『回想録』 / Memoirs / Chapter 30

目次
凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

30章 学士院での授賞式のこと、アカデミーの会員諸氏のこと、私のサルダナパルのカンタータのこと、その演奏のこと、起きずに終わった大火事のこと、私の激怒のこと、マリブラン夫人が味わった恐怖のこと

2ヶ月後、学士院で、いつものように、賞の授与と受賞作のフル・オーケストラによる演奏が行われた。この式典は、今も同じように行われている。毎年、同じ演奏家たちがこれもまたいつも似たり寄ったりの総譜を演奏し、同じ見識をもって授与の決定がなされた賞が、同じ厳かさで、惜しみなく与えられる。毎年、同じ日、同じ時間に、同じアカデミー会員が、学士院の同じ階段の同じ段に立っている、今し方栄誉を受けた受賞者に、同じ言葉をかける。同じ日とは10月の第1土曜日で、同じ時間とは午後4時で、階段の同じ段とは3段目で、同じ会員とは誰もが知るかの人[芸術アカデミー終身書記。ベルリオーズがローマ賞コンクールに挑んでいた時代は、カトルメール・ド・カンシー。出所:シトロン編『回想録』p.160, n.2、ブルーム編『回想録』p.289, n.2、ベルリオーズ辞典「Quatremère de Quincy」の項(ブルーム執筆)]であり、同じ言葉とは、次のとおりである。
「さあ、若人よ、macte animo[ラテン語。「頑張りたまえ」又は「貴君の武勇に誉れあれ」等の意〜この句の訳出の詳細につき別ページの覚書参照]、快適な旅を貴君はするだろう。芸術の本家本元たる地へと・・・ペルゴレージ、ピッチンニ[いずれも18世紀イタリアの作曲家]の故国ヘと・・・創意の源となる国へと・・・そして何か素晴らしい作品を持ち帰ってくれるだろう・・・貴君の行路は、順風満帆である。」

栄(は)えあるこの日、アカデミー会員たちは、緑の糸で刺繍された見事な衣装を身に纏(まと)う。その姿は光輝に満ち、眩いばかりである。彼らはいま、画家、彫刻家、建築家、彫金家、作曲家各1名に、厳かに賞を与えようとしている。ムーサら[芸術・学問をつかさどるギリシア神話の9人の女神]の部屋でこれを行う歓び、いかばかりか![Grande est la joie au gynécée des muses.]

さて、私はいま、何を書いたのだろう?・・・この言葉、とある詩行に似ているではないか!というのも、[これを書いた時、]私の心はすでにアカデミーを遠く離れ、(実際、何故なのか、よく分からないのだが)、ヴィクトル・ユゴーの次の詩節訳注3を思い浮かべていたからである。

Aigle qu’ils devaient suivre, aigle de notre armée,
Dont la plume sanglante en cent lieux est semée,
Dont le tonnerre, un soir, s’éteignit dans les flots;
Toi qui les as couvés dans l’aire maternelle
Regarde et sois contente, et crie et bats de l’aile,
Mère, tes aiglons sont éclos !

(彼ら[フランス国民]が従うことを運命付けられていた鷲(わし)、我らが陸軍の鷲[ナポレオン(1世)のこと]
その血染めの羽は、いたる所で散り、
その雷は、ある晩、波間に消えてしまった。[1821年、セント・ヘレナ島でナポレオンが死去したことを指す]
母鷲の巣で卵を温めていた貴女!
見てください、喜んでください、叫んでください、羽ばたいてください、
お母さん、貴女の雛が孵ったのです![引用部分に先行する詩句(訳注3参照)から、「貴女」とは、母なる国、フランスのことであることが分かる。なお、ユゴーの原詩の言葉は「母鷲の巣(l’aire maternelle)」ではなく「父鷲の巣(l’aire paternelle)」である。]

