凡例:緑字は訳注 薄紫字は音源に関する注
パリ発、1833年4月3日[推定]、
アデール・ベルリオーズ宛
気立ての良い、大切な妹よ、
僕の長い沈黙を君への愛情不足のせいにすることができるようなら、君は僕を全く分かっていないことになる。ああ、そんなことではもちろんない。それどころか、僕は、君が前回くれた手紙に深く心を動かされた。書いてくれたことの全てに感謝している。僕は間違っていなかった。君は僕を愛してくれる。それも心から。君は僕の妹だ。君は僕を苦しめないし、僕の苦悩に心を痛めてくれ、僕の苦痛をいやましにしようとしたりすることもない。誰もが僕を見放し、無慈悲に責め苛んでいるときにも、君は僕を心の目で見てくれる。僕を慰め、落ち着かせてくれる。僕は君にとても感謝している。君は僕を理解してくれ、不可能なことは求めない。繰り返し君にお礼を言いたい。そう、何ものも、僕らの友情を損なうことはできないのだ。もっと早く返事を書けなかった理由は、次のとおりだ。僕の気の毒なオフィーリアの例の事故以来、僕は、あるユニークでとても重要な課題のことで頭が一杯になっていた。彼女を苦境から救い出すための募金公演を、彼女のために構成することだ。僕はそれをやり遂げた。公演は、際限のない骨折りの末、昨日行われた。僕はパリのいくつかの劇場の俳優たちに正当な評価を与えなければならない( Je dois rendre justice aux artistes des différents théâtres de Paris, )。彼らは皆、この催しに熱心に協力してくれた。フランス劇場の振る舞いは特に素晴らしかった。マルス嬢、デュシュノワ嬢は、その大きな影響力をフルに発揮して僕を助けてくれた。ルビーニ、タンブリーニ、グリージ嬢といったイタリア人の歌手たちも同様だ。音楽家たちに関しては成功を確信していた。この時期の必ずしも良好とは言い難い条件の下で期待し得る限り、すべてがうまくいった。演目は、君も新聞等で見ているに違いない。売上は6500フランだった。僕はとても疲れている。彼女は相変わらずひどく苦しんでいる。いまも安静を強いられているからだ。足首の上の骨を二つ折るのは並の怪我でなく、完治にはまだ長い時間が必要だ。
僕に対する両親の態度については、何も言わずにおこう。彼らの専横な意思が揺るがないというのであれば、僕の意思は、その千倍も固い。彼らは僕を無益に苦しめて楽しんでいる。20歳のときから僕をさんざん苦しめてきたのだから、もう構わずにいてくれてしかるべきだと思っていたのだが、思い違いだった。彼らの良心が彼らの過ちを赦してくれることを願っている。
アンリエット・スミッソンは、早晩僕の妻になる。僕が実行を余儀なくされたソマシオンの手続が完了すれば、それが可能になる。結婚は、たぶんフランスですると思うが、イギリスかドイツになる可能性もある。いずれにせよ、どこにいようと、君には時々手紙を書く。先頃、アンリエットと君のことを話していたときのことだが、彼女は、君のような妹を持つ僕の幸せを、大いにうらやましがっていた。アンリエットの妹は、その違いを彼女に痛感させずにおかないのだ。
可哀想なアデール、君はどう過ごしているのだろうか?・・・君は、とても悲しい状態で、とても一人ぼっちでいる。時には手紙を書いてくれたまえ。少なくとも君にとっては、僕は、嫌われ者( un paria )ではないのだから。さようなら、身の回りのことを何でも、特にナンシーの体調のことを、僕に知らせてくれたまえ。出産が近づいているに違いない。さようなら、可愛いアデール、さようなら。兄であり友でもある僕の君への愛情は、何があっても変わらない。
H.ベルリオーズ
3月3日(了)[書簡全集332]
訳注/この手紙の日付について
本文中に語られている募金公演が1833年4月2日に開催されたものであることから、手紙の末尾に記された「3月3日」の日付は、「4月3日」の誤りであると考えられている(情報の出所:CGII p.96n.2 )。
なお、この公演は、3月21日付エドゥアール・ロシェ宛の手紙に「来週イタリア劇場で・・・行う」と記されているものと同一である。