手紙セレクション / Selected Letters / 1833年8月1日(29歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

パリ発、1833年8月1日
アンベール・フェラン宛

(抄訳)

親愛な、良き、そして誠実な友よ、

[略]この冬に向け、演奏会の「目玉( une grande affaire )」を仕込もうとしている。完全に自由な精神を持った人が得られれば、すべてうまくいくだろう。僕は、オペラ座、音楽院のそれぞれにいる猟犬の群れに立ち向かうだろう。( Si je pouvais avoir l’esprit entièrement libre tout irait bien ; je défierais la meute de l’Opéra et celle du Conservatoire, qui […])。彼らは、これまでになく攻撃的になっている。その理由は、僕が『リューロップ・リテレール』に書いた、あのご老体(ケルビーニ)に関する記事[脚注参照]と、それから特に、『アリババ』[ケルビーニの最後のオペラ〜出所:ベルリオーズ辞典p.107 J.Mongrédien 執筆]の初演の際、僕が第1幕で「アイディア一つに10フラン!」と申し出て( offrir dix francs pour une idée au premier acte )[ 「idée」の語には「アイディア」のほか、「楽想」の意味も]、それを第2幕で20フランに、第3幕で30フランに、第4幕では、「僕の資力ではこれ以上上げられない、お手上げだ!」と付け加えることまでして、40フランに上げたことだ。この野次( charge )のことは、皆に知られている[「charge」の語に「野次」の訳を当てる辞書は、リトレを含め見当たらないが、辞書の掲げる訳語には文脈に適切なものが見出せないため、ケアンズの英訳(この語に「冷やかし(joke)」の訳語を当てつつ、ベルリオーズはそれをオペラの上演中「大声で叫んで怒らせ(cause offence by shouting out)」た旨、説明する。2部2章p.47)を参考に、文脈に適合すると思われるこの語を選択した]。ヴェロン[オペラ座監督]にも、ケルビーニにも、だ。お察しのとおり、僕はこの人たちの覚えがめでたい。僕は、相変わらず苦悩に満ちた、落ち着かない日々を送っている。アンリエットに会うのは、今夜が最後になるかもしれない。彼女はとても不幸で、そのことで僕は心を痛めている。優柔不断で臆病な性格が、何の決断も彼女に下させないのだ。だが、こんなことはいつか終わらねばならない。僕はこんなふうには生きられない。全体、この物語は悲しく涙に濡れている。とはいえ、涙を流すだけで済むことを、僕は期待している[の意か?原文:mais j’espère qu’il n’y aura que des larmes.]。僕は、最も誠実な者のなし得ることをすべてした。彼女がより幸せで、安定した立場にないのであれば、それは彼女の責任だ。[略](了)

[書簡全集341]

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訳注1/『リューロップ・リテレール』誌への寄稿について
この手紙で言及されている『リューロップ・リテレール( L’Europe Littéraire )』の記事は、同誌1833年6月12日号及び同年7月19日号に、それぞれ、「芸術アカデミー:作曲の年次コンクール( Académie des beaux-arts : Concours annuel de composition musical )」、「作曲の年次コンクール( Concours annuel de composition musical )」の見出しで掲載されたものである[出所:書簡全集 t.2, p.109, n.3、音楽評論集 t.1, pp. 99, 107]。2つの記事は、音楽評論集に収められているほか、Gallicaでも閲覧等することができる。

これらの記事は、権威あるフランス学士院の主催するローマ賞コンクールの在り方を辛辣に批判するとともに、受賞者選定の内幕を暴露したもので、その発表は、大いに物議を醸したに違いない。(なお、ベルリオーズによる同趣旨の批判は、1834年、36年にも、(媒体を変えて)繰り返されている[ブルーム編『回想録』p.101、音楽評論集t.1, p.153, t.2, p.477参照]。)

また、これら2つの記事は、後年、『回想録』に組み込まれた。すなわち、6月号の記事は、その大部分が同書22章(「作曲コンクールのこと」等)に、7月号の記事は、そのほぼ全体が同23章(「学士院の用務員のこと」等)に、それぞれ取り入れられている。したがって、記事のあらましは、この2つの章を読むことによっても知ることができる。ただし、『回想録』では、元の記事で「さる高名なるご老体」、「ある音楽家」等の表現を用いて実名を伏せる形でなされていたケルビーニへの言及が、実名を出す形に改められている点に留意されたい(この修正は、『回想録』が、元の記事の発表から長い年月を経た、著者の死後に出版されることを想定して編まれた書物であることと関係していると考えられる)。

なお、抄訳の第1文で言及されている「[冬の]演奏会」は、12月22日に音楽院で開催され、『幻想交響曲』、『リア王』等が演奏された[書簡全集 t.2, p. 57、同p.138, n.1]が、その指揮者は、それまで『幻想交響曲』の演奏(1830年、32年)を指揮していたアブネック[音楽院演奏協会及びパリ・オペラ座オーケストラの指揮者]から、ジラールに交代している。その事情について、ケアンズは、「それまでベルリオーズを支持していたアブネックが1833年12月の彼(ベルリオーズ)の演奏会を指揮せず、彼が力の劣るジラールの指揮に頼らざるを得なかったのは、間違いなくこれら2つの記事のせい」(要旨)であると指摘している(2部2章p.49)。このことと照らし合わせると、抄訳冒頭の第2文、「完全に自由な精神を持った人が得られるなら」とのベルリオーズの言葉は、「ケルビーニに気兼ねすることなく指揮を引き受けてくれる人が見付かれば」との意味であるとの推測がつく。

さて、『リューロップ・リテレール』6月号の記事では、ローマ賞コンクールの「予備選抜(concours préliminaire)」の内幕も描かれているが、この部分は『回想録』に編入されていないので、以下に訳出し、参考に供したい。

