芸術アカデミー音楽部会、Bへのローマ賞授与を決定(本章)
8/21 芸術アカデミー全体会合、Bへのローマ賞授与を決定(本章)
10/30 B、『サルダナパル』初演(学士院「ローマ賞」授与式)(30章)
11/7 B、『シェークスピアの「あらし」に基づく劇的幻想曲』初演(27章)
(データの出所について)
時系列表のデータのうち、政治状況に関するものは、主として中央公論社『世界の歴史』(旧版)第12巻、山川出版社『フランス史2』、従として当館「参考文献」ページ所掲のその他の文献に拠り、音楽史に関するものは、主としてブルーム編『回想録』、シトロン編『回想録』の年譜及び本文注釈、『書簡全集』の年別時系列等、従として当館「参考文献」ページ所掲のその他の文献に拠った。
訳注2/この章に関係する手紙
1830年
8/2 父ベルリオーズ医師宛(「・・・僕は真っ先に学士院を出ました。ルーブル宮奪取が、まさに成ったところでした。人々が眼下で血みどろの戦いをしている中、固く閉ざされ、壁で護られたこの城塞の中に、2日間も僕を留め置き得たのは、このコンクールのどうしようもない重要性だけでした。・・・大勢の善良な人々が、血をもって我々の自由という獲得物を贖(あがな)ったというのに、自分は何の役目も果たさなかった人間のひとりだとの思いが、僕に片時の安らぎも与えてくれません。・・・こちらでは、すべてが平穏です。この3日間の魔法のような革命に見事に行き渡っていた秩序が、いまも維持され、確固としたものになっています。盗みも、いかなる暴力沙汰も、何ひとつありません。素晴らしい人たちです!」)
8/4 妹ナンシー宛(「・・・パリは、何事もなかったかのように平穏だ。・・・失脚した国王は、今日、シェルブールに向かっている。その地で船に乗り、ロンドンに行くのだ。オペラ座では、昨晩、『ラ・マルセイエーズ』がリクエストされた。アドルフ・ヌリがあの旗[三色旗のこと]を手に登場し、それを歌った。劇場のすべての合唱団員とオーケストラ団員が演奏に加わった。その効果は想像もつかないものだった。演奏の直後、誰かが舞台に短信を投げ入れ、それが読み上げられた。それは、この崇高な賛歌の作者、ルージェ・ド・リールが赤貧の状態にあることを聴衆に知らせ、彼のための募金を呼びかける内容だった。・・・僕の友人たちは、ほぼ全員が毅然とした行動に出たが、幸い、それにもかかわらず、殺された者も怪我をした者もなかった。・・・彼の近くに14歳の錠前屋の少年がいたが、この子の武器はハンマーひとつだった。彼は僕の友人に言い続けた。「さあ、将軍どの、1人倒してくれよ。そいつの銃を貰うから。」実際、リシャール・・・は、スイス兵を1人撃ち倒した。相手が倒れるのをみるが早いか、少年は遺体に駆け寄って装塡された銃を奪い、退却していく部隊に向け、それを撃った。ほかにも、いずれ劣らぬ並外れた行動がいくらでもあった。・・・分かっているとも。賞は必ず取るから、落ち着いていてくれたまえ。ル・シュウール先生も、僕のカンタータに大喜びしてくれている。僕は学士院を満足させるため必要なものを、ぬかりなく処置した。だが、この賞が僕にとって価値を持つのは、それでカミーユが得られるようになる限りでのことだ。それ以外に益はない。・・・今頃はラ・コートの鐘楼にも、あの美しい旗[三色旗のこと]が翻っていることだろう。フランス全土でそうであるように。・・・」)
訳注3/詩人オーギュスト・バルビエとその作品について
冒頭に引用されている詩は、オーギュスト・バルビエの風刺詩『獲物の分け前(La curée)』の最初の8行である。
