手紙セレクション / Selected Letters / 1831年10月2日(27歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

ナポリ、ポジリポの丘発、1831年10月2日
家族宛

昨晩、ナポリに着き、今日は、ポジリポに丘にあるヴェルギリウスの墓で、この手紙を書いている。当地に来て、最初に訪れた場所だ。この古い墓は、葡萄畑の中にあるが、僕は、ある老婦人に土地の所有者の家まで案内してもらって、ついにこの場所に来ることができた。いまは、黄金色の葡萄を食べながら、穏やかに揺れる海を見渡している。海を覆う靄(もや)の向こうに、間もなく身を落ち着けるカプリ島があるのが、はっきりと分かる。子供の頃、『アエネーイス』の作者[ヴェルギリウス]が僕に与えてくれた、最初の詩的な感動のことを思い出し、夢想に浸っている。ここに来るまでの旅は、とても面白いものだった。有名なカプアの遺跡を訪ねた。ハンニバル[前3〜2世紀、地中海の覇権をめぐりローマと争った北アフリカの古代都市、カルタゴの名将。アルプスを越えて北イタリアに侵入し、ローマを脅(おびや)かした。]の軍勢にとって、運命の分れ目になった場所だ[ローマ南方の古代都市カプアは、カルタゴ側に与したため、ローマ軍に包囲された。ハンニバルはその解放を目指したが、カプアは、ローマに投降した。]モンテ・カッシーノの山に登って、名高いベネディクト会の修道院を訪ね、大いに驚いた。シャルトリューズの修道院よりも大きな建造物で、他のいかなる宗教施設も及ばぬほど贅沢に飾られている。聖ベネディクト、聖スコラスティカ兄妹の亡骸が一つの墓に安置されているこの教会は、壮麗さの点では、ローマのサン・ピエトロ寺院をさえ、凌駕している。訪問者は、瑪瑙(めのう)、斑岩(はんがん)、稀少で高価な大理石、金、雪花石膏(せっかせっこう/アラバスタ―)、銅、フレスコ画による装飾を見て歩くが、何もない山の上に、これだけの贅沢品が集まっていること自体が、イタリアの人たちがこの双子の聖人に抱いている心からの崇敬の念と、カトリックの教えが中世にふるっていた権勢の大きさを物語っている。僕は既に、スビアコの山中で、この兄妹が彼らの修道会を興した2つの修道院を訪ねていたから、この地で記念の品々に囲まれて眠っている彼らを再び見出すことができて、大いに満足した。カセルタ[地名]では、ナポリ王の宮殿も見た。それらは、巨大で、堂々としていた。しかし、それでも、何ものも、今、僕の眼前に広がっている、この湾と、その周りの風景を忘れさせることはできないし、これらの風景と肩を並べることもできないだろう。それは、次のようなものだ。噴煙を上げるヴェスヴィオ火山。無数の小舟が行き来している、この海。一際目立つのが、コレラ患者を早期に発見しようと警戒している、港の警備艇だ。通りを足早に行き交う、種々雑多な人々。山の畑には、見事なポプラの木が植えられているが、それらは、驚くほど豊かに実った葡萄で覆われている。葡萄の枝は、美しいポプラの樹の支えがないと、たわわに実った房の重さで、折れてしまうのだろう。山の上では、赤と金の制服に身を包んだ兵士たちの群れが、一方では華やかな軍楽を奏し、他方では射撃の訓練をしている。アカシア、ザクロ、イチジク、オレンジの木立もある。金めっきを施した銅のブレードで飾られた緑色のコルセットを付け、赤いスカーフを頭に巻いた、島の農家の女性たち。漁師たちが、集団で網を引き揚げている。貝殻を投げ合いながら、水の中や砂の上を裸で走り回る子どもたち。ああ、何という生き方!・・・何という活気!何といきいきと輝く喧騒!これらのすべてが、ローマと、その眠りこけた住人たちと、そして、丸裸で不毛で人気(ひとけ)のないその大地と、どれほど違っていることか!あれほどに厳しくもの悲しい、ローマ郊外の風景と、ここナポリの平野の景色との対比は、過去と現在との、死と生との、沈黙と、協和し心地よく響く音とのそれだ。

