ベートーヴェンの交響曲の批評研究 / Etude Critique des Symphonies de Beethoven / #3

凡例:緑字は訳注

3 『英雄交響曲』

この作品の冒頭に作曲家が付した標題を、短く切り詰めてしまうのは、大きな誤りである。そこには、こう記されている。『ある偉大な人物の追憶を記念する英雄交響曲』。この作品は、切り詰められた題名を見て多くの人が期待するような、戦争や凱旋に関する音楽ではない、ということが、これで分かる。この作品は、そうではなく、むしろ、厳粛で深い思惟、哀しい追想、壮大さと悲壮感とで人を圧する、式典の音楽、すなわち、ひとりの英雄に捧げられた、「追悼の辞」なのである。私は、苦悩が、これほど純粋な姿(フォルム)と、これほど高貴な表現(エクスプレシオン)を、最後まで保ち得た音楽の例を、この作品のほかに、ほとんど知らない。
最初の楽章は、3拍子で、テンポも、ワルツとほぼ同じである。だが、この『アレグロ』以上に、真摯でドラマティックな音楽があるだろうか?楽章の基調をなす力強い主題は、初めは、その全貌を現わさない。作者は、慣例に反し、曲の開始に当たり、主題の旋律を、ちらりとしか見せないのである。主題は、何小節かの前置きを経た後で初めて、その輝かしさを全面的に発揮しつつ、姿を現わす。シンコペーションの頻出と、弱拍にアクセントをつけることで3拍子の音楽に2拍子の小節を投入することによって行われる、異なる拍子の結合とにより、リズムが、並外れて顕著である。二度目の繰り返し[展開部のこと]の中間あたり、第1ヴァイオリンが、イ音を主音とする短和音の第5音であるホ音に対し、高いヘ音を強奏する箇所にみられるように、このぎくしゃくしたリズムに、一定の耳障りな不協和音が加わると、聴き手は、その御しがたい感情の激発の情景に、戦慄を禁じ得ない。これは、絶望の声であり、また、ほとんど怒りの声である。だが、聴き手は、「何故の絶望か?」、「何故の怒りか?」を問い得るのみで、その理由を見出すことはできない。オーケストラは、その後、いま身を任せたばかりの激情に打ちのめされ力尽きたかのように、突然、静まる。次に現われるのは、より穏やかなフレーズ[複数]で、我々はそこに、哀惜の念を湛えた心に追憶が呼び起こす、すべての感情を見出すのである。ベートーヴェンが彼の主題を繰り返す際に用いている、旋律上及び和声上の外観(アスペ)は、非常に多岐にわたっており、描写することも、単に指し示すことも、不可能なほどである。ここでは、それらのうち、大いに議論になった、きわめて風変わりな箇所を一つ、指摘するにとどめよう。フランスの編者が、当初、製版の誤りと考えて、総譜を修正したけれども、より詳しい情報を得てから、元に戻した箇所である。そこでは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンだけで、変ホ調の属7の和音の一部である、長2度の関係にある変ロと変イの2音を、トレモロで保っている間に、ホルンが、誤って4小節ほど早く出てしまったかのように、無謀にも、変ホ、ト、変ホ、変ロの4音だけから成る、第1主題冒頭部の旋律を奏するのである。たとえ、パート間の空間の隔たりが、この衝突を大いに和らげるとしても、主和音を構成する3音で作られた旋律が、属和音中の不協和な2音に対し、いかに奇妙な効果を生むかは、お分かりだと思う。だが、この異常に耳がまさに反発しようとするところで、強力な総奏がホルンを遮り、主和音の弱奏で終止しつつ、チェロを帰還させ、それが、主題全体を、それを導いたハーモニーに伴われつつ、繰り返すのである。少し落ち着いて考えれば、このような音楽上の気まぐれに、確たる正当化を見出すことは困難である(原注)。にもかかわらず、作曲者は、この点に大いにこだわったと言われており、次のような逸話まで存在している。この作品の最初のリハーサルの際、助手を務めていたリース氏が、この箇所でオーケストラを止め、「早すぎる、早すぎる、ホルンは出を間違っている!」と叫んだところ、このような熱心さへの褒美として、怒り狂ったベートーヴェンから、それを上回る厳しさで、叱責されたというのである。
この箇所以外には、この作品に、この種の奇妙な箇所は、一切見当たらない。『葬送行進曲』[第2楽章]は、全体が一つのドラマである。それは、あたかも、若き戦士パラスの葬列を謳ったウェルギリウスの美しい詩を、音楽に置き換えたかのようである。

