『回想録』 / Memoirs / Chapter 04

目次
凡例:緑字は訳注 薄紫字は音源に関する注

4章 父による音楽の最初のレッスンのこと、作曲の試みのこと、骨学の勉強のこと、医学に対する嫌悪のこと、パリに出たこと[抄訳]

音楽は、初恋とともに、12歳のときに私の前に姿を現わしたと、前章で述べたが、それは正確には、作曲のことであった。というのも、私は、その年齢のときには、すでに初見で歌うことができ、楽器も2つばかり、演奏することができたからである。こうした最初の音楽教育を私に授けてくれたのも、父だった。
私はある日、たまたま引き出しの底を漁っていて、1本のフラジョレット[縦笛の一種]を見つけ出した。すぐにそれが吹きたくなり、当時人気のあった歌、「マールボル」を演奏しようとしたが、さっぱりうまくいかなかった。
父は、その甲高く耳障りな音を非常に苦痛に感じ、部屋に来ると、お前が選んだその音の美しい楽器の指使いと、勇壮な「マールボル」[YouTube : Malbrough s‘en va t’en guerre]の吹き方を教えるから、その時間ができるまで、静かにしていてくれないかと懇請した。そしてそれから、さしたる困難もなくそれらのことを私に学ばせた。私は、二日のうちには、「マールボル」を吹きこなし、家族全員を楽しませるまでになったのである。
すでにここに、管楽器の効果的な用い方についての私の適性を見ることができるのではあるまいか?・・・(ひとかどの伝記作者であれば、このような巧妙な推論を行わずにいないと思う・・・。)この出来事をきっかけに、父は楽譜の読み方を私に教える気になった。彼は、記譜に用いられる各種の記号の明確な意味や、それらが果たす役割を私に教え、その習得の手ほどきをしてくれた。その後間もなく、彼はドヴィエンヌの「フルート教本」とフルートを私に渡し、フラジョレットのときと同じように、その奏法も教えてくれた。私はきわめて熱心に練習し、7、8か月後には、かなり上手に吹けるようになった。父は、私が見せた才能をさらに伸ばしたいと考え、ラ・コートの町のいくつかの裕福な家の人々を説いて、共同でリヨンから音楽の先生を招くことにした。計画はうまく運んだ。セレスタン劇場の第2ヴァイオリン奏者で、クラリネットも吹ける人が、一定数の生徒がつくことの保証と、国民衛兵の軍楽隊の指揮者となって一定額の報酬を受けることの二つの条件の下に、私たちの小さな田舎町に転入し、この地の住民の音楽化を試みることになったのである。その人の名はアンベールといった。彼は、日に2回、私にレッスンをした。私は美しいソプラノの声をもっており、間もなく、自由に楽譜を読みこなし、まずまず上手に歌い、ドゥルーエの非常に難しい協奏曲のフルート独奏も吹きこなすようになった。アンベールには、私より少し年上で、ホルンの名手の息子がいて、私は彼に好かれていた。ある朝、彼は、メランに発とうとしている私に会いに来た。「おやおや!さよならも言わず、出ようとしていたのですか?」と彼は言った。「僕を抱擁してくれませんか。もう二度と会えないかもしれないのだから。」私は、若い友人の不可解な態度と、思いがけず改まった別れの言葉を不思議に思った。だが、メランを訪ね、光り輝くステラ・モンティス(山の星)を再び目にするという、無上の喜びを目前にしていたので、そのことはすぐに忘れてしまった。ところが、メランから還ると、この上なく悲しい報せが、私を待っていた。若いアンベールは、私が発ったその日、彼の両親が留守にしている短い間に、家で首を吊ってしまったのである。自殺の動機は、誰にも分からなかった。
私は、色々な古い本のなかから、ラモーの和声論をダランベールが要約し、注釈を付けたものを見つけ出していた。私は、この本の難解な理論に、幾夜も取り組んだが、少しも理解できなかった。それというのは、著者がこの本で述べようとしていることを理解するには、この著作が依拠している和音の原則と実験物理学の一部門とを熟知している必要があったからである。要するに、この本は、すでに和声のことを知っている人のための和声の教科書だったのである。それでも、私は作曲がしたかった。私は、ごく常識的な和音やバスを付けることもできぬまま、2部で書かれた作品を、3部、4部の音楽に編曲していた。だが、とうとう、地元のアマチュア奏者たちが日曜日に演奏していたプレイエルの弦楽四重奏曲を聴くことと、また、どうにか手に入れていたカテルの和声の教科書を参照したことで、和音の構成と進行に関する謎を、いわば突然、理解することができた。すぐさま、私は手持ちのイタリア歌曲集に載っていた旋律を用いて、一種の6部のメドレーを書いた。その和声は、悪くないように思えた。この第一歩に自信を得て、私はフルート、二つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための5重奏曲の作曲に取り組み、アマチュアの友人3人と、私の先生と私とで、その曲を演奏した。
この曲は、大成功を収めた。ところが、父だけは、他の人々の賞賛意見に同調していないようだった。2か月後、二つ目の5重奏曲が出来た。父は、第1ヴァイオリンのパートを聴くだけで弦楽四重奏曲全体を評価できると考える、田舎のアマチュアに共通してみられる習慣に従い、この曲全体の演奏を私にさせる前に、フルートのパートを試聴することを望んだ。私はそれを彼に吹いて聴かせた。すると彼は、あるフレーズのところで叫んだ。「これはよい、これこそ音楽というものだ!」だが、この5重奏曲は、最初のものよりはるかに野心的な作品で、演奏もずっと難しかった。そのため、私のアマチュアの友人たちは、この曲を満足に演奏することができなかった。特に、ヴィオラとチェロは、ひどく難儀した。
