『回想録』 / Memoirs / Chapter 02

目次
凡例:緑字は訳注

第2章 父のこと、私の文芸教育のこと、旅への憧れのこと、ウェルギリウスのこと、最初の詩的衝撃のこと

父、ルイ・ベルリオーズは、医師だった。彼の業績を評価することは、私の任ではない。ただ、彼が、我々の小さな町のみならず、近隣の町でも、人々に大いに信頼されていたということだけを述べておこう。彼はいつも研鑽を積んでいたが、それは、医術のような困難で危険な技芸の実践は、一人のまっとうな人間の良心に関わる問題であり、また、同胞の命がただ一人の人間の注意の如何にかかり得るからには、力の及ぶ限り技量の向上に努める必要があると信じていたからであった。彼は、生計の手段としてではなく、貧者や農民の庇護者として、最大限公正無私に自己の職務を遂行し、医師の職業に誉れをもたらした。1810年にモンペリエの医学会が催した、治療法に関するある新しい重要な問題についての懸賞論文募集で、彼の論文が受賞した。その本がパリで出版され(原注)、何人もの著名な医学者が引用元を一切示さずにその内容を借用したことも、付け加えておこう。父は、いとも無邪気にそのことに驚いていたが、「構わないではないか、真理が広まるのなら!」と言うのみであった。彼が衰弱のため診療を行わなくなってから、もう久しくなる。彼はいま、読書と思索の日を過ごしている。
彼は、生来の自由な精神の持ち主だ。つまり、いかなる社会的、政治的、宗教的な偏見も持たない人だということである。にもかかわらず、彼は母に対し、彼女が私の救済に絶対に必要だと考えていたキリスト教の信仰から私を遠ざけようとしたりしないことを、非常に明確に約束していた。そのため、私は覚えているが、一度ならず、私に教理問答書を暗唱させることまでしたほどである。これは、彼の誠実さ、真面目さ、哲学上の中立性の表われであって、私は、自分の息子には、ここまでのことはできないことを告白しなければならない。父はもう長く不治の胃病を患っており、そのために幾度となく死にかけている。彼はいま、ほとんど何も食べていない。日常的な阿片の服用によって命を保っているが、その服用量は、日ごとに増えるばかりである。何年か前、激しい痛みに意気阻喪し、一度に32粒もの阿片を呑んだことがあると、父はあるとき私に話した。「正直にいうが、それは治癒のためではなかった。」と彼は言った。だが、この恐るべき大量服用は、望みどおりに彼の命を奪うかわりに、たちどころに痛みを吹き飛ばし、彼の健康を一時的に回復させたのだった。
父は、私が10歳のとき、ラテン語を習わせるため、ラ・コートの小神学校に入学させた。しかし、その後間もなく、自らの手で私を教育する決意を固め、私を退学させた。
気の毒な父。なんという辛抱強さで、なんと綿密で周到な気遣いをもって、彼は私に、国語、ラテン語、文学、歴史、地理、後に述べるとおり、さらには音楽までを、教えてくれたことか!
これだけのことを、このように成し遂げるには、どれほどの愛情を息子に感じていなくてはならなかったことだろう!そして、そんなことができる父親は、どんなにか稀だろう!しかし、だからといって、私は、こうした家庭教育に、公的な学校教育に劣らぬ利点があるとは、いくつかの点から、考えることができない。このように育てられ、家族、使用人、それに限られた幼馴染の友達としか交わらずに過ごした子どもたちは、荒々しい実社会との厳しい交渉に早い時期に慣れることができない。世間や実人生といったものが、彼らには絵空事にとどまってしまうのだ。その意味で、私は、自分は25歳になるまで、間違いなく、無知で不器用な子どものままだったと思う。
父は、私にごくわずかな課題しか与えなかったが、古典学習への真の嗜好を、私に植え付けることはできなかった。特に、ホラティウスやウェルギリウスの詩句を、たとえ数行でも、毎日暗記しなければならないことが、私には耐え難かった。美しい詩も、覚えるのはたいへん苦痛で、私には、脳の拷問に等しかった。私の思考は、示された道筋から離れたくてたまらなくなり、あちこちへ逃げていくのだった。こうして私は、世界全図を前に長い時間を過ごし、南洋やインド群島の島、岬、海峡などの入り組んだ構成を熱心に調べては、そうした遠方にある陸地の形成、植生、住人、気候などを思い、そこを訪れてみたい気持ちでいっぱいになるのだった。それは、旅と冒険への、私の情熱の目覚めだった。
父は、その点について、私のことを「彼はサンドウィッチ諸島、モルッカ諸島、フィリピン諸島の島の名前は皆知っているし、トレス海峡、ティモール島、ジャワ島、ボルネオ島のこともよく知っているが、フランスのことは、県が幾つかあるのかすら知らない。」と言ったが、実際、そのとおりなのであった。遠い国への関心、特に、南半球の国々に対する興味は、父の蔵書にあった古今の航海記のすべてを、むさぼり読んだことでかき立てられたものだった。もし、港のある町に生まれていたら、私はいずれ、両親の同意の有無にかかわらず、船乗りになろうとして、大型船に乗り、出奔していたことだろう。私の息子は、ごく早い時期から、同じ志向をみせていた。彼は、いま、政府船舶に乗務している。彼は、まだ海を見たこともないうちから、自らの意志で海軍を仕事に選んだ。彼が職責を立派に成し遂げることを、私は願っている。
ラ・フォンテーヌとウェルギリウスをしばらく反芻するうちに、詩の崇高な美しさに対する感情が、海への憧れを一時忘れさせるほどになった。この二人の詩人のうち、ローマの詩人[ウェルギリウスのこと]の発見は、フランスの寓話作者[ラ・フォンテーヌのこと]のそれよりも、ずっと早く訪れた。一般に、ラ・フォンテーヌの作品の、平明さのなかに潜む深遠さや、稀有で卓越した飾り気のなさに隠れた文体への深い理解は、子どもには、感じ取れないものである。これに対し、ウェルギリウスは、私が直感しはじめていた、叙事詩への情熱に語りかけて、私の心を最初に捉え、生まれつつあった私のイマジネーションに火をつけた。父の前で『アエネーイス』第4巻を解釈していて、何度胸がいっぱいになり、声色が変わり、言葉が途切れてしまったことか!ある日のことである。私は、この巻の冒頭の次の詩句を口頭で訳していたときから、すでに心を揺さぶられてしまっていた。

