『回想録』 / Memoirs / Chapter 20

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凡例:緑字は訳注

第20章 パリ音楽院でのベートーヴェンの出現のこと、フランスの作曲家たちの憎悪に満ちた留保意見のこと、ハ短調交響曲がル・シュウールに与えた感銘のこと、彼が自分の型にはまった意見に固執したこと

巨大な嵐において、電気のエネルギーをためこんだ雲が、あちこちに雷電を投げつけ、突風を吹きつけているように見えるのと同じように、芸術家の生涯においても、時として、雷が素早く連続して轟音を発することがある。
私は、シェークスピア、ウェーバーの出現を立て続けに経験したばかりだった。そして私は、いままた、水平線の別の地点に、ベートーヴェンの巨大な姿が立ち上がるのを見たのである。その衝撃の激しさは、シェークスピアのそれに匹敵するものであった。ベートーヴェンは、私の行く手に、音楽の新しい世界(monde)を開いて見せた。ちょうどシェークスピアが、詩の新しい世界(univers)を示したのと同じように。
アブネックの熱心で強力な指導の下、パリ音楽院に、演奏協会オーケストラ(La société des concerts du Conservatoire)が組織された。彼には、音楽家として重大な欠点もあったし、自らが崇拝する巨匠[ベートーヴェンのこと]の作品の取り扱いに、思慮を欠く点がみられもしたが、彼が善意であったこと、さらに、優れた手腕をも有していたことは、認めなければならない。また、ベートーヴェンの作品をパリで見事に受容させた功績は、ひとえに彼のものであることを、正当に評価する必要がある。彼は、今日文明世界にあまねくその名を知られている、この優秀な演奏団体を発足させるため、並々ならぬ努力をしなければならなかった。多くの演奏家を説得し、彼らの間に彼と同じ情熱をかき立てる必要があった。だが、はじめ無関心であった彼らは、その頃はただエキセントリックで難しいということだけで知られていた作品[ベートーヴェンの交響曲のこと]について、納得のいく演奏ができるようになるまで、際限のないリハーサルと割に合わない苦労をしなければならないと知らされてからは、むしろ、反発へと態度を変えたのである。
また、アブネックは、フランスとイタリアの作曲家たちの、隠れた根強い反感、様々に偽装された非難、皮肉、仄めかしとも、闘わなければならなかった。その困難は、決して他の障害に劣らなかった。彼らは、自らは奇怪で醜悪な音楽だとみなしていながら、それでいて、内心では自分やその楽派に対する脅威となることを恐れている作品を書いた、このドイツ人[ベートーヴェンのこと]のために、寺院が建立されることは、まったく望んでいなかったのである。この作曲技術とインスピレーションの驚異[ベートーヴェンの作品のこと]に、彼らの幾人かが、何とひどく、愚かしい中傷をするのを、私は耳にしたことだろうか。
私の師、ル・シュウールは、この点について、象徴的な言葉を漏らしたことがある。彼は、人に気難しくしたり人を羨んだりしない性格の、実直な人であり、音楽に深い愛情をもっていたが、敢えて偏見、誤謬と呼ばざるを得ないような、音楽上の種々の定説にも捉われていた。彼は、実質的に引退に近い日々を送り、研究に没頭していたが、音楽院演奏会の創始とベートーヴェンの交響曲の演奏がパリ音楽界に引き起こした波紋は、彼の耳にも速やかに届いていた。彼は、学士院の大多数の同僚たちと同じように、器楽は、敬意を払うべき分野ではあるものの、価値の限られた分野でもあると考えていた。また、彼の意見によれば、それは、ハイドンとモーツァルトによってすでに可能性を究め尽くされた、音楽の下位の部門であったから、それだけに、この成り行きは、彼を驚かせたのである。
だが、彼は、同僚たちと同様、それに向き合おうとはしなかった。学士院では、ベルトンが、ドイツの現代音楽全体を、哀れみをもって見下していた。ボイエルデューは、この事態をどう受け止めてよいのかよく分からず、何であれ、自分が生涯を通じ使い続けてきた3つの和音と少しでも異なる和声進行には、ただ子供のような驚きを表明していた。ケルビーニは、その成功が彼をひどく苛立たせ、彼のかけがえなく大切な音楽理論の土台を崩していた作曲家に対し、不機嫌を押し隠し、人前でそれをぶちまけないようにしていた。パエールは、イタリア的な奸智をもって、ベートーヴェンを知っていると称し、多かれ少なかれこの偉人の信用を損ない、自分を有利にするような話を言いふらしていた。カテルは、ベートーヴェンの音楽を避け、ただ自分の庭と薔薇の木のみに興味をもって過ごしていた。最後に、クロイツェルは、ベルトン同様、ライン川の向こう側からもたらされるすべてのものに対し、不遜な軽蔑を抱いていた。