私は、このとき12歳半だった。私が20歳になっても音楽の基礎を知らなかったなどと、最近になってもまだ書いている伝記作者たちは、奇妙な誤解をしている。
2つの5重奏曲は、作曲の数年後、廃棄した。だが、不思議にも、ずっと後になって、私が最初の管弦楽作品をパリで書いているときに、2番目の習作の、父に認められたあのフレーズが、頭の中に甦ってきた。私は、その作品に、その旋律を取り入れることにした。『秘密裁判官』[『宗教裁判官』とも訳されている。YouTube : Les francs-juges / 全集1(1)。]序曲の、アレグロが始まった少し後、第1ヴァイオリンが変イ調で呈示する旋律[左記CD 04:20 辺り]が、その旋律である。
悲しく謎に包まれた息子の死の後、気の毒なアンベールは、リヨンに帰った。彼はその地で亡くなったと記憶している。ラ・コートでの彼の仕事は、ドランという、いっそう熟達した音楽家によって、ほとんど直ちに受け継がれた。ドランは、コルマール出身のアルザス人で、ほとんどすべての楽器を演奏することができた。特に、クラリネット、チェロ、ヴァイオリン、ギターは、名手級の腕前だった。彼は、私の上の妹[ナンシー]にギターのレッスンをした。彼女は、良い声をもっていたものの、音楽の素質はまったくなかった。彼女は、楽譜を読めるようにも、ロマンスのひとつも初見で歌えるようにもならなかったが、音楽は好きである。私は、はじめは彼女のレッスンに同席し、その後、希望して自分もレッスンを受けるようになった。だが、誠実で個性的な音楽家だったドランは、ある日、ぶっきらぼうに父にこう告げるに至った。「ご子息には、もうこれ以上ギターのレッスンはできません!」「そうですか。それにしても、いったいなぜです?何か貴方に失礼なことでもしたのですか?それとも、あまりに呑み込みが悪く、お手上げということですか?」「そんなことではありません。ただ、これ以上レッスンを続けることには、意味がないのです。ご子息は、私と同じくらい上手に弾けるのですから。」
という次第で、私は、フラジョレット、フルート、ギターという、3つの素晴らしい楽器の名手だったのである!この思慮深い楽器の選択に、管弦楽上の壮大な効果と、音楽におけるミケランジェロ的なものへと、私を駆り立てていく、自然の推進力を感じ取らないでいられようか!!フルート、ギター、フラジョレットである!!!・・・私が演奏能力を身につけた楽器は、これがすべてである。だが、私は、十分立派なリストだと感じている。いや、もうひとつ言い落していたものがあった。私は「太鼓」も演奏できる。
父は、私にピアノを学ばせることを望まなかった。そうでなければ、私は疑いなく、無数にいる「恐るべき」ピアニストたちの1人になっていただろう。父は、私を芸術家にするつもりはまったくなかったから、おそらく、私がピアノに魅了され、彼が望んだ以上に音楽に熱中するようになることを危惧したのだろうと思う。この技能が自分に欠けていることを残念に思うことは、しばしばあった。ピアノが弾けることが役立つ場面は、多かったと思う。けれども、ピアノのせいで日常的に生み出されている、あきれるほど多くの陳腐な音楽(恥ずべきほど陳腐で、それにもかかわらず、それらの作曲者の多くが、もしこの音楽の万華鏡[ピアノのこと]に頼ることを許されず、ペンと紙しか与えられていなかったならば、おそらく書けなかったであろうと思われる音楽)のことを思うと、私はただ、黙って自由に作曲することを私に余儀なくさせ、そうすることで、指の習慣の専横(それは思考にとって非常に危険なものである)と、型にはまったソノリティの誘惑(これもあらゆる作曲家が多かれ少なかれ陥りがちなものである)から私を救ってくれた偶然に、感謝するほかないのである。多くの音楽愛好家が、私に関し、これと反対の残念がる気持ちを表明しているが、私自身は、そうした見方に心を動かされることはないのである。
思春期の私の作曲の試みは、深い悲しみ(メランコリー)の刻印を帯びていた。ほとんどすべての旋律が、短調だった。私はその欠陥を自覚していたが、どうすることもできなかった。メランでのロマンティックな恋愛感情が、私の思考に黒い喪のベールを掛けていたのである。このような心の状態で、フロリアンの『エステルとネモラン』を繰り返し読んでいたのであるから、この田園小説にたくさん出てくる歌(ロマンス)(特に面白みのないものであるが、当時の私には、たいそう好ましく思えていた)のいくつかに曲を付けるようになるのも、自然な成り行きだった。そして、実際、私はそうしたのである。
そのような作品のひとつとして、私は、「かの足跡の栄誉受け、かの目の輝きに照らされた」(原注)、そして、私のあの残酷な美しい人の薔薇色の編上靴の栄誉も受けていた、メランの地の木立や種々のお気に入りの場所を後にしなければならないことへの、私の絶望感をよく言い表していた歌詞に、非常に悲しい旋律を付した。その淡い色の詩句は、いま、ここロンドンの地で、様々な心配事に苦しみ、深刻な不安に悩まされ、他の街と同じようにこの街でも私の前に立ちふさがっている多くのばかげた障害に腹を立てている間にも、一条の春の陽光に照らされつつ、甦ってくる。・・・その最初の連は、次のようなものであった。

