手紙セレクション / Selected Letters / 1823年3月25日(19歳)

凡例:緑字は訳注

ヴァランシエンヌ発、1823年3月25日
フェリクス・マルミオン[エクトルの母方の叔父]からナンシー・ベルリオーズ[同妹]

愛しいナンシー、エクトルの帰省のことは、つい先頃、知ったばかりだ。頼んでおいたとおり、アルフォンスが、この重要な、また、僕の期待するところでは、エクトルの改心の決め手になる進展を、知らせてくれた。そう、僕は、無分別な行動を取り続けることを、パリが彼に誘いかけている、いまの状況から、無理やり彼を引き離そうとして、不首尾に終わることのないよう、願っている[原文:Oui, j’espère qu’il ne se sera pas arraché en vain aux séductions que lui offrait Paris pour entretenir sa folie]。僕は、これほど長く自分が与えている悲しみのために、やつれ果てた父親の姿を目の当たりにすることが、彼に良い効果をもたらすことを期待している。それ以外にはもう、何もあてにすべきではない。もし彼が、自分が君たち家族に引き起こしている悲嘆(それは、極度の、と形容してよいと思う)に心を痛めもせず、強い決意のもとに今日から新生活を始める気持ちになるほどに心を動かされることもなく、父親の助言にも心を開かないのであれば、それは見棄てられた子の振る舞いであり、僕としても、そんな彼の姿を見るのは苦痛だ。[中略]君たちが喜びを持って彼と再会できるためにも、彼は、別人になり、法学を修めるとの案への彼の誠意の証(あか)しを示した上で、帰省すべきだ。[以下略][書簡全集1巻47頁注1]

訳注 / エクトルの2回目の帰省(1823年)
前年秋の初回の帰省の後、パリに戻ったエクトルと父親のベルリオーズ医師の間では、職業選択をめぐり、手紙で議論が交わされた。折しもその頃、エクトルが通っていたパリの医学校は、大学地区での騒擾事件の頻発、学内の混乱等を背景に、閉鎖されてしまった(22年11月)。また、これと前後して、エクトルは、音楽院図書館で知り合ったジェロノの紹介で、高名な作曲家、ル・シュウール(パリ音楽院作曲科教授、学士院会員、王室礼拝堂音楽監督)に会って作品を見てもらい、その私的な門下生となることを許された(回想録6章)。上記の手紙に語られている、エクトルの2度目の帰省は、こうした成り行きを背景に、ベルリオーズ医師が命じたものと考えられている(ケアンズ1部6章)。

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