初期の音楽批評(要約) / Early criticism (summary)

凡例:緑字は訳注

「宗教音楽についての考察」(要旨)
(Considérations sur la musique religieuse)
(『コレスポンダン』1829年4月21日号)(25歳)

宗教音楽の進歩は、いくつかの原因から、他の分野の音楽に遅れをとった。宗教音楽の目的は、テクストの言葉に息づく感情を表出し、それによって人の心を動かし、高めることにある。宗教音楽と劇的音楽との違いは、前者の場合、敬虔さと相容れぬ軽い性格のものは許されないという点だけで、感情の表出を目的とする点においては、両者の間に違いはない。このことは、常識さえあれば証明するまでもない真理だが、その理解が広まらず、不完全にしか実践されないのは、常識が稀にしか通用せず、仕来りの支配が強固だからだ。イタリアとドイツの古い作品は、悪趣味で不合理なフーガのスタイルに毒されているが、それにもかかわらず、大多数の音楽家によって推奨され、教師たちによって弟子たちの崇拝に供されている。フーガを学校で教えることには利点もあるし、緩徐な音楽にフーガを用いて成功することもある。だが、ミサ曲でのこれまでのフーガの用い方は、私見によれば、作曲家たちの信じられない無分別だ。フーガは、ヨメリ[Jommelli。18世紀イタリアの作曲家]がしたように、その使用を許容する歌詞(des paroles)と組み合わせるべきである。ところが、ミサ曲では、「アーメン」、「キリエ」、「アニュス・デイ」といった祈りの単語(le mot)にフーガを用いることが習慣になっている。聞いたことのない人は、非常に急速な楽章で、50人の歌手が「アーメン」の言葉を4、5百遍も繰り返すか、「ア」のシラブルを人々の爆笑を真似るような母音唱法で歌うかして、猛烈にがなり立てることの宗教上の効果を想像してご覧になるがよい。音楽に対する感受性を授かり、アーメンのフーガを予断なく聴く者は誰でも、それを歌う聖歌隊員たちを、神の讃歌を歌うべく集った敬虔な人々ではなく、神聖な犠牲を笑い物にする悪魔の化身の群れだと思うに違いない。「キリエ」、「アニュス」の祈りが同様の扱いを受けるのを見るのも、劣らず衝撃的である。だが作曲家のこのようなスタイルはごく普通にみられ、信じ難いことに、彼らはそれを敬虔なスタイルと呼んでいる。巨人中の巨人、ベートーヴェンさえ、感染を免れなかった。他の作品では仕来りの壁を打ち破っているのに、荘厳ミサ曲には、対位法作者たちと同じレベルに降りている箇所がある。教会音楽にフーガを用いることを正当化するため、奇妙な論法を用いる人もある。曰く、ミサ曲は人を感動させてはならない、だがフーガは感動させるのでなく興味を持たせる、精神は喜びをもって作曲家が考えた調和(combinaison)を追う、人は彼[作曲家]がいかにこのジャンルが彼に課す困難を切り抜けるかを見ることを好む、宗教音楽にはこの感覚があれば足りる、と。奇妙な説である!ミサ曲はなぜ人を感動させることを禁じられるのか?巧みに演奏された美しい聖歌は人に涙を流させるが、そのことがいかなる点で作法に反するというのか?ケルビーニの聖体拝領のマーチを知るすべての人々に私は問う、この崇高な作品を聴いて人が抱く感情は、世俗のものかと。否、むしろ反対に、それは最高度の宗教的感情であり、この作品は、芸術と天賦の才の到達点なのではあるまいかと。宗教音楽が劣勢に立たされている、もう一つの原因は、作曲家がその作品の優れた演奏をしてもらう機会を与えられないことと、新作を作ることへの奨励が皆無であることである。かつてフランスには非常に多くの楽長職があり、それが多数の作曲家に生活手段を提供していたが、今日それらは失われている。古代の人々は、その宗教儀式を我々の想像を超える音楽装置で飾った。聖書によれば、ソロモン王の寺院では、神の褒め歌を歌うため、5千人以上のレビ人が使われていたという。それに較べ、我々の奏者50人のオーケストラ、歌手40人のコーラスが何だろう!奏者の数は重要性に乏しいと思うなかれ。壮大な音楽は、壮大な演奏を求める。それは多くの楽器と、取り分け、多くの歌手を必要とする。別の状況では偽であることが、この場合は真となる。すなわち、広い場所では、量が質に勝るのである。美しい作品をノートルダム寺院で60人の達人の歌手で演奏したとする。また、同じ作品を、500人の無作為に選んだ、有能な歌手で演奏したとする。その効果は、前者では痩せ、みすぼらしく、あるいはまったく取るに足りぬものとなるのに対し、後者では、壮大で、威厳があり、崇高で、深遠な印象を与える。そこでは、作曲家は理解され、芸術は、そのすべての偉大さのうちに、姿を現す。(了)


