手紙セレクション / Selected Letters / 1831年3月25日(27歳)

凡例:緑字は訳注

ローマ発、1831年3月25日
ナンシー・ベルリオーズ宛

お好きなように、大いに結構、非は居ない者にある[ A votre aise, c’est très bien, les absents ont tort ; 続く文章から推察されるとおり、この言葉は、主としてカミーユに向けられたものであろう。]。2月8日に[ラ・コートを]出発してから、マルセイユとフィレンツェで手紙を書き、その後ローマ入りしたが、ここ[ローマ]には一通も手紙が届いていなかったばかりか、もう三月も終わろうという今日になっても、ひとつも来ないままだ。カミーユからの手紙も。彼女が死んでしまったわけではないことは確かだと思うが、僕はあまり幸せな状態ではない。シェークスピア的な結末、ロメオのような死。こうしたものが、ひどく好ましく感じられる。
それでも、僕は出来上がりはじめている。僕の性格は、完成しつつある。昨日来、僕は、自分の心が試練や逆境に耐える( dur et fort )ようになってきていると感じている。
ここ[在ローマ・フランス・アカデミーの館。通称『ヴィラ・メディチ』]に滞在するようになってから、郵便の配達日、使用人が手紙の包みを食堂に運んできて、僕以外の皆がなにがしか便りを受け取っているのを見るのが、ひどく辛かった。だが、今はもう、ただ注意を払わずにいる。
2週間前、僕はカミーユに手紙を書き、このままずっと手紙をくれないなら、給費も音楽も全部放棄して、お金が足りなければ歩いてでも、パリに向かうつもりだと告げた。だが、今は、躊躇している。いったい僕はなぜ、愛ゆえに嘆き、悲しみ、声にならない叫びを上げる状態に逆戻りし、自分の方から僕の全存在を揺さぶっておきながらいまでは無関心な態度しか示さず、その憎むべき利己主義が悪魔をさえ憤慨させるだろう不実な母親に愛情と敬意を抱いているかのように振る舞っている人のために、無益に自分を犠牲にしようとするのか!・・・二か月も手紙をくれないなんて!・・・誰一人・・・[… Deux mois sans m’écrire ! … Personne … ]
否(いな)、涙はもう流すまい。僕が流すべき分は、みな流した。戦争や革命が、これほど月並みな考えになってしまっているのでなかったら、僕もそれに身を投じていたところだ。だが、それより、もっと良いことがある。カラブリアのポジリッポ山か、カプリ島に行って、かの地の無法者の親分に、たとえ一介の山賊に身をやつさなければならないにしても、働き口をもらおうと思うのだ。そうすれば、少なくとも同じ悪事でも、こんな胸の悪くなる、吝(けち)で卑劣な小罪、見下げ果てた不実、優柔不断な裏切りではなく、盗み、暴行、人さらい、反乱といった、見事な大罪に出会えることだろう。そう、それこそが、僕に相応しい世界だ。火山に岩場。洞窟内に積み上げられた豪奢な略奪品。恐怖の叫び声の重唱。伴奏は、ピストルと騎兵銃、血と「ラクリマ・クリスティ」[イタリアのベズビオ山麓で栽培される白ブドウで造ったワインの名。「キリストの涙」を意味するラテン語から。〜小学館ロベール仏和大辞典]、地震に揺らされ、あやされながら流れる熔岩のオーケストラだ。さあ行こう、これが人生だ!
だがこれは、愛国的、博愛主義的な自己犠牲に勝る価値をもたない!・・・ああ、博愛主義か!・・・大いに結構!・・・それは哲学とも、道義とも、調和し得る立場だ。しかし、それは、年老いてしわくちゃになった三人組の魔女のようなもので、人は、余程お人好しでなければ、その呪文も魔力も信じはしない。そして今日、善良と軽率、美徳と愚昧、これらはみな同義なのだ。アーメン。[ … elle peut aller avec la philosophie et la morale ; trio de vieilles sorcières ridées, aux charmes et à la puissance desquelles on ne croit plus sans bonté d’âme ; et aujourd’hui, bonté d’âme ou bêtise, vertu ou sottise, tout cela est synonyme. Amen. ](了)[書簡全集213]

訳注/この手紙について
「カラブリアのポジリッポ山か、カプリ島に行って」から、「さあ行こう、これが人生だ!」までの一連の言葉は、『幻想交響曲』の続編、『レリオ、又は生への帰還』(初演1832年)の第3曲、『山賊の歌』を導く、レリオ(作品の主人公)の独白(モノローグ)に、たいへんよく似ている。(ただし、家族宛の私信であるこの手紙では、モーク夫人への憤りと沈黙を続けるカミーユへの不信という、ベルリオーズの個人生活上の事情が、山賊の暮らしへの憧れの引き金となっているのに対し、芸術作品である『レリオ』においては、こうした個人的な事情は捨象され、より一般化された形で、語り手レリオ(ベルリオーズの分身と考えられる)の独白が(1)自己の芸術論上、美学上の信条(シェークスピア礼賛等)の披瀝 →(2)安易・軽薄・傲慢な芸術界の風潮(野放しにされる原作改変等)への抗議 →(3)山賊の生活の礼讃と推移していく構成となっている。)
上記とほぼ同じフレーズは、この手紙の数日後に書かれるアンベール・フェランへの手紙(4月12日付け)にもみられる。
これらの資料から、この時期、『レリオ』のモノローグが、産声を上げつつあったことが分かる。

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