イタリアの旅
32章 マルセイユからリヴォルノまでの船旅のこと、嵐のこと、リヴォルノからローマまでの旅のこと、在ローマ・フランス・アカデミーのこと
その季節[1831年2月]のアルプス越えには、いかなる魅力も見出せなかったので、私はそのルートを避け、マルセイユ[フランス、地中海岸の港町]へと赴いた。海を見たのは、それが初めてだった。かなり長い間、私は、そこからリヴォルノ[イタリア半島西岸の港町。フィレンツェの外港。]に向け出航する、多少なりともまともな船を探し歩いた。だが、見付けることができたのは、どれも、羊毛、油を入れた大樽、黒色顔料の原料にする獣骨などを大量に積んでいて、耐え難い悪臭がする上、まっとうな人間が身を落ち着けることのできる場所もない、ひどく汚らしい小船ばかりだった。居室も食事も提供されないから、必要な物質は自分で持ち込み、夜は利用を許された船内の一隅に犬小屋のような寝床を作るほかなく、旅の道連れといえば、信用してよいかどうかも定かでない、ブルドッグのように無愛想な4人ばかりの船員たちに限られるに違いなかった。私はたじろいだ。数日間は、ノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院の近くで、終日岩場歩きをして時間をつぶすほかなかった。このような岩場歩きは、今なお、私の特に好む活動である。
そしてとうとう、サルディニアの2本マストの帆船(ブリッグ)が一艘、間もなくリヴォルノに向けて出航するという話を耳にした。ラ・カヌビエール通りで出会った数人の風采のよい若者たちが、彼らもその船に乗る予定だから一緒に必需品の調達を相談しようではないかと言ってくれた。船長には乗客の食事の世話を引き受けるつもりが全くなかったから、それに備える必要があった。マルセイユからリヴォルノまでの船旅は、好天なら3、4日を超えることがまずなかったから、我々は、余裕をみて1週間分の食糧を用意した。天候に恵まれ、船がまともで、船酔いさえしなければ、地中海の初航海は、真(まこと)に魅力的な体験である。初めの二日間、他の乗船客たちをひどく苦しめた船酔いを自分に限っては些かも味わわずに済んだことの幸運は、いくら強調しても足りない。素晴らしい陽光の下、サルディニア王国の海岸の景色を眺めながら、デッキで我々がとった夕食は、実に愉しい集まりだった。相客は皆イタリア人で、そのそれぞれが、もっともらしさの程度に差はあれ、大層面白い逸話の詰まった回顧談を持っていた。彼らの一人は、ギリシャで同国解放の大義のために戦い、カナリス[ギリシャ独立戦争(1821~29)の英雄。火船(かせん)による敵艦隊の焼き打ち作戦を指揮。]とつながりがあった。我々は、その名声が自らの放った火船の大群の爆発にも較べ得る、突然のまばゆき輝きを放った後、忘れ去られんとしているかにみえていたこの英雄的な放火者( incendiaire )の仔細を、語り手に飽かず尋ねたものである。また、あるヴェネツィア人は、たいそう訛りの強いフランス語を話す、かなり怪しげな人物だったが、バイロン卿[1788~1824。英国の詩人。ギリシャ解放戦争に参加すべく、独立軍の拠点、ミソロンギに上陸し、同地に客死。]のアドリア海、エーゲ海での波乱に満ちた航海の際、この詩人のコルヴェット艦[3本マストの軍艦〜小学館ロベール仏和大辞典]を指揮したと称していた。彼は、バイロンが彼に着用させた素晴らしい制服のことや、彼らが共に関わった様々な乱痴気騒ぎのことなどを、まことしやかに詳しく語った。さらにはまた、この有名な冒険家に自らの勇気を賞賛された話をすることも、忘れなかった。曰く、バイロンはある日、嵐のさなか、トランプの「エカルテ」の勝負をしようと、彼を自らの船室に招いた。彼は、デッキでの操船監督任務を中断して、その招きに応じた。ところが、勝負が始まると、船の揺れが一段と激しくなり、二人はついに、テーブルもろとも床に投げ出されてしまったというのである。
「カードを拾いたまえ、勝負はこれからだ。」バイロンが叫んだ。
「喜んでお相手しましょう、閣下。」
「艦長、君は勇敢な男だ。」
