ベートーヴェンの交響曲の批評研究 / Etude Critique des Symphonies de Beethoven / #5

凡例:緑字は訳注

5 ハ短調の交響曲[『運命』]

 全交響曲中、異論なく最も有名なこの作品は、我々の意見では、ベートーヴェンが、自らの途方もないイマジネーションを、他者の思惟に指針や拠り処を求めることなく、思う存分活動させた、最初の作品である。1番、2番、4番の交響曲において、彼は、多かれ少なかれすでに知られている様式(フォルム)を、自らの輝かしい又は情熱的なインスピレーションに導かれつつ、また、彼の逞しい若さがそれに付加することができるものすべてをもって、詩化(ポエティズ)し、拡張した。3番(英雄)においては、たしかに、様式がさらなる拡大傾向をみせ、思考も大いなる高みへと上昇している。だが、それでも、この偉大な芸術家[ベートーヴェンのこと]が、ずっと以前から、自らの心中の神殿に祀(まつ)っていた、神のごとき詩人たちのひとり[ホメロスのこと]の影響が、見誤りようもなく、認められる。ベートーヴェンは、ホラティウスの言葉、

Nocturnâ versate manu, versate diurnâ
[『詩論』の引用。ラテン語。「あなたがたは、夜であれ昼であれ、ギリシアの手本を
手にとって学ぶように」(岩波文庫、松本仁介・岡道雄訳)の一部。]

