手紙セレクション / Selected Letters / 1822年2月20日(18歳)

凡例:緑字は訳注

パリ、1822年2月20日
妹ナンシー・ベルリオーズ宛

愛しいナンシー、謝肉祭はどう過ごしているのかい?四旬節のようにだね、きっと。謝肉祭が終わり、四旬節になったからといって、特に急な変化がある訳ではないものね。・・・こちらも同じです。ただ、ここ数日の間に、テセールさん[グルノーブル出身のベルリオーズ家の知人。パリ中心部・シテ島に住居を構えていた。]から、本人の家と、知り合いの家の、4つもの舞踏会に招かれてしまった。はじめの2つは断ったのだが、次にはわざわざ訪ねてきて、僕ら[もう一人は、同宿・従兄弟の医学生、アルフォンス・ロベール]が踊れることを白状させられてしまった。それで断りきれなくなって、四旬節前の金曜と日曜には行くと約束し、出かけた訳だ。パリの舞踏会は僕らの町のと大いに違うだろうと君は想像するかもしれないが、そんなことはない。違うのは人数で、それだけはずっと多い。僕らの舞踏会は十六人くらいだが、ここのは六十人くらいだ。部屋は大きいのだけれど、ひどく混んでいて居場所がないので、男性陣は女性陣の後ろに下がって、他の人の足を踏まないよう、いつも気を遣っていなければならなかった。服装は皆一様で、女性は白、男性は黒。楽団も、さぞ立派に違いないと思うかも知れないが、僕らの町の楽団にすら及ばないものだった。何と、ヴァイオリン2丁と縦笛1本なのだ。あろうことか、ヴァイオリン2に縦笛1!あきれ返ってしまった。おまけに、この気の毒な3人の楽士たちが、聞き覚えのあるオペラ座の色々なバレエのコントルダンスを、ほとんど夜通し演奏し続けているのだ。君にも想像がつくと思うが、あまりにも好対照だった。とうとう我慢できなくなり、僕らは、日曜の舞踏会をどうやってかわすかを思案しながら、1時に辞去した。好機は、程なくやってきた。叔父さん[母方の叔父、フェリクス・マルミオンのこと]に会いに行ったら、翌日の夕食に誘ってくれたのだ。そこで僕らはテセールさんに手紙を書き、叔父さんがたまたまパリに立ち寄ったかのように、その日の晩は彼と過ごすことを望まれてしまったと説明し、自由を得ることができた。
従兄弟のレモンと叔父さんとの夕食は、とても楽しかった。その後、僕らは、フェドー劇場[オペラ・コミック座のこと]にマルタンを聴きに行った。その晩の演し物は、『アゼミア(Azémia)』と『なぎ倒された馬車(Les voitures versées)』だった。僕は、思う存分音楽に浸り、損失を埋め合わせることができた。そうしながら、ナンシー、君のことを考えていた。君がこれを聴いたら、どれほど楽しんだことだろう。オペラ座の演し物は難しすぎて、君はたぶん、それほど面白いと思わないかも知れないが、この劇場で上演されている、ダレラックの感動的で魅惑的な音楽、ボイエルデューの陽気な音楽、女優たちの驚くような離れ業、マルタンとポンシャールの完璧な歌唱なら・・・。ああ、本当に、ダレラックのアリア「愛しい娘よ、お前の愛は(Ton amour, ô fille chérie)」は、言葉に表せないほど見事だったので、もしこれを聴いたとき、彼の彫像がそばにあったら、僕はきっと抱きしめていただろう。そのとき経験した感覚は、オペラ座の『ストラトニース』の公演で、アリア「そなたの悲しみを父に打ち明けよ(Versez tous vos chagrins dans le sein paternal)」[第3場、セレウコス王のアリア]を聴いたときのそれと、ほぼ同じものだった。でも、この音楽についてさらに語るのは、やめにしておきます・・・[以下散逸](了)[書簡全集11]

訳注 / エクトルの最初の帰省(1822年)
ベルリオーズは、1821年の秋、17歳でパリに出てから、翌1822年から4年後の1825年までの間に、計4回(つまり毎年1回)、ラ・コート・サンタンドレの生家に帰っている。初回の帰省は、上記の手紙の半年余り後の1822年9月、医学校の1年次終了後の夏休み期間中になされた。彼は、このときまでに、医学修養の傍ら、パリ音楽院図書館が一般に開放されていることを発見し、そこに通い詰めてグルックのオペラの総譜を徹底的に研究し、その上でオペラ座の『トリドのイフィジェニー』を再度聴き(8月)、その場で音楽家になる不退転の決意を固め、それを家族に手紙で知らせていたと考えられる(回想録5章)。

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