凡例:緑字は訳注
パリ発、1829年9月9日
ナンシー・ベルリオーズ宛
愛しい妹よ、
僕は、君からの手紙にも、とても辛い気持ちにさせられた。僕自身、2か月間君たちと過ごしに帰るためになら何でもするつもりでいただけに、君の切実な[帰省の]求めに抗うには、力を奮い起こさなくてはならなかった。出発の支度さえ、僕は、始めていたのだ。だが、今日になってみると、帰省は、もはや論外だ。お父さんの手紙には、僕がお願いしていた月50フラン[5万円程度か]の仕送りを、してくれると書いてある[ローマ賞が選外になったとの報せを受け、べルリオーズ医師は、当初、仕送りの打ち切りを通告した~ケアンズ1部22章]。僕の感謝の気持ちを、お父さんに伝えてください。お父さんになるべく負担をかけないように、僕は、あらゆる努力をするつもりだ。それでも、君にも十分わかると思うが、パリでは、年600フランでは暮らしていけない。だから、僕は、この窮地を乗り切っていく必要があり、そのための機会を、逃す訳にいかないのだ。
僕は、2人の生徒に作曲を教え始めたところで、レッスンがきちんと続けられれば、月54フランの収入が、それで得られる。これを放り出すことはできない。他方、『ギョーム・テル』[ロッシーニのオペラ]の総譜の出版社が、ゲラ刷りの校正と発行の監視の仕事に[ pour corriger les épreuves et surveiller l’édition ]、僕を選んでくれた。これも、いくらかのお金になる。そちらに帰れば、これらをすべて失うことになるが、冬の初め、600フランを手にパリに戻って来たとして、その後、どうすればよいのだろうか?・・・
僕は、このほかにもたくさんのことを始めていて、それらも、いまは、手が離せない。諸聖人の祝日[11月1日]に、『ファウスト[の8つの情景]』のうちのいくつかの曲を公開演奏できることが、ほぼ確実になっていて、十分に時間をかけてその演奏の準備をしなければならない。そういうことで、いまはどうしても、パリを空ける訳にいかないのだ。けれども、もし年内に、パリを離れることができる機会がみつかったら、約束するが、僕はそれを逃さない。
ロシェさんとは、彼が着いた日にお会いした。オペラ座の1階席で、ばったり出会ったのだ。氏は、そこで、ちょうどひと寝入りしたところだった。この偶然を、彼は、たいそう喜んでいた。
アルフォンスは、解剖学の助手職の試験の勉強をしている。採用にならなかったら、もう受けるつもりはないそうだ。
『コレスポンダン』誌のためのベートーヴェンの生涯の記事は、とうに仕上がっている。印刷すれば、少なくとも9段になる。ところが、その後、あきれるくらい長いこと待たされてしまっていて、もう何度も苦情を言わねばならなかったほどだ!この仕事を僕に依頼してきたのは、彼らだというのに。編集部内に勝手な連中がいて、自分たちの記事ばかり通しているのだ。僕の記事の掲載が遅れてしまっていることの、それが理由だ。
さようなら。君を抱擁します。愛する君の兄、
H.ベルリオーズ(了)[書簡全集135]
訳注/本文注の円換算は、1フラン=千円の換算率に拠った。その出典については、1825年12月12日妹ナンシー宛の手紙の訳注(末尾)参照。