手紙セレクション / Selected Letters / 1824年8月又は9月(20歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1824年8月又は9月
叔父ヴィクトル・ベルリオーズ宛

大切な叔父さん、
お手紙を書くのがこれほど遅れてしまったのは、義務の懈怠、失念からではなく、叔父さんがお怒りになっていることが分かっていたので、書く勇気が持てなかったからです。自分の[パリへの]出発をどう弁明すればよいか、分かりませんでした。それを秘密にしておかねばならなかった理由[パリ帰還に母親が反対していたこと]は、きっと父が後で説明してくれたと思います。父がその優しさから下してくれた新たな決断[息子のパリ帰還を認めること]のことを、叔父さんにお知らせできないままお別れするのは、とても心苦しいことでしたし、叔父さんたちも反対していて、家族にも大きな悲しみを与える[音楽家という]職業を選ぶことは、それにも増して辛いことでした。けれども、それをどうすることができるでしょうか?抗うことのできない運命が、否応なく、僕を駆り立てています。これ以外のどんな職業も、僕をこの上なく不幸な人間にしてしまうでしょう。その上、僕は、次のように考えているのです。我々は、芸術を通じ、社会が我々に果たすことを期待している義務を、履行することが出来るのです。我々の知識のこの分野[芸術のこと]、とりわけ音楽は、我々の精神により多くの感覚を与えることで、それ[我々の精神]を高めてくれます。そして、このような特質が、その人の真情に発したものであるからには、芸術の修養がその人を堕落させるようなことは、あり得ないのです[原文:cette partie de nos connaissances, et surtout la musique, élève l’âme en lui donnant plus de sensibilité, et cette qualité étant la source de celles du coeur, la culture des beaux arts ne peut pas dépraver l’homme.]。この分野で多少なりとも得られるかもしれない名声について付け加えるなら、立派な先生の支援と庇護もあるので、僕は、いずれ自分が頭角を顕わすことができるのではないかと思っています。この点で叔父さんが自分に同調してくれるとは思っていませんが、それでも僕は、自分がまだ叔父さんの愛情を失ってしまってはいないこと、叔父を敬慕する甥の心に、叔父さんが疑いをもたれたりはしていないことは、厚かましくはありますが、心から希望しています。
エクトル・ベルリオーズ
叔母さんとドリアク夫人[ヴィクトル叔父の義母]に宜しくお伝えください。プリュドム家の人々がお二人に宜しく伝えてくださいとのことです。(了)[書簡全集32]

訳注/エクトル3回目の帰省(1824年)の結果
先の手紙(8月31日付け)にみたとおり、医師は、いったんはエクトルのパリ帰還を認めたものの、その後、息子がアルフォンス・ロベールに残した短信の内容を知ったことを契機に、怒りにまかせた手紙をエクトルに送った。しかし、ケアンズ1部8章によれば、仕送りを止めることは、結局、しなかった。とはいえ、早くから類稀(たぐいまれ)な知性を示し、価値観、興味、関心を自らと共有していることが明らかだった最愛の長男が、家の資産や医師の職業の後継者となる道を棄て、パリで過ごす人生を選ぼうとするという成り行きは、ベルリオーズ医師に、深い失望をもたらしたようである。ケアンズ(同書同章)は、この年(1824年)10月22日のナンシーの日記を、次のとおり引用している。「父は一日中疲れて悲しそうにしている。彼は、人と交わろうとせず、私には、憂鬱な考えを楽しんでいるようにみえる。健康問題とエクトルの問題。この二つが、父の幸福を阻む、大きな暗礁になっている。」
なお、翌年末のエクトルの手紙(1825年12月12日)から、今回のパリ帰還を許すに当たり、医師が付した条件は、「当面、音楽の勉強を続けることは認めるが、1年以内に家族を納得させるに足る成功を収めることができなかった場合は、音楽の道を諦め、他の職業に就くこと」というものだったことが分かる(今回のエクトルのパリ帰還が1824年7月だった一方、上記の手紙が、翌25年7月のミサ曲の演奏は、父親が決めた期限の到来が迫る中、行われたとしていることから、与えられた猶予期間が、1年だったことが分かる。なお、「猶予期間」のことは、『回想録』10章にも語られている)。

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