手紙セレクション / Selected Letters / 1831年3月2日(27歳)

凡例:緑字は訳注

フィレンツェ発、1831年3月2日
ベルリオーズ医師宛

大切なお父さん、旅の終わりを待たず、状況をご報告することにします。件(くだん)の船長は、案の定、マルセイユからの出港を、本人が話していた日から2日も遅らせました。船は、サルディニア島のブリッグ[横帆の二本マストの船]で、僕のほか、フランス語を流暢に話すイタリア人が、10人ほど乗船していました。ようやく出航したかと思と、凪(なぎ)のせいでまる一日立ち往生し、その後も、8、9時間ばかりのろのろと進んでは、無風状態に逆戻りして、僕らをがっかりさせるといった調子でした。ただ、これについては、後で強烈な埋め合わせをしてもらうことになります。ともあれ、マルセイユからリヴォルノへの船旅は、ごく当たり前の天候なら4、5日で済むところ、僕らの場合、あるときは凪のため、またあるときは向かい風のせいで、11日も掛かってしまったのでした。ジェノバ湾に入ったところで、雪を頂く国境の山々から吹いてくる、猛烈な風に襲われ、あまりの寒さに、凍死するかと思いました。けれども船は、風がその舷側を捉えていたので、先を急ぐ我々の気持ちに、十分応える航行をしていたのです。僕らの船長は、人は善いけれども、船乗りとして優秀とは言い難い人物でしたが、船の帆を全部揚げさせていたので、それらの帆が、風をいっぱいにはらんで、船を恐ろしく片側に傾いた状態で航行させ、僕らを大いに心配させました。乗船者の中に、航海技術にたいそう長けた、ヴェネチアの若い私掠船の船長がいたのですが、この人は、しけがますます烈しくなるのをみて、僕らにこう言い続けていました。「あのばか者、俺たちを、あの帆もろとも、海の底に沈めちまうつもりだぜ。」ともあれ、僕らは、甲板上で波が次々に砕け、あたりを水浸しにしては、海へ還っていく様子を眺める羽目になりました。ところが、翌日の晩、嵐はますます烈しくなり、僕が船室で、他の乗船者たちが身をよじって苦しみ、外で嘔吐しようと、先を争って飛び出してゆく様子を、面白がって見ていると(僕は船酔いしませんでした)、あの私掠船の船長が、水夫たちにこう叫んでいるのが聞こえてきました。「 Corragio, corpo di dio, è niente. [イタリア語](ええい、くそっ、勇気を出せ、これしきのことは、何でもない)」何でもないどころか、事態は重大なのだと、直ちに僕は悟りました。白状しますが、14枚の展張された帆に、横風が猛烈な怒りをぶつけている様子を見て、心臓が、激しく鼓動しはじめました。一瞬の後には、水夫たちが絶望し、次のように呟きはじめました。「 Eh ! santa Madona, è tutto perduto ![イタリア語](ああ!聖マリア様、何もかもおしまいです!)」僕らの老船長は、ここに至っても、身じろぎもせず、無言のままでした。その時です、もう一人の船長[ヴェネチアの若い私掠船の船長のこと]が、イタリア語で、こう叫んだのです。「祈ってなどいる場合か!くそっ、帆を絞るんだ!さもないと、すぐに沈没だぞ!」その刹那、僕と連れ立って甲板上に出ていた他の何人かの乗船客が、それぞれ力の限り索具にしがみつきながら(そうしないと立っていられないほど、床が傾いていたのです)、一斉にこう叫びました。「ジェルマン船長、貴方が指揮を取ってくれ、あの愚かな爺さんは、完全に正気をなくしている。」―――「 Presto, presto al perroquetto tutti ![イタリア語](急げ、急げ!トゲルンスル[トゲルンマスト(下から三番目の継ぎマスト)に掛ける四角い帆]だ!皆でかかれ!)」間一髪のところで、水夫たちが、老いも若きも、メインマストに突進しました。一方、暴風も、彼らがマストによじ登っている間に、最後の猛攻を掛けてきました。その衝撃は物凄く、船内では、調度品、台所用具、トランク等が、凄まじい音を立てて崩れ落ち、甲板上では、樽が倒壊して互いにぶつかりあいながら転げ、そこらじゅうの昇降口に海水が浸入し、船は、まるで古い胡桃(くるみ)の殻のように、ひどく軋(きし)みました。僕らはみな、いよいよ一巻の終わりだと確信しました。しかし、船がそれにもかかわらず揺れと揺れ戻しを繰り返すなか、僕らの勇敢な水夫たちは、一番大きな帆を絞ることに成功しました。風はそのとき、再び勢いを増してきていたのですが、僕らの方も、少しばかり体制を立て直すことができました。そして、2分後、12枚の帆が絞られ、風はとうとう、ロープに当たってひゅうひゅうと鳴りながらも、我々を不安にさせることをやめたのです。あとは船内に浸入した海水でした。ポンプだ、かかれ!・・・積み荷の羊毛包みが燃えているぞ、火事だ!・・・そのときは、地獄すらこれほど恐ろしくはあるまいと思ったほどでした。僕はといえば、無益な苦痛を避けるための備えをしていました。鉛玉の入った袋のように、泳がずに真っ直ぐ海底に沈んでいけるよう、自分の両腕を外套の下で締め上げ、動かせないようにしていたのです。いまは、この試練をくぐり抜け、死は、間近で見るよりも、遠くから見る方が、いっそう厭わしく感じられるものだということを、身をもって知ることができたことを、満足に思っています。実際、夜の嵐も、はじめのうちこそ、身体の震えを抑える術(すべ)は、いかようにしても見出せなかっただろうと思いますが、怒り狂った海が、あたかも獲物を呑み込む前に口から出した泡で相手を覆うという、アメリカ大陸のあの巨大な蛇(ボア・コンストリクター)のように、僕らを白い泡で覆いに来るのを見るに至って、もはや全員万事休すと観念したときには、すべての出来事を、ただ奇妙な無関心をもって眺めるだけになっていました。