手紙セレクション / Selected Letters / 1825年7月24日

凡例:緑字は訳注

ラ・コート発、1825年7月24日
ナンシー・ベルリオーズから兄エクトル・ベルリオーズ宛

親愛なエクトル兄さん、私は、兄さんと同じように有頂天な気持になることや、兄さんのほめ歌の先唱の役を務めることは到底できなかったけれど、ただ、それが兄さんに大きな喜びをもたらしたという理由で、兄さんが収めた成功[『荘厳ミサ曲』初演のこと]と、兄さんがそのことで少しの間感じた幸福や、さらに言えば、それよりももっと長持ちする勝利の陶酔に、無関心でいられなかったことは確かです。私は、それで十分、見栄や慢心を紛れ込ませることなく、嬉しい気持ちになれます。愛しい兄さん、その上、お父さん、お母さんも喜んでいると書いて、兄さんの喜びをさらに大きくしてあげたいところだけれど、友情から取り繕いをしても、すぐに本当のことが分かるでしょうし、このことで幻滅を味わうのはかえってよくないと思うので、はっきり書きますが、お父さんは、このことで人からお祝いを言われるのが我慢ならないのです。・・・(了)

訳注/エクトルの4回目の帰省(1825年)
ケアンズ(1部9章)によれば、この帰省に関しては、ベルリオーズがパリに出た翌年以降の全4回の毎年の帰省のうちでも、資料が特に少なく、残っているのは、(『回想録』10章を別にすれば、)エクトルの帰着翌日に書かれた妹ナンシーの手紙(1825年8月17日付け友人エリーズ・ジュリエ宛「昨日、兄が帰って来た。会えて嬉しい気持ちは、すぐに台無しになり、とてもつらい気持ちと混ざり合ってしまった。喜びというより、痛みを感じる。兄はもちろん相変わらずだ。というより、いっそう無分別になっている。父も兄に対する立場を変えていないので、2人を隔てる壁が出来ている。」と語っている)と、ベルリオーズ医師がつけていた家計帳(Livre de Raison)の、「11月7日、エクトル、パリへ発つ。550フラン与える。」との記載のみだという。とはいえ、これらの記事からだけでも、到着時の父子の意見の相違がどうあれ、結局、この帰省も、医師が譲歩する形で終わったことが看て取れる。
なお、エクトルは、この頃から家族からの独立を強め、帰省の促しにも容易に応じなくなる。その背景としては、『荘厳ミサ曲』の演奏により、自己の作品の演奏効果を実地に確認できたことで、作曲家として立つ自信を深めたことが挙げられよう。また、仕送りへの依存を脱し、生計(及びミサ曲上演のためにした借財の返済)の資を自ら稼ぐため、種々の仕事(音楽のレッスン、楽譜の校正、後には劇場のコーラスのアルバイト)に従事するようになる一方、オペラの上演を志し、そのための活動(台本作者探し、台本の題材や内容についての台本家との打ち合わせ、台本への曲付け、序曲等の作曲、上演に向けた劇場への働きかけ等)に忙殺されたため、故郷に帰る時間の余裕が失われたことも、挙げられるであろう。

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