Multa que praeterea Laurentis praemia pugnae
Adgerat, et longo praedam jubet ordine duci.
Post bellator equus, positis insignibus, Aethon
It lacrymans, guttis que humectat grandibus ora.

[ラテン語。『アエネーイス』11巻78-79、89-90行。
(戦死したパラスのために、エネアスは)
「ラウレンティスの戦いの捕獲物を山積みさせ、
戦利品の長い列を作らせた。
従うは軍馬エトン、今は飾りを取り去って、
大粒の涙に顔を濡らし、泣いている。」の意。]

この楽章のエンディングは、とりわけ感動的である。行進曲の主題が再登場するが、いまや、それは、静寂によって切断された、細切れの断片になっている。伴奏は、コントラバスの3音のピツィカートだけである。孤独で、裸で、途切れがちで、色あせた、沈痛な旋律の切れ端が、一つずつ主音の上に崩れ落ちると、管楽器[複]が、一つの叫び声を上げる。それは、戦士たちが彼らの戦友に送る、最後の別れの言葉である。そして、全オーケストラは、再弱奏(ピアニシモ)のフェルマータへと消えてゆく。
第3楽章は、習慣どおり、『スケルツォ』と題されている。イタリア語のこの言葉は、「遊び」、「おどけ」を意味する。一見した限りでは、そのようなジャンルの音楽が、どうして、このような叙事詩的な作品の中で重要な役割を果たすことができるのかは、明らかでない。それを理解するには、作品を聴く必要がある。実は、それはまさに、スケルツォのリズムとテンポによってであり、それこそが、遊びなのである。だが、その遊びは、真の意味での追悼の遊戯であって、喪の悲哀により絶えず曇らされた遊びである。結局、それは、『イーリアス』の戦士たちが、彼らの指揮官たちの墓前で催した競技会と同じ意味での、遊戯なのである。
ベートーヴェンは、彼のオーケストラを最も気儘(きまま)に展開するときにも、このような題材において当然基調をなすべき、重く沈んだ色彩と深い悲しみを、維持することができた。終楽章もまた、それまでと同じ詩情(イデ・ポエティック)の発展にほかならない。曲の冒頭、非常に興味深い楽器法を用いたパッセージが、注意を引く。異なる音色の対置が生む効果を、極限まで引き出した箇所である。そこでは、ヴァイオリンが変ロ音を強奏した後、フルートとオーボエが、こだま(エコー)のように直ちに応答するが、その音は、元の音を、同じ音階の同じ音高、同じテンポ、同じ強さで、繰り返したものである。それにもかかわらず、その結果としてもたらされるものは、同じ音の内部での、非常に異なるもの同士の対話である。両者を区別する微妙な差異(ニュアンス)は、青色と紫色とを区別する差異に例えられる。音に関するこのような鋭敏な感覚は、ベートーヴェン以前は、まったく知られていなかった。我々は、これを、彼に負っている。
この終楽章は、たいへん変化に富んでいるが、それにもかかわらず、すべて、ひとつのごく単純なフーガの主題から作り出されている。この主題を基に、作者はその後、無数の創意に富んだディテール(詳細)のほか、2つの新たな主題を創出する。そのうちの1つは、極めて美しい。外観からは、この旋律が、元の旋律から、いわば取り出されたものであることに、気付くことはできないだろう。元の旋律は、どちらかと言えば低音部の線のような性格をもち、実際、その役割をよく果たすのであるが、新たな旋律の表情は、それとは異なり、元の旋律よりも遥かに強く心に触れ、比較にならず優雅だからである。この歌う旋律は、曲の終わりの少し前、一段と遅いテンポで、かつ、悲しみを倍にする新たなハーモニーに伴われて、再登場する。英雄は、多くの涙を流させる。こうして英雄の追憶に最後の名残を惜しんだ後、詩人は、悲歌(エレジー)を終え、栄光の讃歌を、情熱的に歌い始める。この結びは、やや簡潔であるが、輝かしさに満ちており、この音楽の記念碑に、それに相応しい最後を飾る。