バルビエは、ベルリオーズのオペラ『ベンヴェヌート・チェリーニ』(1838年初演)の台本作者(の一人)でもある。ベルリオーズは、この詩人の作品を大いに高く評価していた。たとえば、1834年8月31日付で友人フェランに宛てた手紙(書簡全集408)には、次のように記されている。「・・・貴君は、バルビエの最新作、彼が『棺に横たわる美しきジュリエット』と呼ぶ国、イタリアを題材とした本を読んだだろうか。『イル・ピアント[涙]』という詩集だ。この本にも、素晴らしい詩がたくさん載っている。いつか僕が彼の『イアンブ』に入った詩の断片を貴君にいくつか読み聞かせたとき、貴君が僕の熱中( enthousiasme )を共有しなかったことに、僕は、率直に言って、非常に驚いた。・・・」また、翌1835年4月15日付のフェランへの手紙(書簡全集429)においても、「芸術家の使命のなかでも特に真面目で崇高なものについて、彼[バルビエ]以上に理解している人はいない」と語っている。さらに、『回想録』37章では、上にみたバルビエの詩句(「棺に横たわる美しきジュリエエット」〜詩集『イル・ピアント』所収作品、『別れ(L’Adieu)』の一節)を結語に用いている。
この詩人の作風を知るための一助として、風刺詩『獲物の分け前』の全文試訳(当館作成〜原詩の含意を汲み取れていない箇所があり得ることに留意されたい)を、原詩テクストとともに、別ページに掲げる(なお、原詩は、「イアンブ」という、力強いリズムを持つとされる韻文の形式で書かれている。この形式は、バルビエの前には、大革命期に若くして刑死した詩人、アンドレ・シェニエが用いたという)。この作品は、革命によって樹立された「7月王政」が始まってまだ日も浅い1830年9月初めに、『ルヴュ・ド・パリ』誌に掲載されており(シトロン編『回想録』p.155, n.1、ブルーム編『回想録』p.282, n.5 )、ドラクロワの有名な絵画『民衆を導く自由の女神』(後掲図版参照。1831年に官展に出品〜坂崎坦『ドラクロワ』朝日選書295、朝日新聞社、1986年等による)の制作に影響を及ぼした可能性が指摘されている(高階秀爾責任編集『世界美術大全集西洋編第20巻 ロマン主義』、小学館、1993年、p.413等による)。そして、その後、ベルリオーズによる注記のとおり、詩集『イアンブ』(1831年〜平凡社世界大百科事典第2版等による)に収められた。
そのほか、バルビエの人、業績、作風等については、上記平凡社世界大百科事典第2版「バルビエ」の項に簡潔にまとめられているので、これを参照されたい。[記事はこちら〜クリック/タップすることでウェブサイト『コトバンク』の該当ページに移動]。なお、記事中『奪いあい』とあるのは、当館では『獲物の分け前』の訳を当てている「La curée」を指すものと思われる。
(挿絵)ドラクロワ『1830年7月28日。民衆を導く自由の女神』( Le 28 juillet 1830. La Liberté guidant le peuple )[題名はルーヴル美術館の画像提供サイト「collections.louvre.fr」による]
出所:Wikimedia Commons(クリック/タップすると同サイトの画像に移動)
ルーヴル美術館の画像:collections.louvre.fr(クリック/タップすると同サイトの画像ページに移動)
参照文献
(オーギュスト・バルビエ)
ベルリオーズ辞典「Barbieu, Auguste」の項( p.55、筆者ピエール・シトロン)
(ギャルリ・コルベール)
『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』、鹿島茂、平凡社、2008年
なお、同書によれば、ギャルリ・コルベールは、1985年以降、隣接する国立図書館の別館として一般に開放されているという。また、ブルーム編『回想録』p.285, n.13によれば、アーケードのロトンダからヴィヴィエンヌ通り向かう通路の壁に、ベルリオーズが本章で語っている出来事を記念するプレートが取り付けられているという。