ルーロップ・リテレール1833年6月12日号(抜粋)[Gallica所収]

哀れな参加者たちが、フーガと呼ばれるあの反音楽的でおぞましい音符の織物をできるだけ長くするため7、8時間ばかり悪戦苦闘し、彼らの手書き譜がきちんと規則どおりに番号を付して署名され、学士院の事務局に提出されると、音楽部会が招集される。

まず初めに、さる高名なるご老体(音楽院ではそう呼ばれている)[ケルビーニのこと]が、同僚たちより1時間ばかり早く、姿を見せる。「フーガの父」(フーガの息子でないならば)と呼ばれてしかるべき人である。音楽部会の他の会員たちは(その幾人かは、4重対位法などといったものとは全く無縁で、フーガなど一つも書いたことがないが、それでもフランスの芸術界に多くの立派な作品を残している人々である)、この高名な同僚に、それぞれライバル関係にある参加者たちの判じ物のような提出物を読み解く仕事を任せているのである。そしてその任務を、この人が誠意をもって丹念に果たしていることは、全くそのとおりである。それは彼の幸福であり、フーガは彼の本領なのだ。彼は、フーガで遊び、フーガを愛撫し、フーガに喜びを見出し、フーガに愛着を覚え、フーガに執着し、カジモドがノートルダム寺院の大鐘に飛びついてそれを鳴らしたように、フーガを奏するのである[の意か。原語: [il] s’y encalifourchonne comme Quasimodo sur le bourdon de Notre-Dame. 〜 「se encalifourchonner 」なる言葉は辞書に見当たらず、ベルリオーズの造語のようである]。会員たちが、一人を除き、やっと皆集まる。その一人とは、その栄光が帝政時代にまばゆいばかりに輝いた、おそらく最も立派な人物なのだが[ベルリオーズの師匠、ル・シュウールを指す。『回想録』6章原注2参照]、この人には、すべてが終わるまで決して姿を見せない習慣があった。

会議が始まる。審査員たちは巨大なテーブルの周りに着席している。テーブルの上には、哀れな手書き譜が雑然と置かれている。独りかの高名なるご老体のみが、柄つき眼鏡を手に、起立している。その目は、既に自身で入念な吟味、比較を済ませているフーガの山に注がれている。その姿は、多数の未知の動物を丹念に腑分けした後、それらがいかなる種類の怪物に属するものか、メスを手に思案する博物学者さながらである。審査員諸氏は、7つか8つの「最良のフーガ」(音楽院はいまもこのような言い方をしている)を選ぶ仕事を、この人にほぼ任せきりにして、参加者たちが隣の部屋で期待と不安に青ざめている間に、モリエールの[戯曲]『恋は医者』( l’Amour Médecin )に登場する医師たちの、あの天晴れな話合いの場面[スガナレルは娘の治療のために4人の医師を自宅に呼ぶが、医師たちは彼の家で身勝手な無駄話に興じる〜3幕2景]を泰然自若として再現している。

トメス氏の雌ラバ、マクロトン氏の馬、アルテミウスとテオフラストの論争[いずれも医師たちの無駄話の話題]についての長談義が済むと、審査員諸氏は、やっと彼らの集まった目的に関心を向ける。彼らは、高名なご老体によって選別され、詳しく調べられた( disséquées )7つのフーガのうちから、4つか5つを選ぶのだが、この選択は次のような事由に左右される。「3番は、私の教室の学生だ。私の教え子は、もう2年も受賞していない。今年は私の番だ」、あるいはまた「4番は、もう6回も参加しているが、2等賞を1度取っただけだ。彼は29歳で、今回失格させると、もう受賞できない。今年が最後なのだから」、あるいはまた「1番は、今年徴兵される。ご存じのとおり、受賞者はそれが免除になる。その僥倖を彼から奪ってはならない」、あるいはまた「2番は殊勝な子で、少しばかり名を上げて弟子がとれるよう、1度だけ参加することが望みだ。彼は2等賞で満足するだろう」、あるいはまた・・・その他これらと同類の無数の事由[mille autres considérations de cette force.]。だが、彼らが各自の取り分を決めている間に、すっかり忘れられていた不在のアカデミー会員が、ついに到着する。ドアがわずかに開くと、同僚たちが彼に叫ぶ。「遅すぎますよ、誓って!貴方の来る前に、会議は済んでしまいました。」他方、彼はといえば、錠前に手をかけ、今なお心ここにあらずといった様子で、室内から掛けられた言葉にも耳を貸さず、外で始めていた彼のお気に入りの教え子の一人との会話を続けている。「そうとも、君、そうなのだ。真の芸術家たる者は、自らのいる場所まで公衆を引き上げるべきなのであって、自分が公衆のいる場所にまで下りていくようであってはならんのだよ( les vrais artistes doivent élever le public jusqu’à eux, et ne pas descendre jusqu’à lui. )。ああ!もしナポレオンが帰って来たら、私も貴君の将来を案じはしないだろうに。」

票が集計され、本選参加者の数は、結局、6人となる。会議は終わる。[以下略](了)

(参照文献)
ヴィクトル・ユゴー著、辻昶・松下和則訳、『ノートル=ダム・ド・パリ』、『ヴィクトル・ユゴー文学館』第5巻、潮出版社、2000年[第4編三に、カジモドがノートルダム寺院の大鐘に飛びついて身体の重みを用いて揺さぶり、鐘の響きを強めることを得意としたことが記されている(p.156)。]

モリエール著、鈴木力衛訳、『恋は医者』、『モリエール全集』第1巻、中央公論社、1973年

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