これらは一つ残らず、この人物の作り話だったのかもしれない。だが、縁飾りの付いた制服の話や「エカルテ」の勝負の話が『ララ』の作者[=バイロン]にいかにも似つかわしかったということは認めねばならないし、また、語り手は、ここまで地域色に富んだ話を自ら創作できるほどの教養の持ち主でもなかった。私は、チャイルド・ハロルドの巡礼に同行した人物に出会った嬉しさの余り、これらの話をすっかり信じ込んでしまった。だが、我々の船は、目的地に順調に近づいているようには見えなかった。まる3日もの間、凪(なぎ)でニース沖に足止めされていたのである。毎日夕刻に吹く微風が、数リュー[1リューは約4キロ]ばかり我々を前に進めたが、その風は2時間程で止んでしまい、夜には、その海域を支配する海流の逆向きの流れが我々をごくゆっくりと元の場所に連れ戻してしまっていたのだった。私は、毎朝デッキに上がる度に、対岸に見える街の名を水夫たちに訊ねたが、答えはいつも同じだった。「 È Nizza, signore. Ancora Nizza. È sempre Nizza[イタリア語。「ニッツァ(ニース)でさ、旦那。いまもニッツァ、いつもニッツァで。」]私は、この魅力的な都市は、ある種の磁力を備えていて、船内の鉄製のものを一つひとつ奪い去ってしまう(水夫たちの話では、船が北極や南極に近づくと、そうしたことが起きるとのことだった)までのことはしないまでも、我々の船を抗いがたく惹きつけるくらいのことはしているに違いないと思うようになった。だが、やがて、その考えは誤っていたことに気付かされた。アルプスから吹き下ろす猛烈な北風が、雪崩のように我々に襲いかかってきたのである。失われた時間を取り返すこれ程の好機を逃してなるものかとばかりに、船長が帆を一杯に張らせたので、船は側面に風を受け、恐ろしく傾斜した。だが、初めは不安に感じたこの傾きにも、じきに慣れてしまった。ところが、真夜中頃、船がスペツィア湾に差し掛かると、アルプスおろしの風がさらに烈しくなった。そのため、水夫たちですら、船長が頑なにすべての帆を張ったままにしていることに不安を感じ始めた。天気は、いまや本物のあらしになっていた(この状況については、また別の機会に然るべき学術的方法で記述しようと思う)。私は、デッキ上の鉄の横棒につかまり、心臓の鈍い鼓動を感じつつ、その恐ろしい情景に見入っていた。そこでは、件(くだん)のヴェネツィア人の艦長が、舵を取っている船長に厳しい視線を向け、時折、陰鬱な呟きを漏らしていた。曰く、「狂気の沙汰だ!何と頑固な!奴(やっこ)さん、仕舞いには船を沈没させちまうぜ。この状況で15枚も帆を揚げさせるとは!」片や、もう一方の船長は、一言も発せず、ただ舵に取り付いているばかりだった。とそのとき、ひと吹きの猛烈な突風が我々を襲い、船長をなぎ倒し、船をほとんど横倒しにしてしまった。身の毛もよだつ瞬間だった。我らが不運な船長が、揺れで四方八方に放り出された積み荷の樽とともにデッキの上を転げている間に、あのヴェネツィア人が飛び出して行って舵を取り、操船の指揮をしはじめた。この行動は船長権限の不法な奪取には違いなかったが、状況に照らせば正当なものだったといってよく、水夫たちも、差し迫る危険の大きさと彼らの直感から、この道理を見誤りはしなかった。彼らのなかには、もはや万事休すと観念し、加護を求めてマドンナの名を唱え始めた者も、一人ならずあったのである。「くそっ、マドンナは後だ!」艦長が叫んだ。「トゲルンスル( perroquet )[下から3番目の継ぎマスト(トゲルンマスト)に掛ける四角い帆〜小学館ロベール仏和大辞典]だ!皆でトゲルンスルにかかれ!何としてもだ!」臨時船長の号令の下、たちまちマストに人が群がり、大きな帆[複数]が絞られていった。船が半ば起き上がり、更に細かな制御ができるようになった。こうして我々は、ことなきを得た。
翌日、我々は、帆を一枚だけ張った状態で、リヴォルノに到着した。風はそれほど強かったのである。我々がホテル・アクィラ・ネナに落ち着いて何時間か経った頃、水夫たちが揃って訪ねてきた。何か下心があってのことかと最初は思われたが、実はそうではなく、ともに危難を免れたことをただ我々と祝うためにやって来たのだった。この気の毒な人々は、一片の干し鱈と堅パンから成る彼らの日々の糧食を何とか購(あがな)うに足りる程度の稼ぎしかないのだが、それでも決して我々から金を受け取ろうとせず、暫(しば)し留まって即席の昼食をともにしていくよう説得するのが、やっとだった。ここに特に記しておくに値する、(特にイタリアでは)稀にみる美しい心根の持ち主たちだった。