”At regina gravi jamdudum saucia cura“
[「女王ディドはもうすでに、恋の不安に悩んでいたが」]

それでも、物語が急展開する箇所までは、どうにかこうにか、進んできていた。だが、いよいよ、ディドが、葬儀の積み薪(まき)に登り、エネアスからの贈り物やこの不実な恋人のものだった武具に囲まれて、ああ!慣れ親しんだあの寝台の上に、怒りにたぎる血を流しつつ絶命する場面になって、死に行く女王の絶望の言葉や、「三たび肘つき身を起こし、三たびその場に倒れ伏す」といった詩句を訳し、彼女の傷の様子を描写し、彼女を心の奥底まで揺さぶった死に至る恋、妹、乳母、取り乱す侍女たちの悲鳴、神々までもが哀れを催し、女王の長びく死苦を終わらせるため、イリスを遣わしたことなどを語らねばならなくなったときには、私は、唇が震え、口に出す言葉もほとんど意味をなさなくなってしまった。そして最後に、次の詩句に至ったのである。

” Quaesivit coelo lucem ingemuitque reperta “
[「光を求めて天仰ぎ、それを認めて苦悶した」]

私は、女王の崇高な姿のイメージに圧倒されて神経性の震えに襲われ、それ以上進めなくなって、黙り込んでしまった。
父がこのとき示してくれた気遣いの有り難さは、言葉で言い表せない(そういうことは、このとき以外にも、何度かあった)。彼は、私が取り乱しているのを見てとると、何も気づかなかったふりをしながら、突然立ち上がって本を閉じ、「よし、今日はここまでとしよう。私は疲れた!」と言った。私は走って部屋を出た。そして、誰にも見られないところで、ウェルギリウスの世界の悲しみに身を委ねたのだった。
原注/『慢性病、瀉血及び鍼術について』パリ、クルユブワ社

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