受賞者たちの話に戻ろう。彼らのうち幾人かは、どちらかといえば、鷲というより、ラ・フォンテーヌが寓話[5巻18話「ワシとミミズク」(「ワシとフクロウ」とも訳される)]に語ったあの小さく無愛想な怪鳥、ミミズク( hibou )[耳のあるフクロウの総称、古くは「交際嫌いの陰気な人」の意味も~出所:小学館ロベール仏和大辞典]にそっくりである。とはいえ、彼らもまた等しくアカデミーの愛情を分け合っていることに変わりはない。

こうした訳で、喜びいっぱいの母鳥[フランス学士院芸術アカデミーのこと]がその翼を羽ばたかせ、また、受賞カンタータが遂に真面目に演奏されるのは、10月の第1土曜日である。この日、彼らは、フル・オーケストラを編成する。そこには欠けているものは何ひとつない。弦楽器群も揃っている。フルート、オーボエ、クラリネットも各2本ある(とはいえ、実を言えば、このオーケストラの大事なパート[クラリネットのこと]が完全に整ったのはごく最近のことだ。私にグラン・プリ(1等賞)の「夜明け( aurore )」が訪れた時分には[「私がついに1等賞を得た時分には」の意~本選課題曲の詩が決まって夜明けの場面で始まっていたこと〜22章〜を踏まえたユーモラスな言い方]には、クラリネットが1本半しかなかった。悠久の昔から第1クラリネットを吹いていたご老体に、もはや歯が1本しか残っておらず、喘息もちのようなその人の楽器からは、楽譜に書いてある音符のせいぜい半分しか、音が出ていなかったからである)。これらに加え、ホルン4本、トロンボーン3本、さらには何と、最新楽器、ピストン付きコルネットまで揃っているではないか!実に驚くべきことである。さて、そうだとすると、次のことほど真実なことはない。アカデミーは、この日、喜びに我を忘れ、大奮発、それも、まさしく常軌を逸した大散財をするのである。つまり、彼女[母鳥、すなわちアカデミー]は、「喜び、叫び、羽ばた」いているのだ。彼女のミミズクたち(できればワシと言いたいところだが)が孵ったからである。奏者たちは、それぞれの持ち場についている。指揮弓で武装したオーケストラの指揮者が、合図を出す。

日が昇る。チェロ独奏・・・軽いクレッシェンド。
小鳥たちの目覚め。フルート独奏、ヴァイオリン群のトレモロ。
小川のせせらぎ。ヴィオラ独奏。
子羊たちが鳴く。オーボエ独奏。

クレッシェンドの続く中、小鳥の声、小川のせせらぎ、子羊の鳴き声を順次聴いていくと、天日が最盛期を迎え、少なくとも正午にはなっていることが分かる。[最初の]レシタティフが次のように始まる。

「すでに夜明けは・・・」

最初のアリア、第2のレシタティフ、第2のアリア、第3のレシタティフ、第3のアリアが、これに続く。通常、ここで劇中の人物は息絶え、歌い手と聴き手はほっと一息つく。アカデミー終身書記閣下が作曲者の氏名を、はっきりと高らかに告げる。彼[終身書記]の一方の手には、優勝者の額を飾るべき模造の月桂樹の冠が、もう一方の手には、その者がローマに向け出立するまでの間、その出費の支払の一助となるべき、本物の金のメダルが、それぞれ、握られている。そのメダルには、160フランの価値がある(この点に関する私の知識は、確かなものである[自身はそれを換金処分したことを暗に示す言葉であろう。受賞後、メダルがベルリオーズからカミーユ・モークに渡され、彼女の結婚後それがモーク夫人からローマ滞在中のベルリオーズへの返却のためフェルディナント・ヒラーに託されたことを示す手紙(1831/9/17ヒラー宛)、その後ベルリオーズがパリにいるヒラーに(おそらくヒラーからの借財の返済に充てるため)そのメダルを換金処分することを依頼したしたことを示す手紙(書簡全集256)が残っている]。受賞者が立ち上がる。

