手紙セレクション / Selected Letters / 1833年6月12日(29歳)

凡例:緑字は訳注  薄紫字は音源に関する注

パリ発、1833年6月12日
アンベール・フェラン宛

僕の親愛なアンベール、僕を気遣ってくれる、貴君の変わらぬ友情のすべてに、僕はどれほど感謝していることか!グネから最近聞いたところでは、彼は貴君の僕への手紙を受け取りはしたのだが、あのよくある不幸な巡り合わせから、何と自室でそれを失くしてしまい、見つけることができなかったそうだ。彼が見せてくれた貴君の短信を読み、貴君がどれほど僕のことを心配してくれているかがよく分かった。これほど長く貴君に手紙を書かずにいたことは、まったくもって僕の落ち度だ。どれほど僕が心を奪われ、どれほど僕の生が揺れ動いているかは、察してくれていると思う。ある日には、満足し、心穏やかで、夢想している。またある日には、神経を病み、困惑し、疥癬にかかった犬のように厄介な存在で、気難しく、千の悪魔のように意地悪く、生を毛嫌いし、いつでもそれ[生]をただ同然に棄てて顧みないつもりでいるといった有様なのだ — 並外れた幸福がますます間近に迫り、尋常ならざる天命に従おうとしていて、信頼できる友[複数形]と音楽、それに好奇心( la curiosité )があるのでなかったら。僕の生は、一つの興味尽きない小説だ( Ma vie est un roman qui m’intéresse beaucoup. )。

僕がどう過ごしているか、知りたいのだね?昼は、調子が良ければ、長椅子で本を読むか、眠るかしている(僕はいま、快適な部屋に住んでいるのでね)。でなければ、『リューロップ・リテレール』[紙]に記事を書き殴っている。ここは僕へのペイがとても良い。夕方、6時にはアンリエットの家にいる。彼女は依然治癒しておらず( encore malade )、苦しんでいて、そのことが僕をひどく悲しませている。彼女については、いずれ長い手紙を書く。今はただ、彼女について貴君が持った可能性のある意見は、それ以上はあり得ないくらい見当はずれだということを、貴君は知るだろうとだけ、告げておこう。彼女の生も、まるでもう一つの別の小説だ。そこでは、彼女の見方、感じ方、考え方が、かなり興味深い部分をなしている( C’est tout un autre roman que sa vie et sa manière de voir, de sentir et de penser, n’en est pas la partie la moins intéressante. )。子どもの頃から置かれてきた立場の中での彼女の振る舞いは全く驚くべきもので、僕も長いこと信じられなかった。このことについては、これで十分だ。

僕は今、大規模なオペラの計画を進めている。ローマから手紙で貴君に構想を説明した作品だ1832/1/8付の手紙でフェランに提案したオペラ『世の終わりの日』のこと]。1年半前のことだ。以来、貴君は不精に打ち勝って仕事に取り掛かることができないできた。それで僕は貴君に期待するのはやめて、エミール・デシャン、サン・フェリクスの両氏に声を掛けた。二人は積極的に取り組んでくれている。貴君は僕を悪く思わないでくれるね。随分辛抱強く待ったのだから。

まさにそのことで人が迎えに来た。さようなら、近いうちにまた書く。

さようなら、
貴君の誠実な友

H.ベルリオーズ(了)[書簡全集338]

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訳注/ハリエットの生い立ち等

ハリエット・スミッソン( Harriet Constance Smithson 1800/3/18 – 1854/3/4 )の生い立ちについては、同時代に刊行された『俳優列伝』、20世紀に刊行された『美しきオフィーリア』の2著(書名はいずれも仮訳。詳細下記参照)に詳しい情報がある。それらによれば、彼女はアイルランド西部クレア県の県都エニス( Ennis )で生まれた。両親は旅回りの俳優で、ハリエットの生まれた頃、父親は劇団の興行主として、エニスのほか、ウォーターフォード、キルケニー、ゴールウェー等、アイルランドの諸都市を行き来しており、母親もそれに従っていた。出生の翌年、ハリエットは、エニスのプロテスタントの牧師、当時80歳のジェームズ・バレット師に託された(『俳優列伝』の言葉「this babe of his adoption」を字義どおりに解せば、養子縁組をして)。プロテスタント、カトリックを問わず、広くエニスの市民から敬愛されていたバレット師は、その地でハリエットを実子同様に育てたという。また、バレット師の監護下、彼女には宗教の教えが施され、劇場に関することは目に入らぬよう、慎重に配慮されたとのことである(『俳優列伝』)。1809年、パレット師は死去し、8歳になろうとしていたハリエットは、「思いやりのある貴重な友人を失った」(同)。その後、彼女はウォーターフォードの寄宿校( seminary )に入学したが、そこでも「演劇についての考えを受け入れることはなく[略]、学芸会の劇を観ることすら嫌がった」という(同)。しかし、父親の健康の衰えから(同)、また、おそらくは彼の劇団経営が苦境に陥ったことが真の理由で(『美しきオフィーリア』)、彼女の劇場デビューが父親から期待されるようになった。彼女は、「自らの希望というより義務感から」それに同意し(『俳優列伝』)、1814年5月、ダブリンの王立劇場でデビューした(当時14歳)。

