説明:『ベンヴェヌート・チェリーニ』(暫定版〜加筆予定)/ Notes on Benvenuto Cellini ( tentative version – to be added )

(目次)
はじめに 〜この資料について
 台本について
2 音楽について ― 作成予定
3 手紙の抜粋でみる作品の歴史 ― 作成予定
その他 〜資料中の通し番号について 〜参照文献

はじめに 〜この資料について

この資料は、1838年9月、パリ・オペラ座で初演された、2幕(4景)のオペラ、『ベンヴェヌート・チェリーニ』(いわゆるパリ版)の台本の対訳です。

この公演は、同年中に全幕の上演が3回、翌39年に全幕の上演が1回、第1幕のみの上演が3回なされたところで、作曲家が作品を取り下げ、打切りとなりました。ベルリオーズの存命中、パリ・オペラ座がこの作品を再び取り上げることはなく、彼の最高傑作の一つに数えるべきこの優れた作品は、こうして、フランス最高のオペラ劇場のレパートリーに入ることなく終わりました。

公演が短命に終わった理由としては、様々な動機を持った反対勢力の存在、主演歌手の体調不良等、幾つもの事情が挙げられます(それらについては、今後、3「手紙の抜粋でみる作品の歴史」で触れる予定です)。しかし、根本的な要因は、次の2点に集約されるようです。一つは、台本が、その頃オペラ座でレパートリーとなっていた諸作品とは大きく異なる、個性的なものだったことです。このため、人気演目のスタイルに慣れ親しんでいた観客には、異質に感じられ、すぐに受け入れることができなかったと考えられるのです。なお、この時代、オペラ座では、劇作家、ウジェーヌ・スクリーブが一世を風靡しており、最も人気のあった『悪魔のロベール』(初演1831年)、『ユダヤの女』(同35年)、『ユグノー教徒』(同36年)の3作は、いずれも彼が単独で又は共作者として書いた台本に書かれた作品でしたから、当時の観客は、大まかには、彼のスタイルを基準に、この作品の台本を評価したと考えられます。もう一つの要因は、ベルリオーズがこの作品に書いた音楽が、非常に新しく、手の込んだものだったことです。彼は、この作品で、複数の旋律やリズムの重ね合わせ、非常に速いテンポでの掛け合いといった技法を、徹底的に追求しています(これによって成し遂げられるもの〜湧き立ち破裂せんばかりの喜悦の感情の表出〜については、2「音楽について」で扱う予定です)。それは、正確に演奏されれば素晴らしい効果を上げるものでしたが、現代のオーケストラや歌手にとってさえ難しいといわれるほど、高度な技術を必要としていたのです。このことは、劇場の音楽家たち(指揮者、ソロ歌手、合唱団員、楽器奏者)に、大きな負荷をかけました。もちろん、彼らは、当時最高クラスの優れた奏者だったに違いないのですが、時代はまだ、近代オーケストラ(その演奏技術。指揮法を含む。)の確立される前でした。殊に、主演級のスター歌手たちにまで、現代の器楽奏者に要求されるような高度なアンサンブル能力(敏捷性、正確性、集中力)の発揮を求めたことは、異例だったのではないかと思われます。一例として、第1幕第1景のチェリーニ、テレーザ、フィエラモスカによる、駆け落ちの謀議とその盗み聞きの3重唱[全集CD18(10)。1景44-139]をお聴きください。最初の3重唱[49-86]だけでも聴きごたえは十分ですが、さらに、その繰り返しの部分[96-139]で、同一の音楽を単純に反復するのではなく、劇的な面白さをもう一段ステップ・アップさせる工夫がなされている点にも、ご注目ください。この絶妙なアンサンブルは、第1景の聴きどころのひとつとなっていますが、当時の出演者のなかに、このようなスピーディで変化に富んだ掛け合いを苦手に感じる者があったとしても、不思議はないと思われます。初演時の演奏が、現代の演奏に較べ、どのようなものだったのかを知ることは困難です。しかし、入念なリハーサルの結果、相当の水準に達していたとしても(序曲、第4景のアスカニオのアリアが喝采を受けたほか、プレスの批評にも、このオペラの価値を認め、上演を繰り返すことで成功の機会を与えるべきだと論じたものがあったとのことですから、そう信ずべき理由はあります)、聴き手側の問題が、なお残ったに違いありません。これほどまでに作り込まれた作品は、何度か繰り返して聴くことによって、初めてその真価が感得されるのが通常だからです。残念ながら、パリ・オペラ座での上演期間は、そうしたことが起きるには、あまりに短いものでした。この作品は、フランス国内では、ベルリオーズの存命中、再び上演されませんでした。失敗作とみなされたといってよいでしょう。オペラ座が、次にこの作品を取り上げるのは、1972年のことです。