に忠実に、普段から、ホメロスを愛読していたし、真偽は不明だが現代のある英雄[ナポレオンのこと]に着想を得たと言われているこの壮大な音楽の叙事詩[3番のこと]においても、古典時代の叙事詩、『イーリアス』の世界の回想が、見事に美しく、だが明らかに、その役割を果たしているからである。
これに対し、ハ短調の交響曲は、ベートーヴェンの天才を、直接に、かつ、そのものだけを、表出した作品であると、我々には感じられる。彼がここで展開しようとしているのは、彼の内奥の思考であり、それに主題を提供しているのは、秘められた彼の苦悩、鬱積した彼の怒り、痛ましく意気消沈した彼の夢想、彼が夜見る幻影、彼が経験する激情(エンスージアズム)の迸(ほとばし)りである。そして、そこに現われる旋律、和声、リズム、オーケストレーションの形(フォルム)は、力強く高貴であり、また、本質的に、個性的で、斬新である。
第1楽章は、絶望に襲われた偉大な魂を乱す、混乱した感情の描写に捧げられた音楽である。絶望と言っても、それは、諦めの外観を纏(まと)った、凝縮した、静かな絶望ではない。ジュリエットの死を知ったロメオの、暗澹とした、声にならない苦悩でもない。それは、イアーゴーの口から、デズデモーナの罪を信じ込ませるための悪意に満ちた讒言(ざんげん)を聞かされたオセロの、あの凄まじい怒りである。その怒りは、ある時は、突然ぞっとするような叫び声を破裂させる錯乱となって、またある時は、悔恨の言葉に満ちた自己嫌悪と解される極度の消耗となって、現われる。読者は聴かれるがよい。死に行く人の痛ましい呼吸のように、不断に弱まりながら行き来する、オーケストラの喘(あえ)ぎ、管楽器と弦楽器の間の和音のやりとりを。また、次いでそれが、閃光のような怒りの発作に駆り立てられ、再び立ち直るかのように、荒々しさに満ちたフレーズに取って代わられる様(さま)を。また、見られるがよい。沸き立ったその集団が、一瞬ためらい、それから、あたかも燃える溶岩の2つの流れのように、2つの火のようなユニゾン(斉奏)に分割され、一丸となって突進する様を。そして、語られるがよい。熱情に満ちたこのスタイルが、器楽の分野において、人がそれ以前に創造したすべてのものに、含まれるものであるか否か、あるいは、それを超えるものであるか否かを。
この楽章中には、一定の状況下におけるパート(声部)の極端な重複による効果と、上主音上の46の和音[直訳は「4度の和音」(l’accord de quarte)]、言い換えれば、属和音の第2転回型の荒々しい側面の、顕著な例が見出される。それらは、準備も解決もされないまま、たびたび姿を現わす。時には、導音を省き、フェルマータの上にさえ置かれる。低音部で全弦楽器がニ音を奏する中、高音部で管楽器のいくつかのパートが単独で不協和なト音を奏するというように。
アダージョ[第2楽章のこと]は、第7交響曲のイ短調のアレグレット、第4交響曲の変ホ調のそれと、幾らかの性格の類似を示す。前者のもの悲しい厳粛さ、後者の心に触れる優美さを備えているということである。最初、コントラバスのピツィカートによるシンプルな伴奏とともに、チェロとヴィオラがユニゾンで主題を提示する。それから、管楽器で奏される、あるひとつのフレーズがこれに続くが、このフレーズは、その後、最初の主題が次々と遂げる変容の如何にかかわらず、楽章の初めから終わりまで、常に同じものが同じ調で再登場する。常に変わらぬ深い悲しみを湛えた簡素さをもって、同一のフレーズが何度も登場することが、聴き手の心に少しずつ名状しがたい印象を与えていく。それは、たしかに、我々がこれまでに感じたこの種の感情のなかで、最も強烈なものである。この崇高な悲歌(エレジー)における種々の和声上の効果のなかでも、最も大胆なものを、以下に挙げよう。(1)低音部で弦楽器が、変ニ、ヘ、変ロの6度の和音(l’accord de sixte)をせわしなく奏する間、高音部でフルートとクラリネットが奏する、低音部の和音のどの音とも異なる、変ホ(属音)の持続音。(2)フルート、オーボエ各1と2本のクラリネットが、それぞれ反対方向に動く、付随的なフレーズ。それは、変イ調の導音のト音と、長6度音のへ音による、準備されない2度の不協和音を、ときおり作り出す。このような導音上の7度の和音の第3転回型は、今指摘した高音のペダル音と同様に、大多数の理論家によって禁じられているが、それでもやはり、魅力的な効果をもたらしている。さらにまた、第1主題の最後の帰還の際の、ヴァイオリン(複)と、フルート(複)、クラリネット(複)、ファゴット(les bassons)の、1小節の距離を置いた、ユニゾンのカノンもある。この処理は、管楽器による模倣を聴くことができたなら、この旋律に新たな興趣を加えるところなのだが、残念なことに、まさにその場所で、全オーケストラが強奏するので、ほとんど聞き分けられなくなってしまう。