Son front nouveau tondu, symbole de candeur
Rougit, en approchant, d’une honnête pudeur.
(純真さを象徴する、刈られたばかりの彼の額は
近づくにつれ、生真面目な慎みに赤くなった。)

[ボワローの滑稽叙事詩『譜面台』( Le Lutrin )からの引用。原詩はとある聖歌隊の少年を描いた作品だという。出所:シトロン編『回想録』p.162, n.6、ケアンズ訳『回想録』p.115脚注、ブルーム編『回想録』p. 291, n.12 ]

優勝者は、終身書記閣下を抱擁する。小さな拍手が起きる。終身書記閣下の演壇から数歩離れたところには、優勝者の高名な恩師が参列している。弟子は師匠を抱擁する。当然のことである。小さな拍手が再び起きる。アカデミー会員諸氏の後ろの長椅子では、受賞者の両親が、静かに喜びの涙を流している。彼は参列者の足を踏んだり着物の裾を踏んだりしながらいくつもの講堂の長椅子をまたいで越え、今や号泣している両親の腕の中に飛び込む。これ以上に自然なことはない。が、もはや拍手はなく、参列者たちは、笑い出している。涙を誘うこの情景の右方で、一人の若い女性が、祝典の主人公に身振りで合図する。彼は躊躇なくこれに応じ、さるご婦人の薄地のドレスに鉤裂きを作ったり、さるダンディー(しゃれ者)の帽子をひどくへこませたりしながら、従姉妹のいる場所に辿り着く。彼はその従姉妹を抱擁し、ときには隣の男性をも抱擁する。人々は大いに笑う。目立ちにくくアクセスしにくい隅の場所にいるもう1人の女性が、彼に好意の印(しるし)を示す。それは、幸運にも彼女のハートを射止めることに成功した優勝者が、決して見落すまいとしていたサインである。彼は、彼の愛する女(ひと)、将来の妻、フィアンセであり、彼の栄誉を共に喜んでくれようとしている女性をも抱擁しようと、脱兎の如く駆け出す。ところが、周囲のご婦人方を気遣うことを忘れて急ぐあまり、彼はそのうちの一人のご婦人の足をすくって転ばせ、自らもベンチにしがみつくような格好でしたたかに転倒する羽目に陥る。彼はもはや前進しようとせず、気の毒なその若い女性を抱擁することを諦め、汗だくになってすごすごと自席に戻る。人々は今や万雷の拍手を送り、大笑いする。それは一つの至福、恍惚であって、アカデミーが催すこの授賞式の、特に美しい瞬間である。この至福の時を愛で、専らそれを楽しむために式に参列する人々を、私は、友人たちのうちに何人も知っている。これらのことを私が語るのは、祝典会場で笑った人々を恨んでいるからではない。というのも、私自身に関しては、受賞の番が回ってきた時、抱擁すべき父も、母も、従姉妹も、師匠も、愛する女(ひと)も、会場にはいなかったからである。師匠は体調不良だったし、両親は欠席で、満足していないようだったし、我が愛する女(ひと)はと言えば・・・。そのような次第で、私は、終身書記閣下を抱擁しただけで、私が近づいたとき、彼が私の額の赤みに気付いたかどうかも、疑わしく思っている。というのも、私の額は、「刈られたばかり」どころか、一群の長い赤毛( une forêt de longs cheveux roux )で覆い隠されていたし、その髪はといえば、他の特徴的な顔立ちと相まって、私がミミズクの仲間に分類されることに、少なからず役立っていたに違いないからだ。