他方、ドイツでは、1852年、ワイマールで、『幻想交響曲』の初演(1830年)以来、ベルリオーズの音楽の揺るがぬ支持者となっていたフランツ・リストの手により(彼は当時、同地の宮廷楽長の立場にありました)、この作品が(成功裡に)復活上演されました。そしてその際、この作品は、リストの提案を受け入れる形で、大幅に短縮され、再構成されます。こうして作り変えられた総譜が、いわゆるワイマール版です。なお、この作り変えを行うに当たってのベルリオーズの意図は、主として、演奏時間を短くすることにより、ドイツの聴き手に受け入れられやすくすることにあったと考えられます。参考までに付言すれば、上に述べた盗み聞きの3重唱の創意に満ちた繰り返しは、このとき、ほぼ同一の音楽の単純な反復に書き変えられています。これは、リハーサルも指揮も人に委ねざるを得ない条件の下、演奏者にミスをさせないようにするための配慮だったと考えられています。

さて、この作品のベルリオーズの手持ち自筆総譜は、ワイマール版への作り変えの際に作曲家自身の手で多くの部分に抹消や上書きがなされた結果、それのみではパリ初演時の姿を復元できない状態となり、1869年の彼の死去により、その形で遺稿となりました。また、公刊スコアについては、ベルリオーズの存命中は、ワイマール版のピアノ伴奏付き声楽スコアが2度出版された(1856年、ドイツ、ブラウンシュヴァイクの出版業者リトルフから、1863年、パリのシュダンから)にとどまり、オーケストラ譜付きのフル・スコアは出版されませんでした。死後、1886年、シュダンからワイマール版のフル・スコアが刊行されましたが、パリ初演時の姿を反映した公刊スコアが存在しない状況が、長く続きました。したがって、この間の上演(ドイツでは、1879年、ハノーファーでフォン・ビューローによって復活上演され、その後少なくとも20都市で上演されたとのことです)は、(20世紀後半、英国でパリ版復活上演の試みが始まるまで、)ワイマール版で行われていたものと考えられます。

この状況を一変させたのが、『新ベルリオーズ全集』編纂事業の一環として、1994年から2004年にかけて順次なされた、ヒュー・マクドナルド博士の校訂による史上初のパリ版のフル・スコアの出版です(ドイツ、ベーレンライター社から、同全集第1巻全4冊として刊行)。このスコアは、上記の諸資料のほか、パリ・オペラ座のアーカイブに保管されていた種々の資料(大別すると、①オペラ座の写譜部が記録保管用に作成した、概ねパリ終演時の姿を反映しているものとみられるフル・スコア〜この版は博士により「パリ2」と名付けられています、②1838年2月にベルリオーズが上演に向けオペラ座に持ち込んだ総譜を基に劇場の写譜担当者がリハーサル・公演用に作成したパート譜等の演奏素材多数[総譜そのものはオペラ座には残っていません]の、2種のものがあります)を照合し、1838年2月時点のベルリオーズの完成総譜を復元したもの(この版は「パリ1」と名付けられています)ですが、同時に、「パリ2」、「ワイマール」をもカバーしており、これら3つの版から、演奏家がそれぞれの判断で素材を取捨選択できるようになっています。

このスコアの刊行後は、この作品の演奏や録音は、パリ版(「パリ1」)をベースとしたものが主流になっています。いま、この作品は、この新しい姿で再評価される途上にあるといってよいでしょう。(比較的新しい録音でワイマール版に拠ったものとしては、2003年のロジャー・ノリントンの指揮による演奏[C Dあり〜 hänssler classic ]があります。)なお、ここで、パリ1を「ベースとした」との言葉使いをするのは、それらの演奏においても、程度の差はあれ、指揮者等の判断で、ベルリオーズが後の版(パリ2、ワイマール)で行った加筆・修正を適宜取り入れるのが通例だからです。

本稿執筆時点(2021年1月)で視聴が可能な録音・録画のうち、「パリ1」を最も忠実に反映しているものは、2003年(生誕200年)のジョン・ネルソン指揮による録音[全集CD18-20に収録。初版データは「音源」ページに記載。]ですが、この録音に用いられたスコアについて、指揮者ネルソンは、「パリ1」をベースとしつつ、その後行われた修正のうち、ベルリオーズが自発的に行なった改善であると考えられるものは、取り入れたとしています(出所:初版CD添付の冊子)。

当館の資料は、原則として『新ベルリオーズ全集』の「パリ1」に拠りつつ、ネルソンの録音に取り入れられている他の版での加筆・修正を、訳者が気付くことができた範囲で、版名表記の上、反映させたものです。その結果、この資料は、ネルソンの録音に、ほぼ適合するものになっています。

