手紙セレクション / Selected Letters / 1825年12月12日(22歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1825年12月12日
ナンシー・ベルリオーズ宛

君の手紙は、ひどく間の悪いときに届いた。こんな言い方に、気を悪くせず、続きを読んでほしい。
僕は今日、僕がしばしば襲われる、嵐のような状態のさ中にいる。頭の中がいろいろなイデ[「アイディア」又は「楽想」のこと]でいっぱいになり、それらが互いにぶつかり合い、もつれ合い、僕の血をたぎらせ、要するに、僕を普通でなくあおり立てている。僕はこの状態を君にうまく説明することはできないが、どういうときにそれが起きるのかを知らせることはできる。このような症状が出るようになったのは、音楽に本気で関わるようになってからのことだ(つまり、僕が特定のイデ[複数]について熟考し、それらを大いに重視することができるようになってから、ということ)。症状は、普通、電光石火のような瞬時の考えによって、引き起こされる。僕はたちまち真っ赤になり、感受性が非常に高まり、イマジネーションが沸き立った状態に身を任せるようになる。たとえば次のように。僕は、人間についてのある見方に対する深い賞賛の気持ちでいっぱいになり、それを誰かと共有したくてたまらなくなる。僕は駆け出す、僕は飛ぶ。・・・僕は、僕のことを理解してくれない冷たい人や、僕とは反対の意見の持ち主に出会う。あるいは、理解されない真実だとか、取るに足らぬものが勝ち誇り、それをどうすることもできないことだとか、善なるもの、光輝あるものが正当な評価を受けずにいる様子だとか、それに何よりも、勝利してしかるべきものが正しく勝利する様子などに。そう、人並み外れた創造力(génie)、あるいは優れた才能(talent)ということでもよいのだが、そういったものが輝かしく敬意を表されるのを見ることほど、僕の心を深く、激しく動かすものはない。それから僕は突然、自らを省み、自分もまたいつかはそういうものに値するようになるだろうと考え、また、今だって、気高く、情熱的で、活力があり、真実で、要するに、美しいものを創り出すことができると考える(原注)。
僕が名前を知られていたなら、状況は全く違っているに違いない。だが、考えてみれば分かることだが、そういう恵まれた立場になるまでには、どうしても時間が必要だ。僕には羨ましく思われる境遇にいる人たちも、僕がいま経験しているような試練をくぐり、僕と同じ思いを経験してきているのだ。つまり、僕はあたかも、仲間が次々に解放されるのを目の当たりにして、次は自分の番だと知りながら、それがいつになるのか分からない奴隷のように、辛く、ほとんど耐え難い状態に置かれている。
情熱を感じるテーマの在り処から、自分が遠く隔たった場所に置かれているときに、たびたび起き、そして起きる度に激しさを増している危機の、それが主な原因だ。なぜなら、事実を確かめることが出来ないことが、必然的に幻想あるいは真実の誇張をもたらすからだ。
愛しい妹よ、こういう言い方に、君は驚くかもしれない。だが、君は僕という人間を知らない。僕の胸は、多くの人にとって未知の、また、それを経験したことのない人には理解できない情熱の、炉のようなものなのだ。君の手紙が間の悪いときに届いたと書いたけれど、実際、君の知らせは、僕の心を落ち着かせてくれる内容ではなかった。まず、ロシェさんが亡くなったことの報せと、エドゥアールに手紙を書くのを忘れないようにとの君の助言だが、愛しい妹よ、君は、どんなに軽い関係の知り合いでも当然果たすべき務めを、僕が怠るとでも思ったのだろうか?そうでなければ、君は、どこかの人たちと一緒に、僕のエドゥアールへの友情が、彼に最初に魅力を感じたときに較べれば、はっきりと態度に表わすものではなくなっているからといって、それが本当に衰えてしまっているとでも、思い込んでいるのだろうか?どちらの場合も、君は、まったく間違っている。
