手紙セレクション / Selected Letters / 1833年7月15日(29歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

パリ発、1833年7月15日
ルイ・ペネ[同郷の友人]

(抄訳)

[略]父は、僕のスミッソン嬢との結婚を阻止するためになら何事もいとわぬつもりでいる。彼は、僕が彼女以外の女性と結婚した場合にはその女(ひと)が誰であれ僕に与えたであろうもの、そして僕の妹には与えたものを、僕に与えることを拒んでいる。アンリエットは無一文だ。未だそれによる怪我の治っていない、あの恐ろしい事故のせいで、彼女はあと数ヶ月は舞台に立つことができず、僕のわずかな手持ちでは、この恐ろしい状況から彼女を救い出すことができない。・・・僕は芸術家としての自分の将来を信じている。僕にはおそらく新しい、大いなるキャリアが定められている。この年齢で死ぬとは、恐ろしいことだ。・・・できれば僕を救い出して欲しい。貴君にお願いしたいのは、父とその財産を知っている人たちの中に・・・5、6千フランを貸し付けるに足るだけの信頼を僕に置いてくれる人を見付けられるかどうか、検討してくれることだ。貴君の持つ人望、影響力、交友を最大限活用してくれたまえ。僕は絶望し、途方に暮れている[Je suis perdu de désespoir.]。ああ、僕のような状況にある者が、数千フランのお金を用意できないばかりに、破滅を運命づけられてしまうものなのか!![Dieu; sera-t-il dit qu’un homme dans ma position sera perdu parce qu’il ne peut se procurer quelques mille francs !!!]どうか速やかに返事をくれたまえ。僕は進退極まっている。グルノーブルに向け、まさに発とうとしているとき、7月[革命]関連行事に向け、奏者600人で演奏する音楽を書くことを依頼された。そのせいで、当地に留まらざるを得なくなった。

さようなら、友よ、

敬具
エクトル・ベルリオーズ(了)[書簡全集339bis]

訳注/この手紙について
名宛人ルイ・ペネ( 1808-1879 )は、その父とともにグルノーブルの実業家( négociant 〜卸売業者)で、父フェリクスは、同市の市長やイゼール県選出の代議士も務めた人である。ルイ・ペネとベルリオーズは、パリで、同郷(イゼール県を含むドーフィネ地方)出身者の集まりを通じて知り合ったのだろうと推測されている(情報の出所:家族の手紙 t.2, p.84, n.2、同 p.85)。
この手紙から、前出のフェルディナント・ヒラーに宛てた手紙で言及されているグルノーブルへの旅の目的は、同地でペネに会い、その支援で資金を調達することを含む、ハリエットの救援のための金策だったことが分かる。

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