なお、本資料の作成に当たり、『新ベルリオーズ全集』の編集総責任者を務め、『ベンヴェヌート・チェリーニ』ほか、多くの作品の校訂に当たられた、ヒュー・マクドナルド博士にご助言をお願いしたところ、関連文献について懇切なご教示をいただくとともに、当館の取組全般に励ましの言葉をいただくことができました。ここに申し添え、心からの感謝の意を表します。

訳者

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1 台本について

4人の詩人、音楽家が、緊密に協力し、入念に作り込んだ、密度の高い作品である。観客を楽しませることを第一義に考案された数々の愉快で滑稽なエピソードが、軽快なテンポで次から次へと繰り出されていく、滑稽劇(opéra bouffon)の体裁がとられている。また、後半(第2幕)には、滑稽劇としての性格を維持しつつ、主人公によるペルセウス像の鋳造という大団円に向け、緊迫度を高める事態が畳み掛けるように出来する(詳しくは「物語の概要」参照)。その一方、劇と音楽の全体を、「ハイ・アート(優れた芸術)の擁護」という、単純で明快なメッセージが貫いている。このメッセージは、劇と音楽の進行を楽しむうち、自然に感得されるように工夫されている。

共作者のうち、この台本の作者として名を顕しているのは、レオン・ド・ヴァイイ (1804-1863)、オーギュスト・バルビエ(1805-1882)の二人である。バルビエは、後年(1874年)の回想で、この仕事を引き受けた経緯を次のように説明している。
「ベルリオーズ氏が彼のオペラの台本作者として当初望んでいた詩人は、[アルフレッド・ド・]ヴィニー氏だった。しかし、氏はより重要な著述で手が離せなかったため[代表作、『軍隊の屈従と偉大』、『チャタートン』の執筆中だった]、仕事を代行してもらうため、以前のとおり[comme devant]レオン・ド・ヴァイイ氏を指名した。ヴァイイ氏は、自らオーギュスト・バルビエ氏を訪ね、その協力を求めた。この協力は、難なく承諾された。というのは、バルビエ氏は、ベルリオーズ氏と、長年の友情で結ばれていたからである。」

ヴィニー(1797-63)については、別項[3「手紙の抜粋でみる作品の歴史」〜作成予定]で見るように、1835年、36年に書かれたベルリオーズの手紙の多くが、明確に台本作者の一人と位置付けている。また、そもそも、1834年、ベルリオーズがオペラの題材を探し求めていた時期に、チェリーニの自伝の存在を彼に知らせ、それを題材とすることを示唆したのは、ヴィニーであった可能性が高いと考えられている(マクドナルド、ケアンズ)。

加えて、オペラ『ベンヴェヌート・チェリーニ』は、音楽のみならず、台本も、ベルリオーズがイタリア滞在中に受けた印象や、同地で経験した詩情を豊かに反映しており、その反映の程度は、作品全体を、「ベルリオーズの音楽エッセイ」と評しても過言ではないほどである(台本のテクストとペルリオーズの他の文章との関係の詳細は、対訳の注、「深き淵より」、「バッカスの巫女たちの餌食になるオルフェウス」、「最後の審判のトランペット」、「サルタレロを踊る人々とローマの民衆」、「黙劇『ミダス王、又はロバの耳』」及び「人里離れた山国の」を参照されたい)。これらのことから、ベルリオーズは、韻文作成等の詩作そのものには携わっていないにしても、素材提供、意見やアイディアの提出等を通じた関与は、台本作者の一人とみなして差し支えない程度に達していると思われる。