私の航海仲間たちは、最近発生したモデナ公に対する反乱に加わるという彼らの渡航目的を、船中で私に明かしていた。彼らは熱烈な愛国心に突き動かされていて、祖国解放の日が近いことを確信していた。モデナを奪取すれば、程なくトスカナ全域で蜂起が起きるはずだった。彼らは速やかにローマに入城し、さらにはフランスも、彼らの崇高な企ての支援に回るに違いない等々との算段だった。だが、気の毒なことに、彼らのうちの二人までもがフィレンツェに入る前に大公国の官憲に逮捕され、投獄されてしまった。いまもそこで獄に繋がれているかもしれない。後に耳にしたところでは、残りの者たちはモデナとボローニャで愛国者陣営に加わって名を上げたが、あの勇敢にして悲運なメノッティに従って苦難の道を歩み、この指導者と運命をともにしたとのことである。それが、この気高い解放の夢の、痛ましい結末であった。
彼らとはフィレンツェで別れた。そのときは、それが永遠の別れになろうとは思わなかった。私はフィレンツェに独り留まってローマに向けて発つ準備をしたが、法王領に入るには、時期が大層悪かった。取り分け、私のようにパリから来たフランス人にとってはそうだった。当局( on )[フィレンツェの法王大使のこと〜1831/3/2付ベルリオーズ医師宛の手紙参照]は、私の旅券に査証を与えることを拒んだ。在ローマ・フランス・アカデミーの研究員たちは、コロンナ広場で起きた暴動の黒幕なのではないかとの疑いを強く持たれていたから、ローマ法王庁がこの革命派の小集団の勢力拡大を快く思わないのも、十分理解できることだった。私はアカデミーの館長、オラス・ヴェルネ氏に手紙を書いた。彼は、何度か強い申し入れを行った後、ついにベルネッティ枢機卿から必要な許可を取り付けた。
大層奇妙なことに、パリを[馬車で]出たとき、私は一人だった。マルセイユからリヴォルノに向かう船中でも、ただ一人のフランス人だった。フィレンツェでも、御者が見出したローマに向かうただ一人の乗客だった。こうして私は、ローマに着いたとき、完全な隔絶状態にあった。シエナの古本屋で偶然見つけた皇后ジョセフィーヌ[ナポレオン1世妃]の生涯についての2巻本が、穏やかに進んでいく古い4輪馬車のなかでの私の暇つぶしを助けてくれた。私の御者(mon Phaéton )はフランス語を一言も話さず、私の話すイタリア語も「 Fa molto caldo. [とても暑い。]Piove. [雨です。] Quando Io pranzo ?[昼食はいつですか?]」といった簡単な言葉に限られていた。我々が何か面白味のある会話をすることは、難しかった。道中の風景に見るべきものはほとんどなかったし、馬車を停めた町や村にもおよそ慰めになるようなものがなかったから、私は、イタリアとそこへ私を向かわせたばかげた義務とに悪態をつくようになっていた。ところが、ある日の朝の10時頃、ラ・ストルタという小さな集落に着いたときのこと、御者( vetturino[イタリア語])が、自分のグラスにワインを注ぎながら、無頓着な様子で、突然、私にこう告げたのである。「 Ecco Roma, sinore![ほれ、あれがローマでさ、旦那!]」そうして彼は、振り返りもせず、サン・ピエトロ寺院の十字架を私に指し示した。わずか数語のその言葉が、私の気分を一変させた( Ce peu de mot opéra en moi une révolution complète; )。荒涼とした広大な平野の遥か彼方に永遠の都を目にしたときに私が経験した衝撃と動揺を、いったいどう説明すればよいだろうか。眼前にあるすべてが、壮大で、詩的で、崇高になった。私の敬虔な感情( ma religieuse émotion )は、その少し後、フランスからの旅人がローマに入るときに通るポポロ広場の威容を目の当たりにして、さらに深まった。夢想に我を忘れていると、先刻来もはやその遅い足取りを呪わしく感じなくなっていた馬たちが、とある簡素で堂々とした館(やかた)の前で、歩みを止めた。そこが、在ローマ・フランス・アカデミーだった。
