凡例:緑字は訳注 薄紫字は音源に関する注
1833年3月25日頃[推定]
[エドゥアール・ロシェがベルリオーズに向けて書いた、手紙の下書きとみられる文章(ロシェ家蔵)]
親愛なエクトル、僕は君から2通の手紙をもらった。君は、1通ではもう結婚する必要はなくなったと言い、もう1通では2度目の「丁重な証書( acte respectueux )」を直ちに差し出して欲しいと言う。申し訳ないが、僕はもう、君から依頼された役目を果たすことができない。
僕は、君のお父さんとご家族とがこの結婚にこれほどはっきりと反対する理由を、非常に注意深く検討した。そうして、お父上とご家族とは、君に対し、僕自身の息子が君と同じような状況に陥った場合に僕自身がそうするだろうと思うとおりに行動しておられると、心底確信するようになった。そうだとすれば、僕の考えでは、そのような確信が心中にあるにもかかわらず、君のお父さんに「丁重な証書」の差し出しを続けることは、僕を君の友に最も値しない者にしてしまうことになる。
君への最初の手紙で僕がしたスミッソン嬢に関する情報提供の求めに、君が全く応じてくれていないことも、僕の考え方を一層固める方向に作用している。僕が示した危惧は、君にも、何らかの説明を行うに値する重要性があるものと感じられたに違いないのだ。君の返事が来ないので、僕は他の知り合いに手紙を書いたが、最も事情に通じた人々からの返事は、僕の懸念を裏付ける内容だった。僕がいま取っている行動の理由は、以上のとおりだ。このことを理解してくれる公正さを、僕は君に期待している。
君は新たな受任者に新たな委任状を送る必要がある。僕の受け取った委任状は、初回のソマシオンの関係書類に添付されていなくてはならず、他の人[への委任]には使えないからだ。僕はシミアンに、僕の介在なしにソマシオンを行う気があるかどうか訊いてみた。ソマシオンを実行するには彼[公証人であるシミアン]にそれを義務付けることのできる[ベルリオーズからの]受任者の要請が必要だ、というのが彼の回答だった( Il m’a répondu qu’il ne les donnerait que sur la demande d’un mandataire qui pourrait l’y contraindre. )。
エクトル、最後に、ある一つの考えを記すことを許してくれたまえ。君は29歳だ。君は、一つの芸術分野での職業人としての歩み( ta carrière dans un art )で有名になることを約束されていた。その歩みは、君の天賦の才に導かれ、素晴らしい発展を遂げるに違いないと見えていた。それなのに君は、こうした未来のすべてを、君の歩みを途中で止めてしまうだろう致命的な愛のために犠牲にして、君の本当の運命から離れて自らを無頓着に傷つけ、自らをこの上なく不幸な人間にしてしまっている。この人を幻惑する影響力( cette influence trompeuse )から逃れる術は全くないのだろうか。(了)[書簡全集330]
訳注/この文章について
これは、実際の手紙ではなく、ラ・コートのロシェ家に残されていた、エドゥアールがベルリオーズに向けて書いた、手紙の下書きと推測される文章である[書簡全集2巻p.93 n.1]。これと同趣旨の手紙をベルリオーズが実際に受け取ったらしいことは、この後に続く手紙[3/29シャラヴェル宛、4/20ロシェ宛]の内容から推測することができる。ただし、そのような手紙は、ベルリオーズが受け取ったに違いない他の多くの手紙と同様、残っていない。
この文章の作成日については、文章の内容に3月21日付のベリオーズの手紙の内容が反映されていることから、この手紙を受け取った日〜すなわち21日の数日(=郵送に要する日数)後〜より後に書かれたことが推測され、3月29日付のベルリオーズの手紙(シャラヴェル宛)にこの文章の内容(エドゥアールが2回目以降のソマシオンに協力できなくなったこと)が反映されていることから、この日(29日)の数日(=郵送に要する日数)前までに書かれたことが推測される。そこでいま、郵送に要する期間を足掛け3日と仮定すると、この文章の作成日は3月23日から27日までのいずれかの日ということになり、同様に4日と仮定すると、3月24日から26日までのいずれかの日ということになる。そこで、当館においては、以上を考慮し、大まかに「3月25日頃」との推定を採用することとした。
なお、この文章の出典である書簡全集2巻は、この文章が書かれた日を「3月24日から4月10日まで」と推定し(p.93)、「4月10日」についての判断理由を脚注で示している(同n.1)。これらの日付のうち、「3月24日」に関しては、特に説明されてはいないものの、上記21日付のベルリオーズの手紙の推定到達日を配達所要日数足掛け4日として計算したものではないかと推測される。他方、「4月10日」に関しては、上述の脚注において、上記シャラヴェル宛の手紙の内容に触れるところがなく、この点が考慮されていないようである。