こうして作られた台本は、盛期ルネッサンスのイタリアで彫金師として活躍し、後には彫刻家としても名を成した、ベンヴェヌート・チェリーニ(1500-1571)の自伝、『生涯( La Vita )』(邦訳:岩波文庫『チェッリーニ自伝 フィレンツェ彫金師一代記』(上下2巻)古賀弘人訳)に題材を求めている。しかし、原書の筋を追うことはせず、同書に語られている種々のエピソード、場面、言葉を、自由に脚色して用いたものとなっている。中心をなすエピソードは、チェリーニの最高傑作の一つ、ペルセウス像(蛇の頭髪をもち、見る者を石にするという女怪メドゥーサを倒したギリシャ神話の英雄の彫像。フィレンツェのメディチ家の当主、コジモ1世の注文で作られたこの像は、同市の宮殿前広場の回廊に、今も置かれている。)の鋳造(原作第2部77章)であるが、この台本では、発注者がローマ法王クレメンス7世に置き換えられている。とはいえ、チェリーニがクレメンス7世に仕え、種々の作品を製作したことは史実であり、この法王がチェリーニの作品の出来栄えに魅了されつつも彼の態度を傲慢・無礼とみなして立腹する様子(1部58章)や、チェリーニが犯した諸々の罪に赦しを与える場面(同37、43章)などは、自伝に語られている。また、オペラの台本でチェリーニが語る「僕の罪への、何という赦しだろう!ああ、猊下、何というご厚情ですか!吊るすとは!」との台詞(3景182)は、自伝1部103章にある、ローマ劫掠の際、サンタンジェロ要塞から敵を砲撃し、多大の被害を与えるなどの功績があったにもかかわらず、後年、その折に法王庁の財宝を横領したとの疑いをかけられたこと(101章)へのチェリーニの抗議の言葉からとられたものであろう。台本の登場人物の名前のうち、テレーザ、フィエラモスカは、このオペラのための創作であるが、アスカニオ、バルドゥッチ、ポンペオ、フランチェスコ、ベルナルディーノは、原作に同名の人物が登場する。ポンペオについては、クレメンス7世お気に入りの宝飾師として44章に登場し、その後73章で、著者チェリーニは、法王の死後、この人物を私闘で殺めたことを語っている。その後さらに曲折を経て、次の法王、パウルス3世からこの件について完全な赦免を得たと記している(83章)。また、ベルセウス像に関しては、鋳造中に金属がすっかり固まってしまう事故が起きたこと(2部76章)、窯の蓋が弾き飛ばされ、大きな爆音がしたこと、合金塊が底をつき、家中のブリキの什器類を片端から取り出させ、窯に投入したことなどが語られ(同77章)、これらが台本作者らに第2幕第4景の素材を提供したものとみられる。

なお、台本の登場人物のうち、ローマ法王クレメンス7世については、初演の直前、滑稽劇にローマ法王を登場させることを不可とする検閲当局(内務省芸術局の審査委員会〜出所:書簡全集2巻p.447注)の見解が示されたことを受け、公演は、当初から法王を枢機卿(チェリーニの自伝にも登場するサルヴィアーティ枢機卿)に差し替えて行われた。また、後年、ワイマール(1852年、56年)とロンドン(1853年。イタリア語でのワイマール版の上演。)で行われた公演も、その形で行われている。しかし、現代の上演は、作者の本来の意図に従い、法王に戻して行われるのが通例であり、当館の対訳もそれに倣っている。

他方、この台本の重要な筋立ての一つに、E.T.A.ホフマンの小説『シニョール・フォルミカ』(1819年)[邦訳:深田甫(ふかだはじめ)『ホフマン全集』第5巻II、創土社、1992年]のそれとの類似性があることが指摘されている。これは、17世紀のローマを舞台に、画家志望の若者が、練達の画家、サルヴァトール・ローザの力を借り、変わり者で吝嗇な老音楽家に溺愛され、過剰な保護の下に置かれている、その姪と駆け落ちする物語である。主人公らが市門外の劇場の親方と計り、老音楽家が劇の演し物に憤激して我を忘れるよう仕向け、その隙に若者が少女を連れ出すという、ホフマンの小説の筋立は、オペラ第1幕の展開に確かによく似ている。ホフマンの諸作品は、ベルリオーズや彼の仲間の芸術家たちの間で好んで読まれ、高く評価されていたとのことであるから、ベルリオーズと彼の台本作者たちがこの作品に想を得たということは、大いにあり得ることである。

2 音楽について ― 作成予定

3 手紙の抜粋でみる作品の歴史 ― 準備中

その他

〜資料中の通し番号について
・ 「第1」から「第33」までの音楽の大区分( movement )、人物の登退場による「場」の区分は、新ベルリオーズ全集に拠った。その結果、音楽の大区分については、新全集がワイマール版固有の音楽に割り当てている「第14」、「第15」の2つが、本資料では欠番となっている。
・ 台詞の通し番号は、編集、引用の便宜のため、訳者において「景」毎に付した。

〜参照文献
記事及び作品対訳の作成に当たり、各本文中に記載したもののほか、下記文献を参照した。
記事、対訳の文責は、訳者にある。

マクドナルド(2、6章)

ケアンズ(2部4、5、7、18、19、21章)

新ベルリオーズ全集第1巻『ベンヴェヌート・チェリーニ』(ヒュー・マクドナルド校訂)

L’avant-Scène Opéra, no. 142, December 1991, Paris (『ベンヴェヌート・チェリーニ』特集。台本テクスト、マクドナルドによる解説等。)

Benvenuto Cellini, John Nelson, Orchestre National de France, Chœur de Radio France, 2004, Virgin Classics 添付の冊子(台本仏英対訳、マクドナルドによる解説等)

Benvenuto Cellini, Colin Davis, BBC Symphony Orchestra, Chorus of Royal Opera House, Covent Garden, 1972, Philips 添付の冊子(台本仏英独対訳、ケアンズによる解説等)

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