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「外国人の伝記:ベートーヴェン」(概略・要旨)
(Biographie étrangère: Beethoven)
(『コレスポンダン』1829年8月4日号、8月11日号、10月6日号)(25歳)

(概略)
3回の連載。第1回は、ボンに生まれ、同地でネーフェの指導を受けた後、ウィーンに出てハイドン他に師事し、ピアニスト、作曲家、驚異的な即興演奏家として活躍するようになるまでのベートーヴェンの歩みを、種々のエピソードを交えて説明する。第2回、第3回は、ベートーヴェンを「作曲家、詩人という2つの視点から(sous double point de vue de compositeur-poète)」吟味するとした上、彼の全作品を創作の順に第1期から第3期の3つに区分し、それぞれの期の代表作品、その性格、背景等を説明する。
(第2回要旨)
ベートーヴェンは、生地ボンの君主、ケルン選帝侯の庇護の下、2つの交響曲、4つの四重奏曲、3つのピアノ協奏曲等、多くの独創的な作品を創作した(第1期)。だが、この時期の彼は、まだ完全には教育の影響を脱しておらず、逆境の苦悩も知らなかった。
彼の芸術は、続く第2期に、並外れた飛躍を遂げ、前人未到の高みに至る。1801年、ケルン選帝侯が没し、その庇護が失われる。彼の名声は既に確立していたが、気紛れで非社交的な性格が災いし、また、皇帝の宮廷がイタリア音楽を好み、宮廷での地位と名誉をサリエリが独占していたため、新たな生計の途は容易に見出されなかった。こうした逆境への激しい怒りは、第2期の作品に暗く絶望的な色調を与えることに寄与したに違いない。唯一のオペラ、『フィデリオ、又はレオノーレ』は崇高な作品だったが、その斬新さの故、初演(1805年)は成功せず、彼はその後長い年月をかけてこの作品を改訂し、ようやく成功させることができた[1814年]この遅い成功に至るまでの間に、彼は多くの音楽を書いたが、そのほぼ全てに気難しい気分と常に強まる人間嫌いの影響が感じられることを覚えておこう。交響曲第3番(『英雄』)では、それまでは多少なりとも従っていた教条主義的な規則に、正面から背いた。彼はこの作品をかねて尊敬していたナポレオンを主人公として作ったが、その人がフランス皇帝の地位に就いたことを知ると、その名が記されていた総譜の表紙を破り捨て、次のページに、「英雄交響曲、ある偉大な人物の追憶を記念して作曲」とイタリア語で書き入れたという。この崇高な叙事詩に刻まれた、物思いに沈んだ雰囲気と深い哀愁とは、こうして説明される。彼は以後、この人を故人とみなした。この作品の最初の楽章で、あれほど多くの苦悩の吐息を彼につかせ、あれほど恐ろしい感情の激発を起こさせているのは、翳ってしまった栄光の追憶でしか、もはやないのである。
(第3回要旨)
彼は聴覚を失いつつあった。1811年には、近くのオーケストラを聴くことも困難になり、数ヶ月後、聴覚は完全に失われた。彼はその年の大部分をウィーンから5リュー[約20キロメートル]の距離にあるバーデンで過ごした。独り散策し、歩きながら作曲した。第3期の諸作品は、このときから亡くなるまでの間に作られ、それらには6つの最後の弦楽四重奏曲、合唱付き交響曲[9番]が含まれる。これらの作品は、暗い高揚、漠然とした夢想、絶望といった性格を持ち、あらゆる音楽上の習慣からひどくかけ離れたその表現形式と相俟って、芸術の高度な領域で、独自のジャンルを形作っている。[続いて後期弦楽四重奏曲のうち、14番(嬰ハ短調)及び16番(ヘ長調)、すなわち最後の2曲を解説するが、以下には、14番に関する記述のみ要約。]
