『回想録』 / Memoirs / Chapter 33

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凡例:緑字は訳注

33章 アカデミーの研究員たちのこと、フェリクス・メンデルスゾーンのこと

アカデミーの玄関前で馬車を降りたのは、アヴェ・マリアの鐘が鳴って間もない時刻だった。夕食どきだったので、同僚の研究員たちがみな集まっているという、館の食堂へと急いだ。すでに述べたとおり、私の到着は、様々な事情で遅れていたから、アカデミーは、あとは私の入寮を待つばかりとなっていた。大広間に一歩足を踏み入れると、そこでは、20人ばかりの人々が、食べ物が並んだテーブルを囲み、騒々しく食事をしていた。彼らは、私の姿を見るや、もし部屋に窓があったならば窓ガラスも破れただろうと思われる程の、大歓声を上げた。
「やあ、ベルリオーズだ、ベルリオーズ君のお出ましだ!それにしても、まあ、見ろよ、あの頭を!なんという髪だ!それに、あの鼻ときたら!どうだ、ジャレ君。あれじゃ、君の鼻も形無しだな。」
「君もだぜ。あの髪に較べれば、君なんぞ、髪が無いも同然じゃないか。」
「いや、驚いたな、あの前髪には!」
「おい、ベルリオーズ君、僕が分かるかい!覚えてるだろ!『サルダナパルス』の演奏のときだよ、学士院の!ほら、君の大事な太鼓のミスで、大火事の場面が台無しになった、あのときだ。いや、この男、怒っていたのなんのって!まあ、それも当然だったがね。さあ、思い出しただろ、僕を?」
「ああ、覚えているとも。ええと、貴君はたしか・・・」
「おいおい、貴君だとさ・・・。ねえ君、気取りっこはなしだよ、ここではみな、会ってすぐ、君、僕で呼び合っているのさ。」
「分かった、分かった。ところで君の名だが、何といったかな?」
「奴はシニョルだ。」
「いや、ロシニョル[ナイチンゲール(サヨナキドリ)~澄んだ美しい声の喩えによく用いられる鳥。]だ。」
「ひどい駄洒落だ!実にひどい!」
「最悪だ。」
「少しは休ませてやれよ。」
「駄洒落をか?」
「ばか、ベルリオーズをだ。座って一息つかせてやらんと。」
「おおい、フルーリ、酒だ、パンチを持ってきてくれ。とっておきのやつを頼むよ。才気をひけらかしたがる、この別なやつの戯言(たわごと)よりは、ましだろうからな[ Ohé! Fleury, apportez-nous du punch… et du fameux; ça vaudra mieux que les bêtises de cet autre qui veut faire le malin.~「この(又はあの)別なやつ」が何を指すか不詳。既存の英訳・邦訳は、「アカデミーの同僚(の誰か)」と解しているようであるが、後に続く会話との関係から、「別の酒」、すなわちワインを指すと解する余地もあるのではないかと思われる。]。」
「音楽部会が揃ったな、これで!」
「おい、モンフォール君[「僕のフォ-ル君」の意も。なお、フォール fort (普通名詞)には、強者、長所、要塞等の意味がある。](原注)、君の同僚が着いたぜ。」
「おい、ベルリオーズ君、君のフォ-ル君(トンフォール)は、ここに座っているぜ!」
「いや、ここに座っているのは、モンフォール[僕のフォ-ル]君だ!」
「いや、彼のフォ-ル(ソンフォール)君だよ!」
「いやいや、我らがフォ-ル(ノトルフォール)君さ!」
「さあ、互いに抱擁したまえ!」
「さあ、抱擁し合おう!」
「彼らは抱擁などしないさ!」
「いや、するさ!」
「いや、しないさ!」
「おやおや、君は、連中が騒いでいる間に、マカロニを、全部平らげちまったじゃないか!少しくらい、僕に残しておいてくれても、よさそうなものではないか!」
「さあ、みなで彼を抱擁しよう、それで終わりだ。」
「いや、終わりではなく、始まりだ。さあ、パンチが来たぞ!ワインは、やめにしたまえ。」
「ワインはもういい!」
「ワインなぞ、くそ食らえだ!」
「よし、みなで瓶を割るぞ!さあ、気を付けろよ、フルーリ!」
ガシャーン!
「みなさん、グラスだけは、壊さないでおいてくださいね。パンチは、それで飲むのですから。小さなグラスじゃ、みなさんだって、お嫌でしょう?」
「そいつは御免だ!」
「いいぞ、フルーリ、よくぞ止めてくれた。もう少しで全部割っちまうところだったぜ。」
フルーリは、この館の執事で、歴代の館長から信任を得てきた所以(ゆえん)が、あらゆる点で頷ける、実直な人物だった。彼は、研究員たちの給仕役を永く務めるうちに、ここに描いたような類いの大騒ぎにも、すっかり慣れてしまい、些かも動じないようになっていた。このような状況においても彼が保つ、落ち着き払った謹厳な態度と、研究員たちのそれとの対照は、真に愉快なものだった。
私は、この騒々しい歓迎のせいで陥ったに違いないショック状態から、少しばかり立ち直ると、自分がいる大広間の、ひどく風変わりな様子に気付いた。壁の一つには、過去の研究員たちの肖像画が、全部で50点ほど、額に入れて飾られていた。もう一つの壁には、見れば吹き出さずにいられない、途方もない等身大の壁画が描かれている。一連の戯画(カリカチュア)の珍妙な奇怪さは、名状し難いものであったが、それらの絵のモデルも、すべてアカデミーの昔の住人たちであった。残念ながら、この風変わりな画廊には、もはやスペースがなくなっており、今日の入寮者は、彼らの肖像や似顔絵が出来上がっても、それを大広間に飾ってもらう光栄には、浴せなくなっていた。
その日の夕刻、私は、館長のヴェルネ氏に挨拶した後、同僚たちに伴われ、彼らが日頃の会合場所にしている、有名な「カフェ・グレコ」に出かけた。そこは、およそ人が見出し得る、最悪のカフェだった。不潔で、薄暗く、じめじめしていて、このような場所がローマに住む外国の芸術家たちから贔屓にされていることは、どうにも説明がつかなかったが、スペイン広場に近く、レストラン「レプリ」の正面にある便利さが、相当数の客を、この店に引き寄せていた。彼らは、そこで粗末な葉巻をくゆらせ、それよりもましとは言い難いコーヒーを飲んで、時間を潰している。コーヒーは、他の店のように大理石のテーブルに給仕されるのではなく、この愛すべき場所の壁と同じく黒ずんでべとべとになった、聖職者の帽子くらいの大きさしかない、木製の円卓に給仕される。それでも、外国の芸術家たちは、ひどく足繁くこの店に通っており、大多数の者が、自分への手紙の送り先にしていたほどである。ローマに来たばかりの人間が、同国人の知り合いを見つけようと思った場合、カフェ・グレコを訪れるのが、最も良い方法だった。
翌日、私は、フェリクス・メンデルスゾーンと知り合った。彼は、私よりも数週間早く、ローマに来ていた。この出会いのことと、それに続く幾つかの挿話については、私の最初のドイツ旅行について書くときに、併せて語ろうと思う。

原注/私より一足先にローマ入りしていた、作曲部門のローマ賞受賞者。アカデミーは、1829年の1等賞について、該当者なしとの判定をしたため、l830年の1等賞は、2名の参加者に授与した。モンフォールは、かくて前年から繰り延べられた1等賞を受賞し、4年間の給費受給資格を得たのである。(了)

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