10月5日

Eh ! eh ! Eccellenza ! Eccellenza ! Quatro Carlini. No, tre carlini, e un bono sommaro, vedete, bianco e polito—No, no,—Oh ! celenza, due Carlini, lo mio somarro è piu forte.
—No ancora una volta, andaro a piede—alora celenza, per uno carlino.—Per niente, corpo di Baco, andate al diavolo.—Buon viaggio, celenza ».
[イタリア語。「もし、閣下!4カルリーニ(カルリーノ貨4枚)だよ。」「ノー」「3カロリーニでいいよ。良いソマロ(ロバ)だ。ほれ、このとおり、白くて綺麗だよ。」「ノー、ノー」「ああ、閣下!2カルリーニでいいよ。うちのソマロは、他所のより力持ちだよ。」「ノー。もう一回言うが、僕は歩くんだ。」「なら、1カルリーノでいいよ。」「ノーと言ったらノーだ、えいもう、うるさいな、あっちへ行け!」「よいお旅を、閣下。」]
こうして僕は、彼らの「閣下(チェレンツァ[正しくは「エチェレンツァ」と発音・表記すべきところ、話者の訛りをまね、このように表記したもの。])」がソマロ(ロバ)に乗ることを断固として薦めるレジーナの農民たちの呼び声に背を向け、歩いてヴェスヴィオ山を目指すことにした。今夜、へとへとになって帰ってきたが、この骨折りをしたことに悔いはない。ローマを出発したときから、フランス人2人、プロイセン人1人、ロシア人1人と連れ立って行動している。僕とロシア人の2人は、隠修士の庵[ chez l’hermite 。よく似た名の場所(「隠遁者の草庵」)が、1787年【3月2日】のゲーテの手記(3月2日、ヴェスビオ登山)に登場する。『イタリア紀行(中)』岩波文庫、相良守峯訳。]に着いたところで、美味しい水と強いラクリマ・クリスティ[ヴェスビオ山麓で栽培される白葡萄で造ったワイン]を飲み、少しばかり元気を取り戻した。他の3人は、ロバに乗っていたから、少しも疲れを感じていなかった。僕らはそこから、巨大な円錐丘( cône )のふもとを囲んでいる、溶岩の海に乗り出した。本当に恐ろしい場所で、地獄の道でさえ、これ以上におぞましくはあるまいと思ったほどだ。沈む夕日を見るために時折振り返りつつ、辛抱強く坂を登っていると、谷間に響き渡る、甲高い女たちの声が聞こえてきた。フランス人のご婦人方が、ラ・マルセイエーズを歌っているのだった。政治だの愛国心だのといったことは、ここではひどく場違いで、眼前の風景とも、あまりに不調和だったので、様々な不愉快な考えがごた混ぜになって浮かんできて、ある種の眩暈を感じたほどだ。漆黒の闇の中、僕らはとうとう、大クレーターに辿り着いた。今日は、ほとんど縁のところまで、溶岩で一杯だったが、2か月前には、深さが500ピエ[およそ150メートル]もあったという。僕らは、焼けるように熱いパンの皮のような地表を[ sur ces croûtes brûlantes ]、静止した赤い溶岩が6プース[15センチ余り]ばかり下に見える裂け目を跨ぎながら進んだ。そして、かなり大きな溶岩流に到達したが、それは、ほとんど息ができないほど、強い硫黄臭を放っていた。それでも、僕らはかなりの時間それに耐え、熱さに顔を背けながら、杖の先で、燃える液体の塊を、いくつか採取した。時々、クレーターの中央から噴火の閃光が放出され、僕らはそれで、実に美しいこの景色の全体を見渡すことができた。爆発の後、途方もない高所から降ってくる、融解した赤い岩石の雨ほど美しいものはない。それは、円錐丘の外側を転げると、消えずにそこで止まり、動かなくなる。火山の巨大な首のまわりで燃えるように輝く、ネックレスのように。大クレーターを出ると、右手に漁師たちの灯火がみえた。驚くほどの数の漁火が、草原の発光生物の群れのように[ comme une assemblée de vers-luisants dans une prairie ]、海を煌々と照らしていた。数日前、この山の中腹に腫物(はれもの)のような火口ができ、そこを起点に、その名どおりの溶岩の「川」が、4つに分岐して、流れ出ている。これらの燃える奔流は、ポンペイの方向に進んでいる。ヴェスヴィオ火山は、この古代都市が完全に整地されるのを待ってから、それを再び飲み込もうとしているようだ。ああ!まさしくこれは、『ファウスト』のブロッケン山の場面そのものだ。踊る火の粉や蛇状の炎、ぜいぜいと喘ぐような凄まじい音、真っ暗闇の中の眩(まばゆ)い閃光。上方の声、下方の声、谷底の声、山頂の声、遠くの声、近くの声。揺れる松明(たいまつ)、星月夜。水上の火、地上の火、空中の火。魔女たちにすら、事欠くことはなかった。というのも、件のフランス女性たちなら、そのけたたましい爆笑、甲高い声、騒々しいおしゃべり、モード店員のような振る舞い[ leur style de modistes ](これ以上の説明は不要だろう[pour ne rien dire de plus ] )をもって、その役を見事に務めることができたに違いないからだ。

