凡例:緑字は訳注
パリ発、1829年4月10日
ゲーテ宛
閣下、
数年来、『ファウスト』[第1部のこと。第2部は未だ存在していない。]は、私の座右の書であり、この驚異的な作品について、篤(とく)と考えた結果(私はそれを翻訳の霞(かすみ)越しに見ることが出来たに過ぎないのですが)、ついにそれは、私の精神に、一種の魔法として作用するに至りました。私の頭の中で、貴下の詩的な想念(イデ・ポエティック)を巡り、種々の音楽的な想念(イデ・ミュジカル[=楽想])が集合するようになり、貴下の気高い詩の言葉に、私の非力な旋律を結びつけるようなことは、よもやすまいと心に固く決めていたにもかかわらず、徐々に、その誘惑はきわめて強いものとなり、その魔法はきわめて激烈なものとなっていき、とうとう、それがため、いくつかの情景の音楽が、ほとんど知らぬ間に、形づくられるまでになったのです。
その作品の総譜を、私は、いままさに、出版したところです。貴下にご覧いただくには似つかわしくない、拙(つたな)い作品ではありますが、ここに、失礼を顧みず、貴下への尊敬の印(オマージュ)とさせていただく次第です。貴下の許には、この並外れた詩作品[ゲーテの原作のこと]に触発された、膨大な数と種類の音楽作品が、すでに寄せられているに相違ないと思います。それゆえ、それら多くの作品に続き、さらに本作をお届けすることが、ただ貴下をお煩わせすることにしかならないことを懸念すべき理由が、私にはあります。とはいえ、私は、貴下の住まわれている栄光の雰囲気の中にあっては、無名の者たちが寄せる賛意が貴下の胸を打つことまでは叶わぬにしても、少なくとも、貴下の天与の才に胸がいっぱいになり、イマジネーションをかき立てられた1人の若手作曲家が、賞讃の叫びを上げることを禁じ得なかったことを、貴下がお赦(ゆる)しくださることを、願うものです。
敬具
エクトル・ベルリオーズ(了)[書簡全集122]
訳注/ゲーテへの手紙
この手紙を書くに至った経緯、手紙を受け取ったゲーテの反応については、1829年6月15日付、アンベール・フェラン宛の手紙の訳注参照。