ハリエットはその後、アイルランドのベルファスト、英国バーミンガムの劇場で演じ(1816ー1817年)、次いでロンドンの2大劇場の一つ、ドルリー・レーン劇場でデビューした(1818年1月。17歳)。当時、2大劇場(他の一つはコヴェント・ガーデン)は著しい経営不振に陥っており(『美しきオフィーリア』)、その影響でハリエットも1819年秋に一旦雇い止めになったが、翌1820年秋には(減額された報酬で)再入団し、以後、1827年秋に有名なパリでの英国劇団の公演(回想録18章参照)に加わるまで、シーズン中は同劇団で演じている。

さて、『俳優列伝』の著者、ウィリアム・オクスベリー(1784/12/18 – 1824/6/9)は、ごく若い頃に印刷業者の見習いから喜劇役者に転じ、その後英国各地での劇場出演を経てドルリー・レーン劇場の劇団に加わり(入団年不詳)、1820年のシーズン前に、報酬減額を拒んで退団するまで、同劇団のメンバーだった人である。俳優業の傍ら文筆業にも従事し、一時は演劇に関する定期刊行物『The Monthly Mirror』(後の『The Theatrical Inquisitor』)を編集していたとのことである(情報の出所:『俳優列伝』第1巻「オクスベリー」の項)。著書『俳優列伝』は、彼の死後、妻が遺稿を整理して出版したものだという(『美しきオフィーリア』p.194, n.1。なお、同注によれば、同名の息子ウィリアムは、ハリエットが組織した1832ー33年のパリ英国劇団に参加したという)。以上のことから、『俳優列伝』の伝えるハリエットの生い立ちは、著者オクスベリーが、ドルリー・レーン劇場の年長の同僚劇団員、かつ、演劇記者として、ハリエット本人に取材したものである可能性が高いことを指摘することができる(『美しきオフィーリア』p.4、p.194参照)。

上に掲げたフェラン宛の手紙で、ベリオーズが「子どもの頃から置かれてきた立場の中での彼女の振る舞いは全く驚くべきもので」と書いているのは、ハリエットが彼に明かした、以上のような彼女の生い立ちを踏まえての感懐なのであろう。

なお、『俳優列伝』は、著者の死去した1824年12月より前、すなわち、ハリエットが1827年秋の英国劇団のパリ公演で一躍有名になる数年前の時点で、彼女の生い立ちと経歴を説明し、その女優としての力量や将来性について論評を加えた書物であるが、その批評は、一貫してハリエットに対し好意的・同情的で、彼女が多くの長所・美点を持ちながらその力をロンドンの舞台で発揮する機会に恵まれずにいることを惜しむ内容となっている。そこで、以下においては、著者の主張の要旨を、同書からの抜粋を、必要に応じ(「コメント」欄で)他ソース(『美しきオフィーリア』等)からの情報で補いつつ、掲記する形で紹介し、参考に供したい。

「我々は、ロンドンはまだ彼女の力に発揮の場を与えていないと述べた。それが事実である理由はたくさんある。第一に、彼女の声は、彼女が出演している途方もなく大きな建物には、到底足りない。広大な空間が、彼女の骨折りを打ち消しているようにみえる。そして彼女は、1年のうち 10ヶ月を契約しているドルリー・レーンの本拠での出番が、10夜に満たない契約のリバプールでのそれよりはるかに少ない。いま強いられている大きくなりすぎた容れ物によって損なわれている才能の量は、恐るべきものだ。」(『俳優列伝』)
(コメント)
「途方もなく大きな建物」、「大きくなりすぎた容れ物」とは、いずれもドルリー・レーン劇場のことである。『美しきオフィーリア』によれば、当時、同劇場の客席の収容人数は3千人を超え、女優たちはしばしば声が聞こえないと非難され、最盛期の名優キーンに関してさえ、(特に彼が声を使い果たしたときには)「大部分の客席でその声が全く聞こえない」旨を指摘する記事が書かれたという(同書p.18)。
なお、比較対象として、例えば、ハリエットが大成功を収めた1827年のパリ公演の会場、オデオン座の客席は、約1700人を収容したという(同書p.58)。

「スミッソン嬢は、中規模の劇場で一流の女優になるだろう — 彼女はそのための必要条件をすべて備えている。[略]自然の優しい感情の描写において、彼女に匹敵する役者はほとんどいない。」、「スミッソン嬢の最大の短所は、自らの力に対する自信の不足であり、おそらくは、現下におけるその力の使用の誤りであると思われる。センチメンタルな喜劇と、悲劇の軽めの役が彼女の得意分野だ。[略]我々は、コーディリア[シェークスピア『リア王』の登場人物]、ジュリエット[同『ロミオとジュリエット』の登場人物]、[略]等の役を示唆する。」(『俳優列伝』)