だから僕は永遠に後にする、
愛する故郷を愛しい人を。
遠く離れて僕は行く、
深い悲哀と悔いのなか!
清流の明るく澄んだ水の上、
優しく映る面影を、
後に残して僕は行く。

Je vais donc quitter pour jamais
Mon doux pays, ma douce amie,
Loin d’eux je vais traîner ma vie
Dans les pleurs et dans les regrets!
Fleuve dont j’ai vu l’eau limpide,
Pour réfléchir ses doux attraits,
Suspendre sa course rapide,
Je vais vous quitter pour jamais

このロマンスの旋律は、すでに述べた6重奏曲と2つの5重奏曲とともに、パリに出る前、廃棄した。ところが、1829年に『幻想交響曲』を書き始めたとき、その旋律が、私の脳裏に慎ましく甦ってきた。それは、望みのない愛に苦しめられるようになった若者の心の中の打ちのめされるような悲哀感を表すのに適していると思ったので、私はそれを迎え入れることにした。『幻想交響曲』の『夢想、情熱』と題された第1楽章の冒頭、第1ヴァイオリンが奏する旋律がそれである。私はもとの旋律を一切変えずに用いた[全集6(2)〜本章の記述を基に復元された音楽の演奏]
これら様々の音楽に関わる活動をし、読書、地理、キリスト教信仰に夢中になり、初恋に伴う心の落ち着きと動揺の入れ替わりを経験している間にも、職業従事に備えるべきときが近づいていた。父は、私を自分と同じ医者にするつもりだった。それ以上に立派な職業は、父には、考えられなかったのである。そのため、彼は、ずっと前から、私に自分の意図を悟らせようとしていた。
他方、この件についての私の感情は、それ以上強い意見はあり得ないほどの父の考えに対する反発であったから、私の方でも、折に触れ、それを力説していた。私は、自分の感じていることをはっきりと認識してはいなかったが、病床、施療院、解剖室といったものとは遠く隔たったところで送る生涯を予感していた。自分の夢みるものが何であるかについては、自分自身に対してすらまだ敢えて認めようとはしていなかったものの、私は、自分に医学の道を歩ませようとするいかなるものにも、断固、抵抗しなければならないと感じていた。その頃、私は、『総合列伝(Biographie universelle)』シリーズに載っていた、グルックとハイドンの伝記を読んで、深く心を動かされていた。これら2人の偉人の生き方を知り、私は思った。何と輝かしい栄光だろう!なんと素晴らしい芸術だろう!このようなものに生涯を捧げるとは、なんという幸福だろう!その上、見かけ上はたいそうとるに足りない、ある出来事が、私のこの思いをさらに強め、神秘的で壮大な音楽の世界の様々な眺望を遠く瞥見させてくれる突然の光となって、私の精神を照らしたのであった。
私は、管弦楽や声楽の総譜を、まったく見たことがなかった。知っている楽譜といえば、低音に和音数字を付した声楽練習曲(ソルフェージュ)と、フルート独奏曲と、ピアノ伴奏の付いたオペラの抜粋曲集だけだった。ところがある日、私は、24段の5線譜表が引かれた一枚の総譜用紙を、たまたま手に入れた。そして、その見事に並んだ夥しい数の5線譜表を見た瞬間、私は、どれほど多くの楽器や声の独創的な組み合わせの可能性が、そこに開けているかを悟ったのである。私は言葉にならない叫びを上げた。「何というオーケストラが、ここに書けることだろうか!」そのとき以後、私の頭の中は、いっそう音楽で沸き立つようになり、医学への嫌悪が、ますます強まった。だが、それでも、両親を畏れる気持が非常に強かったので、親の意向に背くような考えを口に出すことは、できなかった。そして、まさにそのとき、あたかもクーデターのように、父が、音楽を利用して、彼の言う私の「子供じみた毛嫌い」を一掃し、私を医学修養に向かわせようとする挙に出たのである。