ベートーヴェンは、たぶんこの交響曲に勝(まさ)って強烈な印象を与える作品を多数書いているし、それらのうちのいくつかは、より激しく聴衆の心を揺さぶるだろう。だが、そうだとしても、次のことは、認識しなければならない。『英雄交響曲』は、非常に力強い構想と実行とに裏打ちされた作品であり、その作風は、きわめて斬新で、常に気高く、表現形式(フォルム)も、この上なく詩的である。そして、それゆえに、この作曲家の最高傑作の一つに位置付けられるべき作品である。この作品の演奏を聴くと、私は、いつも、厳かな悲しみの感情と、言うなれば古典古代の[=ギリシャ・ローマの叙事詩的な]感情を経験する。だが、聴衆は、それほどは感銘を受けないようにみえる。これほどの熱意(エンスージアズム)に燃えながら、選り抜きの聴衆にさえ、自らの意図を理解させ、自らと同じインスピレーションの高みに導くことができなかった、この芸術家の不運は、たしかに、嘆かれてしかるべきである。異なる状況の下では、その同じ聴衆が、彼とともに活気づき、興奮に体を震わせ、涙を流すだけに、このことは、いっそう悲しい。なるほど、聴衆は、同様の賞賛に値するが、それでも、この作品のようには美しくない、彼の作品のいくつかに、真実で非常に強い情熱を抱く。彼らは、第7交響曲のイ短調のアレグレット、第8のアレグレット・スケルツァンド、第5のフィナーレ、第9のスケルツォを、その真価のとおりに評価するし、さらには、本稿の対象たる交響曲(『英雄』)のうちでも、『葬送行進曲』には、深く心を動かされるようである。ところが、私はもう20年以上も前から気付いているのだが、第1楽章については、幻想を抱(いだ)く余地がない。聴衆は、ほとんど心を動かされずに、これを聴く。彼らは、そこに博学さと、十分な力強さを備えた作品を見出しはする。だが、・・・そこまでなのである。そこには一貫性がない。高邁な作品はみないつでもどこでもそうだったとか、あるいは、詩的な感情を呼び起こす原因は神秘的で計り知れないだとか、あるいは、特定の人々が授かったある種の美に対する感性は一般大衆には全く欠けているだとか、さらには、これらのことはそうでしかありえないとさえ、考えてみたところで・・・いずれも、慰めにはならない。そうしたことはいずれも、素晴らしいものが正しく評価されない状況を目の当たりしたとき、あるいは、きわめて高貴な作品を、大衆が、ただ漫然とではなく、然るべき注意を払って見聴きした上で、あたかもそれが凡庸でありふれたものであるかのように、ほとんど注意も払わず見過ごしてしまうのを目の当たりにしたときに、心がそれで満たされるような、直感的で不随意的で、まあもしそう言いたければ、不合理なといってもよい憤慨を、静めてくれはしない。ああ!考えるだに恐ろしいことだが、それでも、次のことは、情け容赦なく、確かなことだ。私が美しいと思うものは、私にとっては美である。だが、それは、私の最良の友にとっては、そうでないかも知れない。いつもは私と好みを同じくする人が、私とはまったく違う心の動かされ方をすることがある。私を夢中にさせ、私の心を高ぶらせ、私に涙を流させる、同じその作品が、友の心は少しも動かさず、あるいは、友には気に入らず、さらには、友を苛立たせさえするかもしれないのだ。・・・