「スミッソン嬢があれほど見事にデズデモーナ[シェークスピア『オセロ』の登場人物]を演じたのに、なぜその役を他の女優に委ねなければならなかったのかは、問うてよいだろう。[略]そうすることでその劇が何も得られないのに、なぜ感情を傷つける必要があるのか?無能な者の肩から重荷を取り上げ、それを才能ある者の肩に担わせることは称賛に値する。しかし、何の利益ももたらさない単なる交換は、不合理で狭量だ。[略]スミッソン嬢もまた、その被害者だ。」、「特定の役に新人女優を抜擢しつつ、前任者を同じ作品の二次的な考慮対象の一つ[補欠のことか?]に配することで、その女優の立場、そしておそらく才能を貶めるのは、正当なことだろうか?だが、これはドルリー・レーン劇場で常に行われていることだ。」、「スミッソン嬢はまだ非常に若いので、数年後には膨大な数の役を保有することになるかもしれない。だが、今のところ彼女はそれらの役から締め出されている。」(『俳優列伝』)
(コメント)
『美しきオフィーリア』によれば、1821年秋、ハリエットはドルリー・レーン劇場でキーンの相手役としてデズデモーナを演じ、大いに好評を得た。それは、彼女がロンドンで初めて得たシェークスピア劇の重要な役だった。だが、この役は、結局彼女のものにならず、別の女優に渡った(同書pp.28 – 29)。

「私生活においては、スミッソン嬢は精査にも動じる必要がない。彼女の品行は、継続的でぶれのない正しさの連続だ。普通の美しさを超えて美しく、それでいて美しいのと同じくらいに有徳である。劇場のすべてのメンバーに気さくに接し、誰にもおもねらない。彼女は、引き立ててもらうために興行主に媚びたり、自身の利益のために自らの感情を商(あきな)ったりしたことがない。彼女の人柄は、『ひとつの純粋で完全なクリソライト[宝石として用いる橄欖石]』だ。」(『俳優列伝』)

「この豊かさと幸福の国で、我々が、スミッソン嬢がその際立った特徴となっている家庭以上に申し分のない、あるいは幸せな家庭を見出すことができるかどうかは、疑わしい。数多くの娘たちの中で彼女は最良の娘であり、問い得るのはただ、彼女の親への愛と妹への愛の、どちらが最高であるかということだけである( In this land of plenty and of happiness, we question if a more beauteous or happy domestic circle can be found, than that of which Miss Smithson forms a prominent feature. She is the best of daughters; and it only admits of question, whether her parental or sisterly affection is the greatest. )。」(『俳優列伝』)
(コメント)
父スミッソン氏の死後、ハリエットは、母親と障害を持つ妹アンの生活の主要な支え手となった(『美しきオフィーリア』p.31)。

ブルーム編『回想録』によれば、父ウィリアム・ジョゼフ・スミッソンの没年は1824年である。なお、生年は不詳のようである。また、母ハリエット・スミッソンと兄弟ジョゼフ・スミッソンの二人は、生没年とも不詳のようであり、妹アンは生年1813年頃、没年1836年である(同書p.769 n.12 )。

時は下り1830年(フランス「7月革命」の年)、パリ・オペラ・コミック座での出演を受諾したハリエットは、母と妹を伴って渡仏し、5月10日、同劇場で初演した。ところが、6月半ば、この公演は突然休演になり、興行主たちも所在不明になってしまう。ハリエットは、それまでの出演の報酬も受け取らぬまま、仕事を失ってしまった(『美しきオフィーリア』p.115)。7月革命の後、彼女が、オルレアン公であった時に英国劇団の公演に度々臨席していた新国王、ルイ・フィリップに宛て救援を求めた手紙が残っており(8月15日付。英国国立図書館蔵)、そこには、(要旨)(彼女は)「年老いた母親と病気の妹を連れて千マイルも旅した」、「その二人はいずれも生計を[ハリエットの]子供の頃からの職業上の骨折りに依存してきた」等と書かれているという(同書pp.119,199)。これらの言葉からは、ハリエットが父親を亡くすよりかなり前から家族の生計を支えていたこと、また、遅くとも父親を亡くしてからは地方や国外へ巡業に出る際には母と妹を帯同していたことが分かる。

(参照文献)
Oxberry, William, Dramatic Biography and Historic Anecdotes vol.2. London, 1825(Internet Archive所収。pp.195 – 208にハリエットの伝記。(本注で『俳優列伝』と表記)
同vol.1。pp. 222 – 241にオクスベリーの伝記。
インターネット・アーカイブ所収
(第2巻[ハリエットの伝記を含む巻])
https://archive.org/details/sim_oxberrys-dramatic-biography-and-histrionic-anecdotes_1825_2
(第1巻[オクスベリーの伝記を含む分冊])
https://archive.org/details/sim_oxberrys-dramatic-biography-and-histrionic-anecdotes_1825-04-02_1_14

Raby, Peter, Fair Ophelia, Cambridge University Press, London, 1982。(本注で『美しきオフィーリア』と表記)</span/>

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