嬰ハ調の四重奏曲は、この冬、バイヨ氏の演奏会で初演された。会場には、いつも敬虔にと言ってよいほど注意深く音楽に耳を傾ける、200人ほどの人々がいた。数分後、聴衆の間にある種の気詰まりな雰囲気が生じた。彼らは小声で話し始め、それぞれ自分の感じている退屈を隣人に伝えた。ついに、このような苦役(fatigue)にそれ以上耐えられなくなった95パーセントの聴衆が立ち上がり、「これは我慢ならない、理解できない、ばかげている」と言い放った。少数の聴き手が静粛を求め、四重奏曲は終った。抑えようのない厳しい非難のざわめきが起き、このような突飛な企画をしたバイヨ氏は聴衆を愚弄しているとまで言うに至った。ベートーヴェンの熱烈な賞讃者の中には、彼の理性が失われたことを遠慮がちに嘆く人もあった。「彼の頭がおかしくなっているのがはっきり分かる」彼らは言った。「何と残念な!あれほど偉大な人が、多くの傑作の後、こんな怪物を作り出すとは!」だが、会場の一角には、これらとは全く異なる感覚と思考を持った小さなグループ(人が何と言おうと、私もその一員であったことを認めねばならない)があった。このごく小さなグループのメンバーは、新しい四重奏曲の演奏が聴衆に引き起こす反応を十分予期し、自分たちの沈思が妨げられぬよう、一箇所に集まっていた。最初の楽章の数小節が奏されたところで、私は自分が退屈を感じてしまうのではないかと心配しかけた[この作品はフーガで始まる]が、集中がそれで弱まることはなかった。その後この混沌の霧が晴れるかにみえ、観客の忍耐がまさに限界に達したとき、私の忍耐は戻り、私は、作者の天賦の才の影響下に入っていった。ゆっくりと彼の影響は強まり、私は血液循環に尋常ならざる乱れを感じた。第2楽章に入ってすぐ、驚きで身動きできなくなった。隣人の一人の方を振り向くと、汗びっしょりになって血の気を失った彼の顔と、彫像のように動かなくなった他の皆の様子が見えた。少しずつ、恐ろしい夢魔のような凄まじい重みが胸を圧するのを感じ、髪の毛が逆立つのを感じた。私は歯を食いしばり、全身の筋肉が収縮するのを感じた。そしてとうとう、最終楽章のあるフレーズが、バイヨの力強い弓で、この上ない荒々しさをもって現れたとき、冷たい涙、不安と恐怖の涙が私の両眼から絞り出され、この耐え難い感情を頂点に至らしめた。我々は、皆興奮し、この途方もない作品が自分たちに引き起こした混乱に納得するのに苦労しながら、会場を後にした。こうして、聴く人のほとんどすべてを憤慨させる一方、少数の個人の間には、通常の感覚の領域を完全に超えた効果を生む音楽が、ここに登場したのである![この経験のことは、この演奏会の5日後、妹ナンシーに書いた手紙にも綴られている]あまりにも大きなこの違いは、何に由来するのだろうか?言うまでもなく、このような作品を理解するには、作曲のあらゆる困難に通じ、音楽芸術における既知の効果に熟達していなければならない。だが、このような資格だけでは足りない。有名な作曲家たちがこの四重奏曲を聴くときに示した苛立ちが、そのことを証明している。それらに加え、ある程度まで作者の気質と響き合う気質を授かっていなければならないのである。また、この音楽がその絵画である、特定の種類の感情を経験していなければならず、シェークスピアが語る次のような災いを、知っていなければならないのである。「抑圧者の不正、高慢な男の無礼、蔑まれた愛の痛み、裁判の遅延、役職者の傲慢、そして価値ある人が取るに足りぬ者から受ける、にべもない拒絶(The oppressor’s wrong, the proud man’s contumely, The pangs of despised love, the laws delay, The insolence of office, and the spurns patient merit of the unworthy takes.)。」[訳注/『ハムレット』3幕1場、「生か死か、それが問われている(To be, or not to be, that is the question.)」の言葉で始まるハムレットの長い独白の一部。