『回想録』 / Memoirs / Chapter 27

目次
凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

27章 シェークスピアの『あらし』に基づく幻想曲を書いたこと、その作品をオペラ座で演奏したこと

一方、ジラールは、イタリア劇場のオーケストラの指揮者をしていた。彼は、私の苦難( mésaventure [『幻想交響曲』演奏の計画が頓挫したこと])に慰めを与えるべく、イタリア劇場で丁寧で(avec soin)余計な心配の要らない(sans embarras)演奏をすることを約束して私に『幻想交響曲』より短い別の作品を書かせることを思い立った。私は、シェークスピアの『あらし』に基づく合唱付きの劇的幻想曲全集CD3(6)、YouTube : tempete berlioz 〜後に『レリオ』の終曲となる。]の作曲に取り掛かった。だが、作品が仕上がると、ジラールは、総譜を一目見てこう叫んだ。「規模が大きすぎるし、使っている演奏手段も多すぎる。このような作品を演奏するオーケストラはイタリア劇場では組織できない。それができるのはオペラ座だけだ。」私はすぐさま王立音楽アカデミー[パリ・オペラ座の正式名称]の監督、リュベール(Lubbert)氏に会いに行き、この作品の演奏を持ちかけた。大変驚いたことに、氏は間近に予定されていた芸術家の年金基金のための募金公演の演目に私の作品を加えることを承諾した。彼は私の名を知らないではなかった。音楽院での私の最初の演奏会がいくらか評判になったので、この催しについて報じた記事を読んでいたのである。要するに彼は相手を信頼し、屈辱的な総譜審査を受けさせることもなく私に演奏を約束し、その約束を厳格に守ったのである。読者も頷かれると思うが、この人は稀に見る監督だった。パート譜の作成が済むとすぐ、オペラ座で幻想曲のコーラスの稽古が始まった。全てが申し分なく順調に運んだ。総稽古も素晴らしい出来栄えだった。全力で私に肩入れしてくれていたフェティスも、この作品とその作者への多大の関心を表明して、その場に立ち会った。だが、ご覧(ろう)ぜよ、私の強運を!その翌日、すなわち公演当日、オペラ座の開場の1時間前になって、おそらくそれまで50年間はみられなかったのではないかと思われるほど猛烈な嵐が、突然、パリを襲った。正真正銘の豪雨が、街路という街路を急流や湖に変えてしまった。徒歩でであれ馬車でであれ、ごくわずかな距離の移動すらほとんど不可能となってしまい、その晩の前半、すなわち、まさに私の『嵐』(・・・全くいまいましい嵐があったものである!)の幻想曲が演奏される時間帯、オペラ座の客席は閑散としたままだったのである。そのため、その演奏を聴いた者は奏者を含めせいぜい200〜300人にすぎず、私は、文字どおり水を剣で突いた(donnai un coup d’épée dans l’eau[〜「無駄骨を折った」の意])のだった。(了)

訳注1/時系列表(橙字:この章で語られる出来事)
1830年
5/16 ヌヴォテ劇場で『幻想交響曲』をリハーサル(26章)
7/27 パリで7月革命勃発(29章)
8/21 ローマ賞コンクール1等賞を得る(29章)
11/7 『シェークスピアの「あらし」に基づく劇的幻想曲』初演(本章)

(データの出所について)
時系列表のデータは、主としてブルーム編『回想録』、シトロン編『回想録』の年譜及び本文注釈、『書簡全集』の年別時系列及び書簡注釈、従として当館「参考文献」ページ所掲のその他の書籍の年譜・記事・注釈並びにベルリオーズはじめ関係者の手紙の日付等の資料に拠った。

訳注2/この章に関係する手紙
1830年
9/3 故郷の友人エドゥアール・ロシェ宛(「・・・彼女[カミーユ・モーク〜次章参照]は・・・イタリア劇場での演奏会に来ることになっている。イタリア劇場では、僕がその日の演奏会のためにいま作っている新しい作品[『シェークスピアの「あらし」に基づく劇的幻想曲』]が演奏される。」)

10/20 母ベルリオーズ夫人宛(「・・・僕は、シェークスピアの有名な戯曲、『あらし』を題材にした、コーラス、4手のピアノ2台、鍵盤ハーモニカ、大編成オーケストラのための大がかりな作品を書き終えたところです。・・・この着想を僕に生み出させてくれたのは、またしても僕の良き天使、僕の美しいエーリアル[カミーユ・モーク]です。・・・今から2週間以内に開かれる大規模な募金演奏会でこの作品を演奏する約束を、オペラ座の監督から取り付けました。」)

11/19 友人アンベール・フェラン宛(「来週は、『あらし』序曲が、オペラ座で再演される。ああ、友よ!新しく、若く、風変わりで、大掛かりで、優しく、優美で、輝かしく、・・・これは、そういう作品だ。」)

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