アカデミーの給費研究員たちと館長の居館、ヴィラ・メディチは、1557年、アンニバーレ・リッピによって建設され、その後、ミケランジェロによって翼棟と様々な装飾とが加えられた。この施設は、街を見下ろす位置にあり、世界中で最も素晴らしい眺望の一つを楽しむことのできる場所、ピンチョの丘の一角を占めている。右手には、ローマのシャン・ゼリゼ大通りに相当する、ピンチョ通り( la promenade du Pincio )がある。そこは、毎晩、昼間の暑さが和らぎはじめると、歩いたり、馬に乗ったり、取り分け幌のない小型四輪馬車に乗ったりして繰り出して来る人々で、いっぱいになる。彼らは、このたいへん美しい台地の上の静かな環境を暫く賑わした後、7時になると慌ただしくそこを下り、風に運ばれる羽虫の大群のように、姿を消してしまう。「質(たち)の悪い微風(le mauvais air [~フランス語])」が、ローマの住人たちの心に引き起こすほとんど妄信的な恐れは、それほどのものなのである。それ故、人々が立ち去った後、「l’aria cattiva[質(たち)の悪い微風~イタリア語]」の有害な作用にもお構いなしに、向こうの地平を限るモンテ・マリオの丘の背後に沈んでゆく太陽が照らし出す雄大で壮麗な景色を眺めようと、なお残っている散策者の小集団をみかけたなら、その無分別な夢想家たちは、間違いなく外国人であると考えてよい。
館を出てピンチョ通りを左に進むと、オベリスク(方尖塔)のある小さな広場、トリニタ・デル・モンテに出る。そこにはローマ市街に降りる大理石の大階段があり、それが、丘の頂上とスペイン広場を直接連絡している。
館の反対側には、まっとうなアカデミーなら当然そうあるべきル・ノトルの様式で設計された、見事な庭園がある。庭園の一部をなす盛り土された区画( une terrasse )に月桂樹とセイヨウヒイラギガシの木立があり、それは、一方の端でローマの城壁に、他方の端で隣地にあるフランス・ウルスラ会の女子修道院に、それぞれ接している。
正面には、ヴィラ・ボルゲーゼの荒れ地の中央に、かつてラファエロが住んでいた、うら寂しく荒れ果てた別荘があるのが見える。荒涼としたこの景観を一段と陰気にしようとするかのように、いつもカラスの大群で黒く覆われた、カラカサマツの木立の長い帯が、地平線を縁取りしている。
以上が、自国の芸術家たちがローマに滞在するに当たりフランス政府が気前よく彼らに提供している、真(まこと)に豪華な住環境( la topographie de l’habitation )のあらましである。館長のアパルトマン[住戸。複数形。]は際立って豪華なもので、大使たちですら、これ程の住居を持つことができれば幸運に思うだろう。これに対し、給費研究員たちの部屋は、2、3の例外を除き、小さく不便で、取り分け、家具、調度類がひどく粗末だった。この点においては、ローマのアカデミア・ディ・フランツィア[イタリア語。フランス・アカデミーのこと。]に住まっていた私より、パリのポパンクール兵舎の伍長の方が恵まれていたとみて、まず間違いないだろう。画家と彫刻家のアトリエは、その大部分が庭園の中にあったが、その他の部屋は、本館内とウルスラ修道院の庭園を見下ろす高い位置にある小さなバルコニーの上とに、散在していた。後者の部屋からは、サビーニ山脈、モンテ・カヴォ、ハンニバルの宿営地を見渡すことができた。さらに、新しい本が全くないものの、古典はかなり揃った図書館が、勤勉な学究の徒のために3時まで開館していた。この図書館はまた、勤勉な学究の徒でない者の無為の生活のためにも、一つの退屈しのぎの手立てを提供していた。それというのも、研究員たちが享受していた自由は、ほぼ無制約のものだったと言わねばならないからである。確かに彼らは、研鑽の成果として絵、デッサン、メダル、楽譜などを年に一度、パリのアカデミーに提出することを義務付けられてはいた。だが、ひとたびそれを果たしてしまえば、あとは各自好きなように自らの時間を使うことができたし、誰にも気兼ねなくただ無為に過ごすことさえできた。館長の任務は施設の運営とそれに関わるを規則の執行の監督とに限られていた。研究の指導に関しては、彼は何の影響力も及ぼしていなかったが、それも道理であった。22人の給費研究員は、幾らか関連はあるにせよそれぞれ異なる5つの技芸(アール)に専心していたから、一人の人間がそのすべてに通じることができない以上、自分の知らない技芸について意見を述べることは、歓迎されざることだったのである。(了)