手紙セレクション / Selected Letters / 1829年12月28日(26歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、1829年12月28日
ナンシー・ベルリオーズ宛

可愛い妹よ、
君の手紙は、失われなかった。イポリトが、律儀に、僕に届けてくれた。君に気に入ってもらえそうな、2声のロマンス[歌曲]を3曲、見つけてある。一つは、オンスロウの魅力的な作品だ。それらは、いま、書籍商のところにあり、店主は、それを書籍の荷袋と一緒に発送すべく、前々回のお父さんへの積荷に投じた資金が回収されるのを待っている。手配はすべて済んでいるから、遅れは生じないだろう。
つい最近、支払いに160フランもかかる衣類一式を注文したことを、お母さんに報告しなくてはならない。お察しのとおり、資金はこれで底をつく。[ Je dois dire à maman que je viens de me commander un habillement complet qui me coûte 160 f. ce qui met bas comme tu penses.]だが、僕の衣類は、みなひどく擦り切れて、これ以上着られなくなってしまっている。今年の冬は、社交界への出入りがたいそう頻繁で、身なりに気を使わなければならない場面が増えている。僕は、折りたたみネクタイ数本と、替えカラーを数ダース、買った。
有名な音楽愛好家のド・トレモン男爵は、毎週日曜午後2時に、マチネ(昼の開催)の立派な音楽会を催しているが、僕は2週間前、カルクブレンナー[有名なピアニスト・作曲家]の家で男爵と一緒に食事をしたときに、この催しに招かれた。日曜の夕方は、僕の大ファンでいてくれている、裕福なドイツ人の音楽愛好家、レオ氏の家に出掛けている。ブランジーニの退屈なノクターン[夜想曲]を、我慢して聴かねばならないことも、たまにはあるが、多くはなく、たいていは、良い音楽と、美味しいお茶がある。大勢の人が来ていて、大いに快適に過ごしている。頻繁ではないが、火曜日には、マゼル氏の夜会に行くこともある。この人も音楽愛好家で、感じのよい集まりを主催している。音楽家がたくさん来るが、ときには、小さな女の子たちがプレイエルのソナタを披露することもある。午前中、現代文学のメフィストフェレス、ド・ラトゥーシュ氏に会いに行くこともある。僕の出版業者、シュレザンジェも、金曜日、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の演奏会を開いているが、演奏の出来は、まちまちだ。聴衆は、最初、男性だけだったのだが、近ごろは、女性たちが入り込んできて、それがまた、みな、ひどく不器量[ laid(es) ]なのだ!・・・頭を揺すって拍子を取り、たおやかなユリの花を気取っているのだが、ケシの花がせいぜいで、しかも、まるでこうした作品が理解できてでもいるかのように、喜びの微笑を浮かべている、そうした女性客以上に手におえないものが、君に想像できるだろうか?
そして、あとの時間は、いつも仕事をしている。それと、合間には、いつも新作を読んでいる。ホフマンの『幻想物語』( Contes fantastiques )は、とてもよかった。『アメリカの清教徒( Le Puritain d’Amérique )』[ジェームズ・フェニモア・クーパーの作品]にも、とても感動した。トマス・ムーアのバイロンの伝記が出るのを待っている。ムーアといえば、僕は彼に、僕のアイルランド歌曲集を献呈しようと考えている。
そして、僕は、9割がたの時間、ありとあらゆるものに、苛立っている。製版業者が僕との約束を破る。リトグラフ職人がつまらぬミスばかりする。長靴に水が浸みる。歯が痛い。鼻が痛い。何もかもに、僕は腹を立てる。ピアノをげんこつで叩く。叩き壊し、消し去りたいと願う・・・すべてのものを。僕は外に出る。僕は凍える。モンマルトルの丘に上る。着く頃には、身体が熱くなっている。水辺のない広い平野が見える。ラ・コートを思う。君たちのことを。機嫌が直る[je reviens ]。モンマルトルの墓地が見える。僕は想う、ハムレット、シェークスピアを。人生、苦悩、死を。目的のない衝動[ le mouvement sans but ]、不活発状態に至る道のり[ la course qui mène à l’inertie ]、短くも至高の幸福の可能性、めったにない出来事のこと[ la rareté du fait ]などを。すると、僕は、すべてのものに、際限のない嫌悪を感じる。それから、哲学のことを考える。突然、哄笑する。歯ぎしりする。そして、音楽のことを思い出す。すると、僕は紅潮し、再び真剣になる。立ち止まり、思考し、構想する。自分の心臓の鼓動がきこえる。僕は、生きている。
さあ、グラスに一杯、水を飲もう。
[フェルディナント・]ヒラーは、普通、11時に僕を迎えにくる。僕らは、一緒に昼食を摂る。何か新しい作品を作ったときには、彼が作った場合も含め、2人で上等のピアノに向かい、その新しい作品が、ピアノで演奏できるものである限り、彼がそれを演奏し、2人で意見を交換する。ただ、彼は、バッハのフーガが大好きだ。とはいえ、僕が入ってきたことに気付くと、彼はその本を閉じる。弾き続けていれば僕が退散してしまうと分かっているからだ。僕は呪術書のようなこの本が嫌いだ。この音楽は、僕には、ピアノの鍵盤の上で子猫がじゃれているときの音のように聞こえる。あるいは、水の入った1ダースもの瓶から中身をいっせいに捨てるときの音のように、といってもよい。彼は、そうして、ベートーヴェンのアダージョを演奏することにする。彼はそれを完璧に弾く。音楽が終わると、僕らは、2人のどちらかが涙を流していない場合でも[「ほとんどいつも、僕らは涙を流さずにいられないのだが、」の含意であろう]、何も言わず、一瞬、互いを見交わす。・・・深いため息。・・・長い沈黙。そうして、僕らは、別れる。雲上の宮殿を下り、パリという、この巨大で不潔な市場(いちば)で[ dans ce grand et sale bazar de Paris 。「バザール」の語は、中近東や北アフリカの「市場」を意味するほか、「乱雑な場所」のたとえにも用いられる。また、かつては、「売春宿」の意味もあったようである(小学館ロベール仏和大辞典)。]、愚か者やペテン師たち、芸術家を気取る音楽の行商人たち、口角沫を飛ばしてモーツァルト、ベートーヴェン、スポンティーニ、ウェーバーを語り、あれこれと反対意見を開陳している、取るに足らぬ連中と、付き合うために。・・・そうして僕は、コッコッと愚かしく鳴きながら、自分たちの汚物からときどき目を上げ、まるで挨拶でもするかように、血走った目で太陽[ベートーヴェンらの巨匠たちのことであろう]を見ている、あの去勢鶏たちの姿を、思い浮かべるのだ。
[譜例~略。『アイルランド9歌曲』第8曲、『さよなら、ベッシー』のリフレイン。本来の歌詞、「さよなら、ベッシー、さよなら、ベッシー、僕らはまた会うだろう。」の呼びかけを、「さよなら、ナンシー」に置き換えたもの。]
(了)[書簡全集148]

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