ベルリオーズは、この台詞の中の「蔑まれた愛の痛み」の言葉に、自らのシェークスピア女優ハリエット・スミッソンに対する報われぬ愛の苦悩への慰藉を見出していた〜1829年8月21日付、友人アンベール・フェランへの手紙参照]幸福な人、軽い悲しみしか経験したことがなく、平凡な人生の範囲を出たことがない人は、このような作品の射程外にあり、この音楽が語る言葉がその人の心に響くことはない。我々はただ、そのことについてその人を祝福することができるのみである。さて、話を続けよう。先に述べた「合唱付き交響曲」は、フランスではまだ演奏されていないが、ベートーヴェンの天才の特徴を示す作品の一つとして、フェティス氏が翻訳したドイツで最も賢明な批評家の一人であるマルクス氏の筆になると思われるベルリンのガゼット・ミュジカル誌の記事の断片を借り、読者にこの作品のあらましをお伝えしよう。[以下引用等〜略]
この分析批評は、ベートーヴェンの最後の交響曲の射程を我々に理解させてくれる。それらを注意深く読んだいま、我々は、その広がりのすべてを把握することはできないながら、この作品をこの作曲家の天賦の才の到達点と位置付けることを躊躇しないだろう。とはいえ、彼の諸作のうち、この作品がパリで最大の効果を上げるものになるだろうと結論付けることはできない。2世紀後にはそういうこともあるだろう!しかし、パリの聴衆の音楽に関する教養の現状を考えると、もし今年予定どおり、音楽院で合唱付き交響曲が演奏されたとしても、その試みは、バイヨ氏がこの冬行った実験とほぼ同じ結果をもたらすだろうということは、ほぼ確かである。
芸術史上最も非凡な音楽上のキャリアの上昇の歩み(la progression ascendante de la carrière musicale)を辿ったいま、残るは、その道を踏破した偉大な人物の最後のときを語ることだけである。彼を死に至らしめた病は、1826年12月3日、不意に訪れた。その日、彼はウィーンに行くため田舎を出た。[以下略](了)


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「古典主義の音楽とロマン主義の音楽の概観」(要旨)
(Aperçu sur la musique classique et la musique romantique)
(『コレスポンダン』1830年10月22日号)(26歳)

文学に古典主義とロマン主義の区別があるなら、すべての芸術のうちで最も本質的に自由でありながら、最も長く偏見と恣意の連鎖の影響を被ってきた音楽には、なおのこと、この区別があるはずである。
論を進めるに先立ち、私の言う音楽とは何かを説明し、その作用の方法(moyens d’action)を列挙することを許されたい。音楽は、感受性、知性、教養を持ち、イマジネーションを授かった人々の心を、音で動かす技芸である。音楽は、そうした人々だけに向けられているのであり、それゆえ、万人向けのものではない。音楽は、こうした高次の目的を遂げる力を持つと想定することによってのみ、芸術とみなすことができるのであって、これと異なる観点から見た場合には、どのような観点からであれ、生物の組織に多かれ少なかれ影響を与える、物音にすぎない。雷のごろごろいう音、大砲の音、鐘や太鼓の音、鳥の鳴き声、風や木々のそよぎ、流水のせせらぎなどは、確かに様々な態様で心を動かしはする。だが、音楽的にではない。こうした様々な感覚は、虹が絵画ではないのと同様、音楽ではない。
最初の音楽への感受性は、おそらく、リズムから生じたと思われる。[以下敷衍〜略]
旋律に関する感覚は、未開な民族においても文明人においても、リズムに関する感覚のすぐ後に姿を現す。また、大いに注目すべきことに、未開人や農民の集団においては、都市の住民にはごく稀にしか見出されない、感情表出(expression)への非常に高度な感受性も、同時に見出される。[以下例示〜略]
和声の感覚を生まれながらに身に付けている人は少ない。[それは学習されるものである旨を敷衍]