その上、私はその日、到底人を抱擁するような気分ではなかった。それどころか、生涯でこれ以上腹を立てたことはないとさえ思う状態だった。その理由を次に語ろう。その年のコンクールの課題カンタータは、「サルダナパル( Sardanapale )[伝説上の最後のアッシリア王~小学館ロベール仏和大辞典]最後の晩」を題材とするものだった訳注4(1)参照]。その詩は、戦いに敗れたサルダナパル王が彼の最も美しい女奴隷を呼び集め、彼女らとともに火葬の積み薪(まき)( bûcher )の上に上るところで終わる[ドラクロワの有名な絵画、『サルダナパルの死』(1827)〜訳注4(2)の図版参照~は、この場面を描いている]。まず心に浮かんだのは、大火事、覚悟の決まらぬ女たちの悲鳴、炎が燃え広がる中、この勇敢な享楽主義者が死をものともせずに発する不遜な言葉、そして宮殿の倒壊する凄まじい音を描く、ある種の交響曲を書くことだった。だが、私は、このような性格を持った光景の主な輪郭( les principaux trait )を器楽( orchestre )のみを用いて聴き手に理解できるようにするために、自分が採用せざるを得なくなる手法のことを思い、踏みとどまった。アカデミー音楽部会は、そんな手法で書かれた器楽の終曲を見ただけで、私の提出作品全体に不合格の判定を下すに違いなかった。そもそも、そのような音楽がピアノによる演奏にまで空疎化されたもの以上に意味をなさぬもののあろうはずもなかったから、書くこと自体、控え目に言っても、無益であった。私は待つことにした。そして、私に賞が与えられ、したがってもはやそれが失われるおそれのないこと、さらに言えば、私の提出作品がフル・オーケストラで演奏されることが確実になった段階で、この大火事の場面を書いた。この音楽は、総稽古(ゲネ・プロ)では大きな効果を上げ、不意を衝かれたアカデミー会員諸氏のうちの何人かが、私に祝いの言葉を伝えに来たほどだった。この人たちは、私が彼らの音楽上の信仰に仕掛けた策略に腹を立てることもせず、虚心にそうしてくれたのである。

学士院の講堂には、当時すでにその作風の突飛さで大いに話題になっていた作曲家の作ったカンタータがいったいどのようなものか、好奇心に駆られた音楽家や音楽愛好家が詰め掛けていた。そして、会場を出る際には、その多くが終曲の『大火事』が彼らにもたらした驚きのことを話していた。こうして、当然のことながら、この一風変わった器楽作品についての彼らの証言が、総稽古を聴きに来ていなかった翌日の聴衆の好奇心と関心をも、いやが上にもかき立てていたのである。

演奏が始まる時、私は、指揮をしていたイタリア劇場のオーケストラの前指揮者グラッセの腕前を少しばかり危ぶみ、手書き総譜を手に持って本人の横に陣取った。マリブラン夫人[夭逝した名歌手]も、街のうわさに誘われて来場したものの、客席内に席が見付からず、私のすぐそばで2丁のコントラバスに挟まれてスツールに腰掛けていた。この日が彼女に会う最後の機会になった。

受賞作のデクレッシェンド[楽語「次第に弱く」]が始まる。
(このカンタータは「すでに夜が自然をベールで覆い」との詩句で始まっていたから、私はお決まりの「夜明け( llever de l’aurore )」ではなく、「日没」の音楽を書かざるを得なかったのである。どうやら私は、決して人と同じようには振る舞わず、世人とアカデミーの感情を逆撫でするよう、運命づけられているらしい!)

カンタータは滞りなく進行していく。サルダナパルが自らの敗北を知る。彼は死を決意し、女たちを呼ぶ。火事が始まる。聴衆は聴き入っている。既に総稽古を聴いている人々が、隣席の人々にこう告げる。
「さあ、これから宮殿の倒壊です!並外れた、途方もない音楽ですよ!」