借財については、一定の点をはっきりさせていなかったことが、お父さんを非常に苦しめたということが、僕にもよく分かる。それは、僕らが似ている点の一つだ。いまから説明して、疑いを払拭しよう。僕は、友人と呼んでよい、パリのある若者『回想録』8章に登場するド・ポンスのこと]に、300フランの借金をしている。この借財をした理由と経緯は、次のとおりだ。僕が音楽の勉強を断念しなければならない時期として、お父さんが決めた期限が近づいていた。この状況を乗り切るには、成功を収めるしかなかった。その成功は、僕のミサ曲がきちんと演奏されれば、確実に得られるはずだった。ミサ曲を演奏する予定の祝日は、間近に迫っていた。パート譜も全部仕上がり、必要な奏者も概ね確保できたと思っていたところ、思いもよらぬ不幸な巡り合わせで、僕の作品の演奏予定のまさにその日、国王がサン・クルーに出掛ける予定だと分かった。このことのせいで、僕は、王室礼拝堂の、僕が知っていて、それゆえ頼りになる奏者たちを、みな取り上げられてしまった。そのとき礼拝堂の監督だったケルビーニ[王室礼拝堂はケルビーニとル・シュウールの共同監督だったから、「当番の監督だった」の意と思われる]は、ただ一人の奏者の参加免除すら、僕のために出してくれるような人ではなかった。サン・ロック教会の主任司祭は、祝祭を延期するつもりはなかった。知らない演奏家たちに無償演奏を依頼する危険を冒すことはできなかった。そうした人たちは、最初のときと同じように約束を違えただろうし、再び失敗すれば、僕は、どこからみても救いようのない破滅に陥っていただろう。まったくもって進退窮まっていたとき、僕の窮状をみたある友人が、こう声をかけてくれた。「おい君、僕は300フランほど自由にできるから、受け取ってくれたまえ。貴君はそれを使って、コーラスとオーケストラのどうしても必要な部分を雇い上げればよい。そうして僕らが大いに奔走し、ヴァレンティノ氏や、ル・シュウール先生の庇護を最大限活用すれば、残りの連中も皆やって来るさ。この金のことは、ご両親には言わなくていい。自分には必要のない金だから、返せるようになったら返してくれればよい。」自分で返せる額だったこと、事が急を要していたことから、僕は、申し出を受け入れた。鐙(あぶみ)に足をかけるということがどのようなことなのか、それがある不幸な一事情のために思いがけず遮られてしまったと気付くことがどのようなものかは、想像がつかないだろう!賭けてもよいが、同じ状況で、これ以外の行動をとる若者は、1人もいないだろう。もしアルフォンスが、僕の稼ぎと節約の成果が返済に十分になるまで待ってくれていられたら、このことを話すつもりはまったくなかったし、アルフォンスが楽器の借り上げ費用として貸してくれ、お父さんが親切にも返済してくれた80フランも、問題にならなかったところなのだが、彼がそうできなかったので、僕も、別の行動をとらざるを得なくなったという次第だ。お父さんが、僕が今回置かれた状況、そして、もう二度と陥るはずのない状況の、やむを得ない結果だったこの行動を、過ちとみなさないでくれることを、厚かましくも、希望しています。
愛しい妹よ、君を抱擁します。
君の兄で、友。
H.ベルリオーズ