リズム、メロディ、感情表出、ハーモニーが音楽の作用の主要な方法で(les principaux modes d’action)あると目されたことから、作曲家たちは、それらの最も有利な用い方を観察し、その結果得た所見を集成して、音楽の実践において作曲家を導く規則としての性質を持つ法典を作ったものと考えられる。だが、音楽の揺籃期には限られた知識・経験しかなかったから、古い世代の作曲家たちは、対立する所見の可能性を認めず、彼らの概説書に良し悪しを断定的に記した。
楽器が徐々に改良されたこと、歌手の数が増え、彼らの技量が高まったこと、さらには偶然も、学校に禁じられた姿形を持つ音楽(ces formes musicales prohibées par les écoles)の演奏の実現に貢献した。そして、それらの作品の多くが、新鮮であったのみならず、力強さにも優っていたので、老大家らは、彼らの教義の信用が低下するのを見て苛立ち、また、おそらく彼らの作品よりも生き生きとした作品が作られるのを見てさらに苛立って、あらゆる改革を罪として禁じ、古い規則の遵守に厳格さを募らせた。だが、その間にも、幾人かの若手音楽家たちが、それらを貪るように取り入れた。
一部の古典主義者たちは、彼らの音楽上の宗教への信仰があまりに熱烈だったので、その教えに対して故意に敬意を欠く振る舞いをする者があろうとは想像もできなかった。
彼らは、規則を超えて作られた作品について自らの立場を明らかにすることを求められると、たとえ彼らのひどく慎重なイマジネーションが思い描いたよりはるかに豊かな芸術、才能、霊感についての知識をその作品の作曲者が持っていたとしても、心の底から無邪気に、彼らの言うところのその作曲者の「誤り」を、その者の無知のせいにしたのである。
こうして、スポンティーニは才能が全くなくはないが、真の愛好家の目には高く評価されていない気の毒な人物であり[訳注/1827年11月29日付友人アンベール・フェラン宛の手紙から、この発言の主が、フランス学士院芸術アカデミー会員、パリ音楽院作曲家教授、ベルトン(1767-1844)であると分かる]、ウェーバーは五線譜の上でインキ壺をひっくり返すことでその音楽を真似ることができる粗野で乱雑な作風の狂犬病患者であり、ベートーヴェンは天才的な閃きを持ったある種の気の触れた人だということになった。また、『ヴェスタの巫女』と『コルテス』[いずれもスポンティーニのオペラ]は見事な無駄遣い、『魔弾の射手』[ウェーバーのオペラ]はばかげた作品、ハ短調の交響曲[ベートーヴェンの第5(『運命』)]は強烈な過剰とされた。我らが高名な古典主義の先生方がこうした作品を作らずにいられた僥倖は、まさに彼らがこうした気の毒な作曲家たちの欠陥を熟知していたお陰に相違ない。
これに対し、ロマン主義の作曲家たちは、その旗に次のように記した。「自由な発想」。彼らは、何も禁じない。音楽の領域に存在しうるもののすべてが、彼らに利用される。ヴィクトル・ユゴーの次の言葉が、彼らのスローガンである。「芸術は、手錠も、誘導紐も、猿ぐつわも、全く必要としない。それは、天賦の才を持つ者に『行け』と言い、禁じられた果実の存在しない、広大な詩の庭園に、彼を放つ」。
教条主義の束縛を打破し、それよりもさらに重い仕来りというくびきを免れた最初の人は、グルックだった。彼はほとんどすべてのものに新風を吹き込んだ。その革新を行うに当たり彼がしたことは、ドラマに関する自己の天賦の才の抗いがたい衝動に従うことだけだった。私は彼の直接の目的が芸術を拡張することにあったとは思わない。感情表出にについての非凡な感覚と人の心に関する稀な洞察力に恵まれた彼は、ひたすら人間の感情に真実で、深いところから生じる、力強い言葉を与えることに取り組み、全ての音楽資源を、ただその一つの方向に用いた。規則が彼のインスピレーションの妨げにならないときはそれに従い、妨げになるときは自らをそれから解放した。彼は、和声に関してだけは、制限された状態にとどまった。かなり限られた数の和音しか知らず、それらをしばしば同じやり方で使った。他方、彼は、多くの新しいリズムを導入し、それらは後にモーツァルトに採用された。その多くが現代の作品に受け継がれ、今日の作曲家にとって、避けて通れぬものとなっている。彼らは、この暗く力強い天才が、全ての感情表出的な音楽に行使した絶対権力に、今も従っているのである。彼はこの技芸[音楽]を真実の詩にした最初の人であり、彼が自らの統一理論のためにすべてを犠牲にしなかったならば、彼がもっと多様性を持っていたならば、我々は彼を音楽のシェークスピアとみなすことができただろう。