休符の数を数えない音楽家たちよ、汝らに50万回の呪いあれ!!!総譜では、ホルン( une partie de cor )がティンパニに開始の合図を出し( donnait la réplique à )、それをティンパニがシンバルに、シンバルが大太鼓に伝え、その大太鼓の最初の一打が究極の爆発を導くはずだった!ところが、いまいましいホルンが合図を出さず、ティンパニも用心して合図のないまま出ようとはせず、その結果、シンバルも大太鼓も沈黙したままとなった。何も始まらない!何も!!!・・・ヴァイオリンと低音弦だけが空しくトレモロを続けている。爆発は不発だ!火事は、あれほどの予告がなされたにもかかわらず、何事もなく鎮火してしまった。まさに大山鳴動して鼠一匹( ridiculus mus ! )[ラテン語のことわざ「Parturiunt montes, nascitur ridiculus mus(山々が産気づいて滑稽なハツカネズミが生まれる)」の一部〜出所:大修館書店『明鏡ことわざ成句使い方辞典』]、 滑稽の極みではないか!・・・私の感じた我を忘れるほどの怒りが理解できるのは、同じ苦難を経験した作曲家だけである。私は、あえぐ肺腑から憤怒の叫びを漏らし、持っていた総譜をオーケストラに向けて放り出し、譜面台を2つ倒した。足元で発破が炸裂したかのように、マリブラン夫人が跳び退く。場内の誰もががやがやと何か話している。オーケストラの奏者たちも、眉をひそめたアカデミーの会員諸氏も、煙に巻かれた聴衆も、怒り心頭に発した私の友人たちも。この出来事は、またしても私を襲った音楽上の大惨事であり、それまでに経験していたどのしくじりにもまして耐え難い、一大痛恨事であった。・・・せめて願わくはこれが私の最後の苦難たらんことを!(了)

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訳注1/時系列表
凡例:橙字は本章で語られる事項
1830年
7/27-29 7月革命(「栄光の三日間」)(29章)
10/30 『サルダナパル』初演(学士院「ローマ賞」授与式)(本章)
11/7 『シェークスピアの「あらし」に基づく劇的幻想曲』初演(27章)
12/5 『幻想交響曲』初演(31章)

訳注2/関連する手紙
1830年
7/24 友人アンベール・フェラン宛「・・・さようなら、仕事にかからねばならない。課題曲の最後の歌曲(エール)をオーケストレーションするところだ。『サルダナパル』だ。.・・・」
11/19 フェラン宛「・・・12月5日の2時、音楽院で大規模な演奏会を開き、『秘密裁判官』序曲、『[アイルランド9]歌曲集』の『聖歌』と『戦いの歌』、100人の奏者による『サルダナパル』の『大火事』の場面、そして最後に、『幻想交響曲』を演奏する。来たれ、来たれ。もの凄い演奏会になるだろう。・・・」

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訳注3/本章でベルリオーズが引用しているユゴーの詩について
この詩は、ユゴーの詩集『薄明の歌( Les chants du crépuscule )』(1835年)の冒頭に、「1830年7月の後に口述( Dicté après juillet 1830 )」との題で収められているが、初出は『グローブ( Le Glove )』誌1830年9月19日号で、当時の題は「若きフランスに( À la jeune France )」だった(出所:ブルーム編『回想録』p.289, n.5 )。7連220行余りの長大な詩で、ベルリオーズが引用しているのは、その第1連の最後の6行(第 37 -42 行)である。この詩は、復古王政下、王朝派の詩人として頭角を現したユゴーが、7月革命の後、新体制(「七月王政」)支持の立場を表明した作品として知られている。
本章での引用部分の意味を理解するための一助として、原詩第1連の全文の試訳(当館作成〜原詩の含意を汲み取れていない箇所があり得ることに留意されたい)を原詩のテクストとともに別ページに掲げる。

