『回想録』 / Memoirs / Chapter 13

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13章 最初のオーケストラ作品のこと、オペラ座での学習のこと、私の2人の師匠ル・シュウールとレイハのこと

最初の大規模な器楽作品、序曲『秘密裁判官(Les Franc-Juges)』 [『宗教裁判官』とも訳されている。]を書いたのは、この頃だった。『ウェイヴァリー(Waverley)』序曲も、その後間もなく作った。当時、私は、一部の楽器のメカニズムについての知識が非常に乏しかったので、『秘密裁判官』の序奏の、変ニ長調のトロンボーンのパッセージを書いた後、突然、そのパートの演奏がひどく難しいのではないかと、不安になってしまった。非常に心配だったので、私は、オペラ座のあるトロンボーン奏者のところに、楽譜を見てもらいに行った。彼の返事は、私を大いに安堵させるものだった。「難しいどころか、」そのフレーズを注意深く見てから、彼は言った。「変ニ調は、トロンボーンには特に適した調なのですよ。このパッセージは、間違いなく、素晴らしい効果を発揮すると思いますよ。」
私は大喜びし、無我夢中の状態で帰宅した。足元に注意が及ばず、足首を捻挫してしまったほどである。そのため、私は、この曲を聴くと、いまも足首に痛みを覚える。頭痛を覚える人もあるかもしれないが。
私の2人の師匠は、いずれも、楽器法については、何も教えてくれなかった。ル・シュウールの楽器法の知識は、ごく限られていた。レイハは、ほとんどの管楽器の固有の性能を知っていたが、その大小の規模の組み合わせ方、重ね合わせ方については、それほど進んだ考えは持っていなかったのではないかと思う。また、そもそも、音楽教育のこの分野は、彼が専門とする、対位法とフーガの講座には、関係がなかった(パリ音楽院には、いまも楽器法のクラスがない)。ヌヴォテ劇場の仕事を得る前、私は、有名な振付師のガルデルの友人の1人と知り合った。この人物がくれたオペラ座の平土間の入場券のおかげで、私は、この劇場のすべての演目を常に聴けるようになった。私は、上演予定の作品のスコアを劇場に持って行き、実際の演奏と照らし合わせた。私は、こうしてオーケストラの用い方を覚え始め、大抵の楽器の(音域やメカニズムとまではいわぬまでも)性格と音色を知るようになった。得られる効果と、その効果を得るために用いられる手段とを、注意深く較べることで、音楽上の表出(エクスプレシオン)と楽器法(アンストリュマンタシオン)の隠れた関係も、感じ取るとことできるようになった。それまで誰も手がかりを与えてくれていなかった事柄である。私は、ベートーヴェン、ウェーバー、スポンティーニという、現代の3人の巨匠の技法を研究した。また、楽器法のこれまでの習慣や、普段はあまり用いられない形式や組み合わせについても、偏りなく調査した。さらに、色々な楽器の名手を頻繁に訪問し、それぞれの楽器で、様々な実験をしてもらった。あとは、少々の直感が、残りの仕事をしてくれた。
レイハは、優れた対位法教師だった。彼の教えは、非常に明晰で、かつ、簡潔だった。私は、短期間のうちに、多くのことを彼から学んだ。大抵の教師と異なり、彼は、ある規則を遵守することを、教え子に薦めるときは、可能な限り、その根拠を示した。
彼は、自己の経験を偏重することもなく、停滞した精神の持ち主でもなかった。音楽の一定分野においては、革新者であり、和声法の先達に敬意は表しても、彼らを偶像視はしなかった。これらのことから、彼とケルビーニの間には、常に意見の対立が存在した。それというのも、ケルビーニは、確立された権威を崇拝するあまり、自分自身の音楽上の判断を抑圧することすら、いとわなかったからである。たとえば、彼の『対位法教科書』には、「この和声の処理は、他の処理よりも好ましいと私には思われるが、昔の巨匠たちは、そうは考えなかったのであるから、我々としては、その判断に従うべきである」といった記述がみられるのである。
しかし、レイハも、自らの作品では、軽蔑を感じながらも、仕来たりには従っていた。私は、あるとき、「アーメン」とか「キリエ・エリゾン」のような、たった一つの言葉やフレーズだけを歌うフーガのことを、どう思っているか、率直に聞かせてくれるよう、彼にせがんだことがある。こうした音楽が、あらゆる楽派の大家たちのミサ曲やレクイエムの中に、はびこっているからである。躊躇なく、彼は応えた。「まったくもって、没趣味ですな。」
「それなら何故、先生も、同じ音楽を書かれるのですか?」
「何故って、それは、みながそうするからですよ!」ああ、ミセル![ラテン語。「なんと不幸な!」の意。]