最も強く彼が影響を及ぼした作曲家としては、(劇的音楽における)モーツァルト、サリエリ、その弟子のフォーゲル、メユールを挙げる必要がある。スポンティーニも、彼の楽派の継承者の一人とされる。だが彼は、感情表出の真実性を除き、グルックとの共通点を持たない。狂おしい愛、英雄的な荘重さ、軍人の誇り、声楽と器楽の豪華さ、オーケストラの凄まじさ、説明しがたいレシタティフの旋律、ディクションとプロソディの難点(合唱に関してのみ)、過剰なまでの壮大な効果といった彼の作品の特徴は、ドイツの作曲家[グルック]には見られない。『アルセスト』の作者グルック]は情熱を素朴に表現することを好んだ。彼の彫像は裸である。『ヴェスタの巫女』の作者は、飾り布、真紅の衣[富、権威の象徴]、花輪飾りを望む。グルックの天賦の才は、冥界の門や岩場、乾燥した海岸を彷徨うことを好む。スポンティーニのそれは、宮殿や大寺院に住まい、大理石や金を必要とする。
ウェーバーやベートーヴェンの作品によってフランスでも数年前から知られるようになった、古典主義者たちには全く知られていない、ある特別なジャンルの音楽は、より密接にロマン主義と関係している。
我々はそれを感情表出的な器楽のジャンルと呼ぼう。昔の作曲家たちの器楽作品は、耳に快さを与え、心に興味を持たせること以外の目的を持っていないようにみえる。同様に、現代のイタリアのカンティレーナ[声楽曲又は器楽曲における叙情的な旋律〜小学館ロベール仏和大辞典]も、ある種の官能的な感情をもたらすけれども、それには心もイマジネーションも少しも関わっていない。だが、ベートーヴェンとウェーバーの作品[複数]においては、聴き手は、ある一つの詩的な想念が至る所に立ち現れるのを認める。これらは、その想念の聴き手への伝達を、言葉に頼らず、それ自体に委ねた音楽である。
したがって、その言語は非常に曖昧なものとなり、それ故にこそ、イマジネーションを授かった人に対し、より大きな力を持つようになる。暗がりでおぼろげに見る物体のように、その姿は大きくなり、その形はより見分けにくく、霞んだものとなる。作曲家は、人の声のような限られた音域に自らを狭める必要がないから、彼の旋律により多くの動きや変化を与えることができる。彼は、最も斬新な旋律を、最も風変わりな旋律をさえ、人の声のために書く場合には常に心配しなければならない演奏不能という暗礁に乗り上げることを恐れずに、書くことができる。ウェーバー、ベートーヴェンの交響曲、四重奏曲、序曲、ソナタがもたらす非凡な効果、いっぷう変わった感覚、名状しがたい感情は、この点に由来している。もはやそれは、オペラ劇場で経験するものとは異なるものだ。彼方[オペラ劇場]では、我々は様々な情熱を持った人間の前にいる。だが、此方では、我々の眼前に、新しい世界が広がっている。我々は、より高い思考の領域に運ばれ、詩人たちの夢見た崇高な生がそれ自身として表現されるのを感じる。我々は、トマス・ムーアとともに、こう叫ぶのだ。
「おお、神のごとき楽(がく)の音(ね)よ、汝の魔法の前には、無益にして力なき言葉は、ただ退散するのみ。ああ、汝がその心を、誰の助けも借りずに顕(あらわ)わすことができるというのに、いったいなぜ、想いを言葉にする必要があろうか?」[訳注/ベルリオーズは、1829年1月10日付、妹ナンシー宛の手紙で、ムーアのこの言葉を、ベートーヴェンの器楽曲に結びつけて語っている](了)

参照文献
本資料の作成に当たり、下記を参照した。
音楽評論集1巻
書簡全集1巻
Mathhews, Denis, Beethoven, J.M. Dent & Sons Ltd, London, 1982,
『ベートーヴェン大事典』バリー・クーパー原著監修、平野昭、西原稔、横原千史訳、平凡社、1997年

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