(参照文献)
アンドレ・モロワ『ヴィクトール・ユゴー 詩と愛と革命 (上)』、辻昶、横山正二訳、新潮社、1961年

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訳注4/ローマ賞コンクール提出作品『サルダナパル』
(1) 総譜断片の発見、本章の記述との関係について
この作品は、前章でベルリオーズが「後に私が廃棄した、とある作品のおかげで、[アカデミーは]私が健全な教義に宗旨変えしたと認め」と語っているとおり、一時期、ベルリオーズによって廃棄され、失われたと考えられていた。だが、その後、フランスの研究者ティエルソ( Julien Tiersot 1857-1936 )が、ベルリオーズの未完オペラ『血まみれの尼僧』の手書き総譜を製本した資料(現フランス国立図書館蔵〜Gallicaで閲覧可能)の中に『大火事』を含むこの作品の総譜の断片が綴じられているのを発見したという。この資料は、国立図書館のコレクションに入る前は、ベルリオーズの晩年の隣人、親しい友人、かつ、遺言執行者の1人だった音楽家、ダムケ( Damcke )らの property(処分可能な資産、所有物等の意)であった由であるから、製本させたのはダムケだったのかもしれない。こうして発見された総譜には、その最初のページの余白に「廃棄(焼却)すべき断片( Fragment à brûler )」との書き込みがベルリオーズの筆跡でなされている。この年のローマ賞の課題のテクストは、本章でベルリオーズが(例年不変の構成として)語っているとおり、レシタティフ(歌われる台詞)、アリア(歌)各1編の組み合わせ3セット(計6編)の構成であったが、発見された総譜に含まれているのは、そのうちの第3(最終)のアリアの後半(第 66-138 小節~小節番号は、アリアの最後の小節に「138」と記されていることによる)と、受賞が決まった後に追加された器楽曲『大火事』(全123小節)のみであり(これらは、課題テクスト全文とともに『新ベルリオーズ全集』第6巻に収められている)、その他の部分は、失われたままである。

全集CD7(19)(録音時間5分11秒)[YouTube:sardanapale berlioz]は、この総譜を演奏したものである。なお、この録音は、第3のアリアのテクストの終わり8行の朗読(約25秒間)から始まっているが、これは、逸失部分を補うためになされた録音制作上の工夫と思われる。開始後2分34秒辺りまでが第3のアリアであり、そこから途切れなく『大火事』へと移行する。その冒頭に聞かれるヴァイオリンのトレモロは火葬の積み薪に放たれた火を、その後中高音の弦楽器群が2度奏する急速な上行旋律は、その燃え上がりを示すものであろうか。1度目の上行(2分45秒辺り)の直後から2度目(3分2秒辺り)の直前までの間に木管楽器群によって奏される緩徐で叙情的な旋律(2分50秒辺りから3分2秒辺りまで)は、第1のアリア(課題テクストでは「カンタービレ」との題が付されている)の回想だと考えられている。この旋律は、後の作品、交響曲『ロメオとジュリエット』(1839年作曲・初演)で、重要な役割を与えられる(全集CD4(5)5:08に現れるオーボエによる叙情的な長い旋律。同(6)2:30に華やかな祝宴の音楽に重ねられて再登場する)。とはいえ、このことは必ずしも、ベルリオーズが『サルダナパル』のために作った旋律を『ロメオ』に再利用した、ということを意味する訳ではない。むしろ逆に、彼が1820年代後半には『ロメオとジュリエット』を題材とする作品の構想を練りはじめていたと考えられている[マクドナルド6章、同5章等]ことからすれば、(原始)『ロメオ』のためにスケッチされ、当時既に彼の「手持ち」になっていた旋律素材が、『サルダナパル』の『カンタービレ』に投入されたとみる方が、より真相に近いのではないだろうか。
さて、開始後3分41秒、サルダナパルの「Néhala !(ネハラ)」との短い叫び(『カンタービレ』のテクストの冒頭に「朝の星、ネハラよ、竪琴を取りなさい」との言葉があることから、ネハラはサルダナパルの寵姫の名であろうと推測される。)の直後のオーケストラの強奏が、本章でベルリオーズが語っている(不発に終わった)「爆発」であろうと考えられる。そして、それに続く一連の大音響が、「宮殿の倒壊」であろう。