原注/君も気付いていると思うが、僕は少しばかりジャンリス夫人風[18-19世紀の教育家、著述家]に書いている。だが、僕が自分をここまで高く評価するのには、次のような理由がある。僕は、自分が自惚れの誘惑に屈することのないよう、誰よりも警戒している。だから、自分が書いた作品の出来が良いかどうかを知りるために、僕は、作品が仕上がったところでいったんそれを休ませ、作曲の作業が僕の中枢に常時引き起こしていた興奮が引くのを待つことにしている。そして、自分が完全に冷静になったところで、その作品を、あたかもそれが自分が作ったものではないかのように、読むのだ。そうして、もし、それが僕自身の賞賛を改めて引き起こすならば、僕は、その作品がそれを聴くのに必要な感受性と素養を備えたすべての人の賞賛に値するとの信念を、維持することにする訳だ。(了)

訳注/演奏にかかる費用のことなど
ベルリオーズが生きた時代、作曲家が自己の作品を自ら聴き、あるいは人に聴かせる方法は、実演以外になく、しかも、その実行に伴う困難は、甚だ大きかった。とりわけ、ベルリオーズが生涯にわたり志向した、大規模な管弦楽(及び声楽)作品(彼はサロン向けの音楽には、一切関心を持たなかった)の場合、会場の確保、奏者の雇い上げ、楽器、譜面台等の借り上げ、膨大な分量のパート譜の筆写等に、多大の労力とお金が必要となった。公演に伴うリスクもたいへん大きく、例えば、当時、パリの街路には舗装がなく、荒天時には道がひどくぬかるむのが常だったから、当日雨が降るだけでも、客足が遠のき、演奏会は容易に台無しになった。
しかし、こうした費用やリスクを個人で負うことなく、自己の作品を劇場等の負担で演奏してもらえる作曲家は、ごく少数の成功者に限られており、無名の新人には、もとより、そのような機会はなかった。
ベルリオーズは、1821年にパリに出てから、1825年7月、『荘厳ミサ曲』初演に至るまでの約4年の間にも、恩師ル・シュウールの指導の下、『紅海を渡る』、『ビヴァリー』(いずれも逸失)等、幾つかの大規模作品を書いている。しかし、それらを演奏する機会は得られず、総譜を仕上げた後は、彼の言葉によれば、それを「ただ自分でもっているだけ」だった。このような状態に留まっている限り、自己の作品のもつ力を多くの人に知ってもらうことはできないし、それどころか、そもそも作品が本当に自分の思い描いているとおりの音で鳴るのかということについてすら、確信が持てないだろうということは、容易に想像がつく。
その一方、彼は、3度目の帰省(1824年)の際、パリで作曲の修行を続けることを父親に認めてもらうかわりに、1年以内に成功を収めることができなかった場合には、潔く音楽の道を諦めることを、約束させられていた。
上記の手紙は、こうした文脈のなかで読む必要がある。サン・ロック教会からのミサ曲作曲の委嘱は、ベルリオーズにとって、類稀(たぐいまれ)な、言葉どおり千載一遇の機会であったばかりでなく、その演奏の成否には、家族との関係において、その先も作曲家の道を歩み続けることができるか否かという、死活的に重要な問題がかかっていた。それゆえ、いかなる犠牲を払ってでも、機会をものにし、かつ、成功を収める必要があったのである。なお、付言すれば、わずか20歳の若者が、このような大曲の委嘱を受けたこと自体、彼がすでに、若手の作曲家として相当の注目を受けていたことを物語っている。
さて、『荘厳ミサ曲』の演奏のため、エクトルがド・ポンスから借りたお金の額は、実際には、手紙の中で報告されている300フラン(今日の30万円程度に当たると考えられる。※)ではなく、その4倍に当たる、1200フラン(約120万円)であった(『回想録』8章参照)。したがって、上記の手紙を読んだベルリオーズ医師は、息子が報告した借財の全額を、直ちに本人に送金したけれども(ケアンズ1部9章)、それは、実際の負債のごく一部でしかなかった。それゆえ、エクトルは、その後も依然として、各種のアルバイトと節約に精励することで、残債の返済に努めなければならなかった。『回想録』11章に語られているとおり、この借財は、その後、残額が600フランになったところで、ド・ポンスからの手紙で真相を知った医師が、同額を息子に送り、完済に至る(1826年夏)。だが、それは、以後、仕送りを月50フラン(約5万円)に減じる旨の父親の通告を伴っていた(ケアンズ10章。後出1826年7月のエドゥアール・ロシェへの手紙。)。また、医師は、その後間もなく、息子のローマ賞選抜失格を知り、更なる減額を言い渡す(ケアンズ同章。後出同年9月のロシェールへの手紙。)。
こうした状況が続いたこともあり、ベルリオーズが次に自らの新作の演奏を聴く機会を得るのは、1828年5月の演奏会(『回想録』19章)に待たねばならない。ミサ曲の初演から更に約3年もの間、彼は再び、作品を書くだけで、それを「ただもっている」ことを余儀なくされる(ただし、ミサ曲については、1827年11月に再演、指揮の機会を得た。後出同年同月のアンベール・フェランへの手紙。)。この間、彼は、パリの劇場に自らの作品(オペラ『秘密裁判官』等)を取り上げてもらうべく手を尽くすが、その努力は、結局、実を結ばなかった。
なお、どの社会でも起きることだが、この時代のパリの音楽界では、先んじて成功を収めた大家たちが、演奏会場、奏者、経費等を独占的に差配するエスタブリッシュメントを形成しており、彼らの中には、若手の参入を自らの地位に対する脅威と受け止める向きもあったようである。この時期、彼は、そのことをも、身をもって経験する。また、当時のフランス(パリ)では、劇場の設置には政府の許可が必要とされ、各劇場が上演してよい作品のジャンルについても、フランスの作家の作品か外国の作家の作品か、科白が言葉で話される作品か歌で歌われる作品か、新作か否かなどの区分による、厳格な割り当て制が敷かれていた。こうした規制も、音楽界の既得権益を保護し、若手作曲家の参入を困難にする働きをしていたのである。

※「バルザック『人間喜劇』セレクション」(全13巻・別巻2巻、鹿島茂・山田登世子・大矢タカヤス責任編集、藤原書店、1999−2001年)巻末資料「19世紀の換算レート」(1フラン=約千円とする)によった。

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