この遠足による疲労困憊状態から回復したら、すぐにポンペイに向け出発するつもりだ。知り合いのフランス人の芸術家たちに、そこで会うことになっている。

今朝、カフェで聞いた話だが、シチリア島付近の海でストロンボリ島からも遠くないところに出来た新しい火山が、2、3ヶ月前、活動をやめ、元来た場所である海に呑み込まれてしまったという。何とも恐ろしい戦いが起きたに相違ない!火山と海とが争ったのだから。

10月7日

ポンペイに行くのは月曜だが、今日は、もう、ナポリに留まっていられなくなった。それで今朝、僕は旅の仲間たちに暇乞いをして、ニシダ島に向かった。ああ、何という1日だったことか!・・・僕は、すっかり物悲しい気分で起床した。幸福というものをまだ信じていて、詩のプリズムを通して人生を見、フロリアンの小説に涙し、黒い岩の上に建つ古い塔に思考力を奪われていた、14歳の頃・・・その頃味わっていたような、小説的な悲哀に満ちた気分で[ Je me suis levé dans une disposition tout à fait mélancolique, plein de cette tristesse romanesque qu’on éprouve à quatorze ans, lorsqu’on croit encore au bonheur, qu’on volt la vie à travers un prisme poètique, qu’on pleure aux romans de Florian et qu’une vieille tour sur un rocher noir fait partir la tète. ]。少しばかり疲れた状態で、バイアエ湾に着いた。皇帝ネロが母親アグリッピナに「ある娯楽( une partie de plaisir )」を用意した場所だ。もっとも、彼女は泳いで難を逃れ、彼女の有名な息子を大いに失望させたのだが。ここはまた、ウェルギリウスが[その叙事詩『アエネーイス』で、主人公であるトロイアの英雄]エネアスを、疲弊した彼の艦隊とともに着岸、上陸させた場所でもある。その海岸で、僕は、1艘の小舟と4人の漕ぎ手を雇い上げた。小舟は、オリーブや、オレンジ、イチジク、葡萄等の果樹で(高所は緑、赤、黄金色の風変わりな物影で)覆われた魅力的な小島、ニシダに、僕を速やかに運んでくれた。僕は、島を遠方に見ながら、僕の『アイルランド歌曲集』の[第1曲]『日没』の一節、「黄金の帳(とばり)が隠そうとしている、幸福の島へ」を思い浮かべていた[全集CD8(1)、YouTube : le coucher du soleil berlioz 歌詞対訳:当館2号棟第3展示室]。とはいえ、僕は、何らかの無残な幻滅を味わうことも、覚悟していた。だから、山頂に着き、そこにあるのが監獄〜ガレー船を漕ぐ苦役を科された囚人たちを収容するための〜であることを知り、牧人たちの歌声の代わりに、鎖の音や徒刑囚の叫びを聞くことになったときも、さして驚きはしなかった。僕は、ナポリからバイアエに来る間に、作品を一つ、作りはじめていた。島への旅行計画に由来する、その主たる旋律[ l’idée principale ]を、僕は、かなり気に入っていた。監獄と徒刑囚のせいで、少しばかり興を醒まされてしまったものの、僕の小さな音楽の詩を、はじめ考えていたとおりに再び取り上げ、仕上げることができるくらいの元気は、取り戻せると思っている。風が強くなってきたので、漕ぎ手の一人が呼びに来て、僕は、帰路に就くことにした。既に波が高くなっていて、帆も索具もない僕らの小舟は、波に揺られる一枚の落ち葉同然の状態になったが、無事、対岸に帰り着くことができた。僕は、4人のトリトンたち[海神ポセイドンの息子たち。漕ぎ手を務めた少年らのことを、ユーモラスに呼んだもの。]にマカロニをご馳走することにした。彼らは歓声を上げてこの申し出を受け入れ、早速、海辺から1マイルも離れたポプラの林の中の藁葺きの家に、僕を案内した。彼らは、その家の籐とトウモロコシ藁(わら)の天幕の下で、1皿どころか炊事鍋1杯分のマカロニを、壺4杯のワインと一緒に、平らげた。僕は、彼らの一人が行ったことがあるという、エルバ島のことや、ナポレオンのこと、彼らの不運な国王、ジョアシャン・ミュラ[ナポレオンの騎兵指揮官として活躍し、ナポレオンの妹と結婚、元帥に昇任。その後、ナポリ王位を与えられた。]のこと、彼が着手したナポリ王国の美化事業のこと、彼の武勲と悲劇的な最後のこと等々の話題について、出来る限り、彼らの相手をした[の意か。je leur ai tenu tête comme j’ai pu, tout en discourant de l’île d’Elbe, … ]その後、たくさんの大げさな別れの言葉、それと同じくらいたくさんの「閣下(チェレンツァ)」の呼び掛けに送られて、その場所を後にし、二度目のポジリポの丘越えに向かった。丘の頂上に着き、ミゼヌ岬[ le cap Misène ]の背後に日が沈む様子を眺めるうちに、僕は、名状しがたい感情を経験した。崇高さで人を打ちのめす、言葉に表せないこの景色。足下に聞こえる潮騒。先刻訪れた魅力的な島の姿とその優美な名[ニシダ]。これらのことが、僕を渦巻く記憶の只中に置いた。独りだったことが、感情の激しさを一層強めた。ティンブリオ、ニシダ、ファビアン、ブランシュ、ガラテ[いずれも、セルバンテスの牧歌小説、『ラ・ガラテア』(原作スペイン語)の、フランスの詩人・作家フロリアン(1755-94)によるフランス語翻案、『ガラテ』(1783)の登場人物。ファビアン、ブランシュ、ガラテは、それぞれ、セルバンテスによる原作のシレリオ、ブランカ、ガラテアに相当する。]、ミゲル・セルバンテス[ベルリオーズ は、セルバンテスの名、「ミゲル」を、フランス語名(「ミシェル」)で表記している]。エネアス、ミセーヌス、パリヌールス、若きイウルス[エネアスの子、アスカニウスの別名]、ディド、ラウィーニア、アマータ、善き王ラティーヌス、あまりにも誇り高く、あまりにも気の毒なトゥルヌス、ニーススとエウリュアルス、メゼンティウス[エネアス以下は、いずれもローマの叙事詩『アエネーイス』の登場人物]、ウェルギリウス[『アエネーイス』の作者]。彼らの栄光は、すべての栄光がそうであるように、そして僕らのこのちっぽけな惑星[地球のこと]の王たる星[太陽のこと]の輝きもまたそうであるように、次第に陰っていき、遂には消失し、忘れ去られていくのだ・・・これらは、もう久しく、僕の心に生じていなかった思いだった[ Il y avait si longtemps que ces idées là ne s’étaient présentées à mon esprit… ]・・・ああ、天賦の才の持つ力よ!・・・何世紀もの時を経て、古代ローマの詩人[ウェルギリウス]に歌われた場所を見たことと、島の名前とセルヴァンテスのヒロインの名前[ニシダ]が偶然にも一致したことが、滂沱の涙を、僕に流させた。