偉大な詩人たちの多くが、音楽には少しも心を動かされなかったり、陳腐で子供じみた旋律にしか、喜びを感じなかったりする。偉大な精神の持ち主たちの多くが、音楽愛好者を自任しながら、音楽が喚起し得る感情がいかなるものであるかに、気付いてすらいない。これらは、悲しい真実であるが、一定の頑迷な教条主義だけが認識せずにいられるような、確かで、明白な、事実である。私は、ヴァイオリンが重音奏法で奏する長3度の2音の保続音を聴くと、喜んで遠吠えをする母犬をみたことがある。ところが、この母犬から生まれた子犬たちには、3度も5度も、6度もオクターブも、協和・不協和を問わず、いかなる和音も、何の感興も与えなかった。どのように構成されたものであれ、聴衆には常に、偉大な音楽上の構想の理解に関し、この犬の親子に似たところがある。彼らは、一定の音に反応する一定の神経組織を備えているが、その能力は、未完成なまま不平等に配分されており、無限の個人差がある。そのため、聴衆の心を動かすために、これこれの技法ではなく、しかじかの技法を採用するといったことは、ほとんど意味をなさないし、作曲家は、あらゆる運や偶然をあらかじめ甘受し、他事は考慮せず、ただひたすら自分自身の感性に従うに如(し)くはないのである。音楽院で、ベートーヴェンの合唱付き交響曲が演奏されたある日のこと、私は、3、4人のディレッタンティ[イタリア音楽の愛好家たちのこと]とともに、会場を出た。
「この作品をどう思いますか?」彼らの1人が、私に尋ねた。
「途方もない!素晴らしい!圧倒的だ!」
「それはたいそう奇妙なことですな。私はひどく退屈しましたよ。貴方はどうでしたか?」彼は、連れのイタリア人に話しかけた・・・。
「私ですか。私は、分かりませんでしたね。というより、むしろ、我慢できませんでしたよ。何しろ、メロディがないのですから・・・。」
さらに、この作品についての、次の各紙誌の記事を、お読みいただきたい。
「ベートーヴェンの合唱付き交響曲は、現代音楽の到達点である。スタイルの気高さ、構成の壮大さ、細部の仕上げにおいて、これに較べ得る作品を、芸術は、かつて生み出したことがなかった。」
(別の記事)
「ベートーヴェンの合唱付き交響曲は、醜悪な作品である。」
(別の記事)
「この作品は、創意がまったく無くはないけれども、その処理が拙(つたな)く、全体としてのまとまりに欠け、魅力がない」
(別の記事)
「ベートーヴェンの合唱付き交響曲には、見事なパッセージが幾つかみられるものの、作曲者には構想が欠けており、彼の枯渇したイマジネーションは、もはや、彼を支援していない。それは、もっぱら、霊感の欠如を技術で補うことに、費やされているように見受けられる。ただ、その努力は、しばしば、幸運な結果をもたらしているが。非の打ちどころのない明確な秩序と論理をもって見事に処理されたフレーズも、散見される。要するに、これは、衰えた天才による、たいへん興味深い作品である。」
真実はどこにあるのか?誤りはどこにあるのか?至るところにあるし、どこにもない。それぞれが論拠を持っている。ある者にとって美しいものは、他の者にとってはそうではない。それはただ、ある者は感動したのに、他の者は平然としていたとか、ある者が生き生きとした歓びを示したのに、他の者は大いなる倦怠を示したというだけのことである。このことについて、何かをなし得るだろうか?・・・何もなし得ない。・・・だが、これは、恐ろしいことである。私は、たとえ常軌を逸するとしても、むしろ、絶対の美を、信じたい。

原注/どのような観点からみても、もしこれがベートーヴェンの真意であり、この件に関し流布している逸話に何がしかの真実が含まれているとするなら、このような気まぐれは、ばかげていると認めざるを得ない。

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