このような中、ル・シュウールもまた、これらの先生方の例に倣い、音楽家一般の間に熱心な賞賛の声が広がるのを見ても、また、とりわけ、弟子の私から熱烈な賞賛意見を聞かされても、沈黙を守り、音楽院の演奏会に行くことを、注意深く避けていたのである。もし行けば、ベートーヴェンについての自分の意見を決め、それを明らかにしなければならなくなるし、ベートーヴェンの音楽が引き起こす途方もない興奮に、自ら立ち会うことにもなるからである。そして、それこそが、ル・シュウールが暗黙裡に避けようとしていたことだった。だが、私は、彼にしつこくせがみ続けた。自分たちの芸術分野で、これほど重要なこと(このような新しいスタイルがこのように途方もない規模で登場するという)が起きているからには、それについて知り、自ら判断を下すことが彼の義務であると、力説したのである。彼はとうとう折れ、ある日、ハ短調の交響曲[第5番(『運命』)のこと]の演奏が予定されている音楽院ホールに連れ出されることに同意した。彼は、誰にも妨げられることなく虚心に聴くことを望み、会場内では私の同席を求めず、1階のボックス席の奥で面識のない人々にまぎれて独りで座った。演奏が終わると、私は、ル・シュウールがいかなる経験をし、この尋常ならざる作品を彼がどう思ったかを知ろうと、1階に降りた。
彼は、顔を上気させて廊下を大股で歩いていた。「先生、どうでしたか?」
「ふう、いま外に出ようとしていたところだ。新鮮な空気が吸いたくてね。信じられない!素晴らしい!あまりに驚き、混乱し、圧倒されてしまったので、ボックスを出て帽子を着けようとしたら、自分の頭がどこにあるか、分からなかったよ。今日は独りにしてほしい。明日会おう。・・・」
私は大喜びした。翌日、私は、彼を急ぎ訪ねた。話題はすぐに前日我々2人の心を深く動かした傑作のことになった。彼は、私が披瀝する熱のこもった賛辞にややぎこちなく同意しながら、しばらく私に話し続けさせた。だが、相手が、私と前日話した人ともはや同じ人ではなく、この話題を苦痛に感じていることは、すぐに分かった。それでも私はこの話題に固執し、ベートーヴェンの交響曲がいかに深く彼の心を動かしたかを認める答えを、彼から引き出した。だが、彼は、そのとき、奇妙な微笑を浮かべながら首を振り、こう言ったのである。「それでも、あのような音楽は、書かれてはならんのだよ。」
「ご心配なく、先生。」私は応えた。「めったに書けはしませんから。」
不幸な人間の性(さが)よ!・・・気の毒な先生!・・・彼のこの言葉と同趣旨の発言は、同じような状況で、非常に多くの人がしているが、その背後にあるのは、頑迷、悔恨、未知のものへの恐れ、羨望、暗黙裡の無能力の自認にほかならない。なぜなら、その作品の力を感じ、美しさを認めざるを得なかったにもかかわらず、「あのような音楽は書かれてはならない」と言うことは、自分は決してそのようなことはしないが、それはただ、したいと望んでもできないことが分かっているからだと認めるのと、同じことだからである。
ハイドンは、同じベートーヴェンについて、ただ「偉大なピアニスト」とだけ呼び続けたが、そうすることで、彼はベートーヴェンについて早くも同じことを言ったのである。
グレトリも、モーツァルトについて、似たようなばかげた警句をものした。彼は、モーツァルトはオーケストラのピットに彫像を置き、舞台上には台座を置いたと書いたのである。
ヘンデルは、自分の料理人の方がグルックよりもよほど音楽家だと言った。
ロッシーニは、ウェーバーの音楽を聞くと疝痛が起きると言った。
ただ、ヘンデルとロッシーニの場合、この2人のグルックとウェーバーに対する嫌悪は、羨望によるものではないと思われる。思うに、それはむしろ、ヘンデル、ロッシーニのような胃袋の人には、グルック、ウェーバーのような情感の人は理解できなかったということに起因しているのである。しかし、フランス楽派の人々と大半のイタリア楽派の音楽家の間に、スポンティーニが非常に長期にわたって引き起こした激しく執拗な反発は、私が今しがた語った屈折した感情、ラ・フォンテーヌが、「狐と葡萄」の寓話で、見事に公然と非難した、あの惨めで愚かな感情の所産であるに違いない。
ル・シュウールが明白な事実と自分自身が感じていることを頑固に認めようとしなかったことで、私は、彼が私に教え込もうとしている理論の空疎さを認識するようになった。そして、そのときから急に、私は、古い街道を離れ、丘や谷を越え、森や野を横切って、自分の道を進むようになった。ただ、私は、できるだけそのことを隠すようにしていた。そのため、ル・シュウールは、ずっと後になって、それまで彼に見せないようにしていた私の幾つかの新しい作品を聴くまで、私の「異教信仰」に気付かなかったのである。
パリ音楽院演奏協会とアブネックについては、この後、この有能だが、欠点もある、むら気な指揮者と私との関係を語る際、再度触れることにしよう。(了)

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