この点については、ル・シュウールの方が、一貫していた。この種のおぞましいフーガは、酔っ払いの集団の怒号のようなもので、教会の言葉遣いと様式の、冒涜的なパロディにしか聞こえないものであるが、ル・シュウールも、このようなものは未開野蛮な人々や時代にこそ似つかわしいものと考え、自らは書かないようにしていた。彼の宗教作品の中にときおり現れるフーガは、数もしかるべく限られていたし、こうしたグロテスクで忌わしいフーガとは、いささかも共通点がなかった。そのひとつ、『誰が語り得ようか、天の栄光を!』(Quis enarrabit coelorum gloriam)」で始まる作品は、スタイルの威厳、和声の技術、そしてなかんずく、感情の表出(エクスプレシオン)において、傑出した作品である(ここではフーガ形式が、その目的のために、大いに効果を上げている)。この作品では、堂々とした見事な主題が、まず属調で呈示され、次いで、同じ「誰が語り得ようか」の言葉による応答が、今度は主調で、輝かしく入るのであるが、その効果は、あたかも、コーラスの後続の一群が、はじめの一群のエンスージアズムに触発され、興奮の度合いを一段と強めながら天空の驚異を歌うべく、進み出るかのようである。そして、器楽の輝かしさが、いかに見事にこれら声楽のハーモニーのすべてを色づけしていることか!オーケストラの上部でヴァイオリンの旋律線が星のようにきらめくなか、下部を動く低音弦の力強さ!保続低音上のストレットのまばゆさ!これこそが、言葉の意味に由来する必然性があり、題材に相応しく、真に美しいフーガである!これは、音楽家がそれを書いたときにその霊感が稀な高みに達していた作品であり、ひとりの芸術家が、自らの芸術に深く思いを致しつつ、書いた作品である。もう一つの種類のフーガ、つまり、私がレイハに意見を求めたような、酒場や良からぬ場所にこそ似つかわしいフーガについては、ル・シュウールよりもはるかに優れた作曲家の署名が付いた作品を、いくつでも、挙げることができる。だが、そうした大家たちは、彼らが誰であれ、単に仕来たりに従ってそのような作品を書くことで、自らの知性を裏切り、音楽による感情表出(エクスプレシオン)ということに対して、許し得ない侮辱を与えていることに、変わりはないのである。
レイハは、フランスに来る前、ボンで、ベートーヴェンと同窓だった。だが、2人が特に近かったとは思われない。レイハは、自己の数学の知識に非常に重きを置いていた。彼は、あるとき、授業で次のように語った。「私は、数学を研究したことで、自分の発想を自在に制御することができるようなった。数学のおかげで、私はそれまで狂おしく自分を駆り立てていたイマジネーションを抑制し、その熱を冷ますことができるようになった。そして、それを理性的な検討と熟慮の対象にしたことで、倍の効果が得られるようになったのである。」レイハの理論が、彼がそう思っていたほど正しいかどうか、また、彼がその音楽能力の発揮に関し、数学研究から、本当に多くを得たのかどうかは、私には、分からない。おそらく、抽象的な組み合わせや音楽のパズルのようなものへの好みだとか、一定の困難な課題を解決することへの熱中といったことが、その効果だったのであろう。けれども、これらの結果はほとんど、彼の芸術に、その達成に向け、常に努力すべき主目標を見失わせ、進むべき道を誤らせただけかもしれないのである。また、計算に対する情熱は、おそらく、レイハが考えたのとは逆に、複雑な組み合わせの考案、困難な課題の解決、耳よりは目をより多く楽しませるための新奇な曲作りといった面で、彼の作品が得たものを、旋律や和声による感情の表出、すなわち、純粋な音楽性の面で、彼の作品から失わせ、そのことによって、彼の作品の成功や価値を大いに損なったということも、あり得るのである。だが、レイハは、批判にも賞賛にも、同じように無関心にみえた。彼はただ、自分がパリ音楽院でその和声教育を託されている若い芸術家たちの成功にのみ、価値を見出しているようだった。彼のレッスンは、入念さと親切さの模範だった。彼は、最後には、私にたいへん好意的に接してくれた。しかし、初めて彼の指導を受けるようになった頃には、あらゆる規則について私が根拠を質問するので、うんざりしている様子がみられた。これらの規則の中には、彼がその根拠を説明できないものがあったが、その理由は・・・根拠がないからなのであった。彼の木管5重奏曲は、パリで、何年もの間、一定の人気があった。それらは、興味深い作品ではあったが、やや冷たかった。他方、何回か上演された、彼のオペラ、『サッフォー』の2重唱は、たいへん情熱的で、見事なものだったと記憶している。(了)

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