スケルツォは、一風変わった楽章で、その冒頭の数小節が、人をぞっとさせるようなものは何も含んでいないにもかかわらず、名状しがたい感情を聴き手に引き起こす。それは、ある種の人々の人を惹きつけるような眼差しを前にしたときに、我々が感じる、あの説明できない感情である。そこでは、すべてが謎めいていて、沈んでいる。オーケストレーションの外観は、多かれ少なかれ不吉なものであるが、その作用は、ゲーテの『ファウスト』の有名なブロッケンの山(Bloksberg)の場面を創造した発想の領域と関係しているように思われる。そこではピアノとメゾ・フォルテのニュアンスが支配的である。中間部(トリオ)は、弓の全力で奏される低音部のパッセージで占められている。その鈍重な荒々しさは、オーケストラの譜面台を足元から震わせ、あたかも一頭の象が上機嫌にはしゃぎまわっているかのように感じられる。・・・だが、その怪物は遠ざかり、興奮したその足音は、次第に消えていく。スケルツォのモチーフ(動機)がピツィカートで再び現れる。次第に静寂が広がり、ヴァイオリンの軽い爪弾きの音と、ファゴットが雌鶏が雛を呼ぶコッコッという鳴き声のような奇妙な音で属9の短和音の根音であるト音のオクターブと間近で当たりながら小さく奏する高い変イ音しか聞こえなくなる。次に、その終止を遮りつつ、弦楽器が弓で変イの和音を穏やかに奏し、それを持続しながら静まる。ティンパニだけが、スポンジで覆ったスティックによる軽い打音でリズムを保ち、それが、オーケストラの他のパートが沈黙するなか、かすかに浮かび上がる。ティンパニの音は、ハ音であり、この楽章の調は、ハ短調である。しかし、他の楽器が長い間、変イ音を主音とする短3和音を保ってきたことが、異なる調の導入を感じさせている。片や、前記のティンパニだけは、槌の音のようなハ音の打音で、当初の調の感覚を維持しようとしている。聴き手の耳はためらう。・・・このハーモニーの謎が、どこに行き着くのか、分からないからだ。ティンパニの内にこもった拍動が徐々に強さを増していき、ヴァイオリンが帰還してハーモニーを変え、ティンパニが主音ハを執拗に轟かせるなか、ト、ロ、ニ、ヘの属7の和音に到達したとき、オーケストラ全体が、それまで登場していなかったトロンボーンに支援されつつ、凱旋のマーチの主題(長調)を響き渡らせ、フィナーレが始まる。雷の一撃のようなその効果は広く知られているから、講釈の必要はないだろう。
ところが、批評家たちは、次のように述べて、作者の功績を目立たなくしようと試みてきた。曰く、ピアニシモ、短調の暗闇から、長調の華やかな大音響に導くという、ありふれた手法を用いているにすぎないと。また曰く、凱旋の主題は独創性に欠けると。さらにまた曰く、曲の興趣は、終局に向け、増大するのではなく、減衰していると。我々は、それらに対して、次のように応えよう。ピアノからフォルテへの移行や、短調から長調への移行が、手法として既に知られていたからといって、これほどの作品を創造するに当たり、少しでも僅かな天分しか必要でなかったということになるだろうか?・・・同じ力を作用させようと望まなかった音楽家が他に幾人いるだろうか?[いないだろう、音楽家たちは、まず例外なくそれを望んだはずだ、の意。]そして彼ら[過去に同じ効果を得ようと望んだ音楽家たち]は、この並外れた凱歌に比べ得る、どのような結果を生み出しただろうか?ここでは、この詩人音楽家の魂は、いまや地上の桎梏(しっこく)や苦悩から解き放たれ、輝きを放ちながら、天に向かおうとしているのである。・・・この主題の最初の4小節は、たしかに、非常に独創的なものとはいえない。だが、ファンファーレという形式には、それ自体に自ずと制約があるのであって、この形式の音楽には、それに相応しい簡素さ、威厳、華麗さといった性格から完全に遊離することなしには、新しさを求めることができるとは思われない。したがって、ベートーヴェンがこの作品のフィナーレを開始するに当たって望んだのは、ファンファーレで歌い出すことのみだったのであり、主題[ファンファーレの旋律]の続きを含め、この作品の以後すべてにおいて、彼の作品が決して失うことのない精神の高揚とスタイルの斬新さが、きわめて迅速に取り戻されているのである。また、結末まで興趣を増大させ続け得ていないとの批判に関しては、次のように応えることができるだろう。すなわち、音楽は、少なくとも現在我々が知っているその在り方においては、この作品のスケルツォから凱旋のマーチに至る、あの移行の効果以上に、激烈な効果を生み出す術を、知らないのだと。それゆえ、その効果をさらに強めるような前進は、そもそも、不可能なのである。
そのような高みを持続することは、それだけで、驚異的な成果である。ベートーヴェンは、彼が取り組んだ展開の規模の大きさにもかかわらず、それを成し遂げている。だが、聴き手の感覚器官が最初に感じる衝撃があまりに凄まじく、それが聴き手の神経の興奮を極点にまで高めてしまうので、次の瞬間にはそれだけになおさらその持続が困難になり、そのような高揚が始めから終わりまで持続していること自体で、あたかもそれが減衰しているかのように感じさせてしまうに十分なのである。同じ高さの柱の長い列は、視覚上の錯覚により、遠いものほど小さく見える。おそらく、我々の劣った身体の作りは、グルックの「将軍は貴方を召還する」のような、より短い結びに、より馴染みやすいのだろう。それであれば、聴衆は、高揚から冷める時間を持たないであろうし、交響曲は、聴衆が疲労のためもうそれ以上作者の足取りを辿ることができなくなる前に、終わるからである。しかし、このような見方は、いわば、作品の演出に関することを述べているにすぎないのであって、このフィナーレが、それ自体、きわめてわずかな作品しか、これに比肩し、持ちこたえることができない、壮麗さと豊かさとを備えているということを、否定することにはならないのである。

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