10月8日

君たちにポンペイのことを話す前に、この手紙を終えなければならなくなった。その話題については、別の機会に書くことにしよう。ローマから手紙を書く時には、君たちからの知らせも受け取っているだろうと思う。出発の10日前、お祖父さん[メランに住む、母方の祖父、ニコラ・マルミオンのこと]に手紙を書いた。残念ながら、僕は、程なくローマに戻らなければならないようだ。この旅行は費用が嵩むので、パエストゥム、サレルノ、アマルフィ、場合によってはイスキア島やプローチダすら、見ずに帰らざるを得ないかもしれない。ポンペイでは、素晴らしい邸宅が新たに発見されたところだ。昨日はそこをナポリ国王が訪ねた。今朝は、ヘルクラネウムのヴェスヴィオ火山の灰の中から見つかった古代の楽器の博物館を見た。2対の小さなシンバルを試奏した。管楽器は、どれも完全ではなかった。ローマに戻ったら、これらすべてのことについて、君たちに話すつもりだ。

H.B .[書簡全集241]

訳注/この手紙について
原本がナンシー・ベルリオーズの子孫(ルブル家)に伝わっている[書簡全集1巻493頁]ことから、彼女が名宛人であったものと推測されるが、内容からは、家族全員に読まれることを想定して書かれたものと考えられる。(了) 

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