[注記:次のパラグラフは、訳出上の問題に関するやや詳細にわたる記述を含みます。]ところで、全集CDの録音、すなわち、発見された総譜断片においては、この「爆発」の箇所で、ホルン、ティンパニ、大太鼓(、さらにはシンバル、弦楽器)が、同時に音を出している。これに対し、本章のベルリオーズの言葉は、ホルンが音を出しそこなったせいで、それに続くはずだったティンパニと大太鼓も音を出さずに終わってしまった、との意味であるように読める。つまり、この3つのパートは、同時にではなく、順次音を出すはずだった、としているように読めるということである。この違いについては、どのように理解すればよいのだろうか?この点について、ブルーム編『回想録』( p.293, n.19)は、可能性として考えられることとして、① 発見された総譜断片は授賞式で演奏されたものと版が異なっている、② 『回想録』執筆時、ベルリオーズはこの作品のオーケストレーションの細部を忘れてしまっていた、③『回想録』執筆に当たり、ベルリオーズが脚色を行った、の3つを挙げた上、これらとは別の第4の可能性として、発見された総譜の問題の箇所(第190小節)のホルンのパートに、当時としては大変珍しい「pavillons en l’air」(楽器のベルを上に向ける)との指示が記されていることに注目し、この動作を行うことがティンパニと大太鼓への合図になるはずだったのではないか、との見方を示している。本文のとおり、当館では、原書に「une partie de cor donnait dans ma partition la réplique aux timbales」とあるのを「私の総譜では、ホルン奏者がティンパニに開始の合図を出し、」と訳しているが、これは、この第4の可能性を念頭に置いたものである。ここで「合図」とあるのは、原書の「réplique(レプリク)」に当てた訳語であるが、仏和辞典にはこのような訳語は挙げられていないから、これは、上記の可能性を考慮した「意訳」である。ただし、小学館ロベール仏和大辞典は、音楽に関係する用法として、訳語の一つに「演奏(再開)指示楽句」の語を挙げている。この意味での「レプリク」は、英語の「キュー(cue)」に相当し、例えば、音楽之友社『新音楽辞典』( p.170「キュー」の項)は、この語(「キュー」、すなわち「レプリク」)について、「管弦楽作品などのパート譜で休止が長く続く場合、奏者の注意を促すためにその楽器の入りの前に、他の楽器で奏されている主旋律の一部を小音符で示してあるもの」と説明している。しかし、これをそのまま『サルダナパル』の総譜に当てはめたのでは、「爆発」前のホルンは、ティンパニや大太鼓と同じように長く休止しているから、そのような楽器の先行楽句は「再開指示」として機能し得ないことは明らかであり、ベルリオーズの言葉は意味をなさないものになってしまう。他方、「キュー」や「レプリク」は、必ずしも音符で示された楽句に限られるものではなく、同じ機能を果たすものであれば、文字で記された指示であってもよい(例えば、ホルンのパート譜に「ベルを上に向ける」と記されている箇所で、ティンパニのパート譜に「ホルンがベルを上に向ける」と記すなど)、と考えるならば、そのような理解の下に、直訳すれば「ホルンがティンパニにレプリクを与える」となる原文に、(奏者が楽器のベルを上げることを念頭に)「ホルンがティンパニに合図を出す」との訳を付すことは、必ずしも不適切ではないことになる。上記当館訳は、このような考え方に基づくものである。

(2) 参考画像:ドラクロワ『サルダナパルの死( Mort de Sardanapale )』(1827年)

出所:Wikimedia Commons(クリック/タップすると同サイトの画像に移動)
ルーヴル美術館の画像:collections.louvre.fr(クリック/タップすると同サイトの画像ページに移動)

本注の作成に当たり、文中に記したもののほか、次の文献を参照した。
新ベルリオーズ全集6巻『ローマ賞提出作品』( David Gilbert 校訂)序言、校訂ノート
同8巻『未完オペラ』( Ric Graebner、Pau Banks 校訂)序言、校訂ノート
同10巻『ロメオとジュリエット』( D. Kern Hokoman 校訂)序言
『ベルリオーズ辞典』ダムケ( Damke, Berthhold )の項(ケアンズ執筆)

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