あくる日には、僕は、目の前で泡を立てていた、あの幾つもの白い波の谷は、きっと苦痛のない眠りへと誘(いざな)うため、僕を優しく揺すってくれていたのに違いあるまいと、考えていました。―――リヴォルノに着いた後、乗船客のうち6人が、同じホテルに泊まりました。翌朝、あの勇敢な水夫たちが、僕らを訪ねて来ました。彼らは、海上での危難を危うく逃れた喜びを僕らと分かちあい、僕らの前途を祝福すべく、やって来てくれたのでした。僕らは、幾ばくかのお金を彼らに渡そうとしたのですが、彼らは、そのような下心をもって訪ねて来たと思って欲しくはないからと言って、受け取ろうとしませんでした。
人間とは、なんと哀れな存在なのでしょう!こんな仕事に就くなんて!板張りの牢獄のような場所を住処(すみか)にし、夜、怒り狂った自然が猛威を振るう中、揺れるマストによじ登り、クモの巣から釣り下がった蜘蛛たちのように、底知れぬ深みの上に突き出た帆桁にしがみついて帆を操る、そんな仕事を彼らはただ、生タラで味を付けただけの、木のように固いビスケットと、少しばかりのワインを口にするためだけに、自らの稼業とせねばならないのです。そのことを話すと(彼らはみな、フランス語を上手に話しました)、彼らは、こう応えました。「いったいどうしろというのです?・・・これでも、カラブリアで山賊をしたり、飢え死にしたりするよりは、ずっとましなのです。」
イタリアに上陸して以来、僕は、というより、僕らはみな、うるさく警察につきまとわれています。出入りのたび、所持品を改められ、どこかひとつの町に滞在しようとするたび、ひどくたくさんの手続を履(ふ)まされるのです。当地[フィレンツェ]に着いてから、それまでの仲間とは別行動になり、ひどくはっきりしない状態に置かれたままになっています。イタリアの革命は、奔流のように拡大しています。フィレンツェの教皇大使[ローマ教皇庁から外国政府に派遣された使節]は、僕の旅券に、ローマに入るための査証を与えることを拒否しました。僕は直ちに在ローマ・フランス・アカデミーに手紙を書きました。ヴェルネ[同アカデミーの館長]からの返事は、僕が確実に教皇領に入れるよう、必要な手立てを講じたという内容で、それとともに、彼は、僕の2月分の給費175フランをフィレンツェで受け取れる証書を送ってくれました。そうしているうちにも、フランス人はみな、ローマから逃げ出しています。それなのに、僕は、そんな場所に身を置くことを余儀なくされています。というのも、いつもくどくどと同じことばかり言っている、40人の仕来(しきた)りの大祭司たち[フランス学士院のこと]が、僕は、この音楽の下水溝[=ローマ]での滞在を終えないうちは、決して一人前になれない、と決めたからなのです。
当地[フィレンツェ]で、イタリアの若手作曲家、ベリーニが書いた、シェークスピアの『ロメオとジュリエット』を題材にした新作オペラを観ました。醜悪でばかばかしく、聴くに耐えない駄作でした。作者は、愚かにも、夜、寝ている間に、シェークスピアの亡霊が[不出来な作品を作ったことについて]自分を責めに現われることを、畏(おそ)れなかったとみえます。その罰に優に値する代物です。それにも関わらず、「高名なマエストロ、ベリーニの作」などという、臆面もない広告を出しているのです!とはいえ、フィレンツェの聴衆[の趣味]については、正当な評価を与えなければなりません。その晩が初演日だったのですが、彼らは、賞賛すべき冷やかさをもってこの作品を迎えました。喝采のひとつすら起きなかったのです。劇場には大公が臨席していましたが、彼は、幾度もの熱烈な歓呼をもって迎えられており、市民たちに大いに敬愛されているようにみえました。
パリで知り合ったデンマーク人の若い建築家に、当地で再会しました。デンマーク人!・・・シェークスピアのイメージが甦(よみがえ)ります[『ハムレット』の舞台は、デンマークのエルシノア城]。僕らは、エルシノアやハムレットの城の話をしました。・・・ああ!ローマのハムレット!いかにイタリアにいようとも、僕の心は、暗く、陰鬱に曇っています[『ハムレット』冒頭、真夜中のエルシノア城の、暗く不吉なイメージが喚起されている]。僕の人生は、パリにあるのです。いかようにも説明しがたい苦しみを、僕は味わっています。昼も、夜も、少しも、ただのひとときですら、胸に手を当て、まだ心臓が鼓動していることを、嬉しく思うことができないのです。僕は、あのときの塩水を、懐かしくさえ思っています。
あと3日も経たないと、僕は、ローマに発てません[ Je n’ai d’occasion pour Rome que dans trois jours ; ]。いったいどれくらいの期間、ヴェルネは僕をローマに留め置くつもりなのかが知りたくて、じりじりしています。 その上、カミーユの手紙が、全然来ないのです!ローマに届いたら、こちら[フィレンツェ]に転送してくれるよう、頼んであるのですが。
僕の宛先は、次のとおりです。
ローマ、メディチ館[『ヴィラ・メディチ』]、フランス・アカデミー滞在研究員。
国境までの郵便料金を払っていただく必要があると思います。
さようなら、大切なお父さん、できるだけ早く、そちらの様子を知らせてください。皆を抱擁します。
H.B.[書簡全集211]

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