彼は、いずれは日常的に目にしなければならなくなる対象に、早くから私を馴染ませておくため、マンロー(Munro)の巨大な骨学の教科書を書斎で広げ、私にみせた。それには、人の骨格の色々な部分を非常に正確に示した、等身大の図版が付いていた。「これが、お前がこれから修めなくてはならない書物だ。」彼は言った。「お前の医学嫌いがいつまでも続くとは思えない。そんなことは道理に合わないし、根拠もない。他方、もしお前が骨学の勉強に真面目に取り組むと約束するのなら、最新式のキイが付いた素晴らしいフルートを、リヨンからお前に取り寄せてやろう。」それは、私がずっと夢に見てきた楽器だった。何と答えようか?・・・この持ちかけがきわめて厳かになされたこと、父が日頃から、親切ではあったけれども、彼に対する畏れの混じった尊敬の念を私に抱かせていたこと、さらに、とても欲しかったフルートの誘惑がそれに加わったことが、この上なく私を混乱させた。私は、自分の口から消え入るような「はい」の返事が漏れるにまかせた。そして、それから自室に戻ると、完全に気落ちして、ベッドに倒れ込んだ。
音楽という崇高な芸術の偉大さが、ようやく分かってきたというのに、身も心もそれに捧げることなく、医者になるなんて!解剖学を勉強し、人を解剖するなんて!恐ろしい手術の場に加わるなんて!この世で最も陰鬱な場所のために、至高の楽園を捨てるなんて!不潔な病棟の世話係、恐ろしい解剖室の用務係、忌わしい死体、患者たちの悲鳴、死にゆく人々の呻きや喘ぎのために、詩と愛の不滅の天使たちや、神に霊感を得たその歌を、捨てるなんて!
ああ!嫌だ!それは、私という存在の本来のあり方に、絶対的に反していると思われた。あまりにひどいことで、起きてはならないことだった。ところが、それが起きているのだった。
骨学の勉強は、従兄弟のアルフォンス・ロベール(今は、パリで名の知られた医師の1人となっている)と、一緒に始めた。父は、私とともに、彼も教えることにしたのである。ところが、具合の悪いことに、彼はヴァイオリンの名手だった(私の5重奏曲の奏者の1人だった)。そのため、我々の学習時間は、解剖学よりも音楽に、むしろ多くが費やされるようになった。だが、ロベールは、粘り強い家での自習によって、常に私よりもはるかによく父の実地指導を頭に入れていた。そのため、私は父から何度も厳しく叱責され、恐ろしい怒りの爆発を引き出したこともあった。
それにもかかわらず、私はどうにかこうにか、半ば自発的に、半ば強いられて、解剖学について、父が乾燥標本(骸骨)だけで教えられることは、すべて覚えることができた。そして、ロベールの励ましを受け、19歳のとき、本格的な医学修養に取り組むことを決意し、彼とパリに出ることにした[実際にパリに出たのは17歳のとき。ここで19歳と述べているのは、作者の記憶違いとみられる。]
パリでの私の暮らしと、パリに着いてほとんどすぐに経験するようになり、以後、現在に至るまで続いている、様々な考え方、人々、物事との激しい対立を語る前に、ここで、しばしペンを置くこととしたい。読者は、私が一息つくことをお許しくださると思う。
今日、[1848年]4月10日には、2万人の英国のチャーチストたちが、デモを行う予定になっている。数時間のうちには、英国も、ヨーロッパの他の国と同じような騒ぎに呑み込まれ、この地での私の避難場所も、あるいは失われてしまうかもしれない。私は、これから外出し、事態がどうなるのか、見極めてこようと思う。[中略]
さて、私は、この回想を続けようと思う。それよりほかに、なすべき良いことは、何もないのだから。それに、過去を詳しく振り返ることで、現在の状況をしばし忘れることもできるだろう。

原註/ラ・フォンテーヌ「二羽の鳩」

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