凡例:緑字は訳注
ラ・コート・サンタンドレ発、1824年7月(推定)
ジャン・フランソワ・ル・シュウール宛
先生
久しく前から、お手紙を差し上げたくてたまらず、苦しんでいましたが、色々な考えから、敢えて書かずにいました。それらの考えは、今では、どれも馬鹿げたものに思えます。僕は、いくつも手紙を差し上げては、先生にご迷惑になるのではないかと思っていたのです。それに、僕が先生にしきりと連絡したがることが、天賦の才と学識とで同国人を驚嘆させ、祖国に誉れをもたらすような、傑出した人々のひとりと文通することについての、若者にありがちな虚栄心のせいだと、先生の目には映ってしまうのではないかということも、気になっていました。けれども、と僕は考えました。僕が手紙を差し上げたくてたまらないその方は、もし僕の手紙の内容が、その優れた方が光輝を放っている、その芸術[音楽のこと]についてのものであったなら、迷惑にお感じになることも、より少ないのではないかと。そしてまた、この偉大な音楽家は、とても親切に、僕を受講生の1人とすることを承知してくださったのだから、もし、ある指導者の並外れた寛大さと親切、それに、その方の教え子たちの感謝の気持ちと(敢えて申し上げますが)子の親に対するような敬愛の念とが、弟子たちをして、師を「父」の尊称で呼ばしめるのであれば、僕もまた、彼の子の一人なのだということも。
家族からは、期待していたとおりに迎えられました。つまり、非常に好意的に、ということです。母から、彼女と僕の双方を悲しませるだけの、不幸で無益な叱責を受けることも、まったくありませんでした。とはいえ、父からは、念のため、母の前では音楽の話は決してしないようにと、釘を刺されました。他方、父とは、非常にしばしば、音楽の話をしました。先生が僕に教えてくださった、古代の音楽についてのご著作にお書きになっている、興味深い発見のことも、父に話しました。ただ、古代の人々が和声についての知識をもっていたということについて、父を納得させることはできませんでした。彼は、ルソーや他の著述家たちによって権威づけられた、反対の見解を信じ込んでいたのです。けれども、僕が、問題のくだり(大プリニウスだったと思いますが)、つまり、人の声に対する伴奏方法を詳しく説明し、オーケストラが、人の声と異なるリズムを奏することで、いかに効果的に感情を表現することができるかを説いた部分を、ラテン語で引用して説明したところ、彼は非常に驚き、そのような説明には、反論のしようがないと認めました。「ただし」、と彼は僕に言いました。「それを信じるのは、その本を手にしてからにしよう。」
こちらに着いてからは、まだ、何もできていません。最初は、自分の時間を思いどおりに使えませんでした。誰もが互いをよく知っている、とても小さな町のなかで、訪問を受けたり、訪問したりといったことで、はじめの数週間は、ほとんどすべて費やされてしまいました。それから、前にお話しした、ミサ曲に取りかかろうとしたのですが、『クレド』と『キリエ』を読んでも、凍り付いたように、何の感興も湧きませんでした。こんな精神状態では、まともな作品が作れないので、この作業はやめにして、7、8ヶ月前にお見せしたオラトリオ、『紅海を渡る( Le Passage de la mer Rouge )』[散逸]の改訂に取りかかりました。いまになると、ひどく出来の悪い箇所が目に付きます。パリに戻ったら、この作品を、サン・ロック教会で演奏してもらいたいと思っています。8月上旬までには、上演できると思います。
またお会いできることを楽しみにしています。父も、僕が先生にたいそうご親切にしていただいたことについて、感謝の気持ちをお伝えして欲しいと申しております。僕自身も、もとよりそのことを心から感謝しています。
忠実な僕(しもべ)にして弟子、
エクトル・ベルリオーズ
奥様とお嬢様方に、どうぞよろしくお伝えください。(了)[書簡全集26]
訳注/エクトルの3回目の帰省(1824年)
この年の帰省は、パリでエクトルがミサ曲作曲の委嘱を受けたことを知り、懸念を強めたベルリオーズ医師が、急遽、呼び出したものであろうと、ケアンズは分析している(1部8章)。ル・シュウール宛の上記の手紙とこれに先立つ友人のフェラン、ロシェール宛の手紙にみられる両親の態度についてのエクトルの言葉や、友人たちへの手紙の快活な調子は、今回の呼び出しが友好的な雰囲気の中で行われたことを示している。家庭内の懸案だったはずのエクトルの進路の問題は、彼が生家に暫く滞在した後、ヴィクトル叔父(医師の弟。グルノーブルの裁判所の司法官[王国法院検事正又は次席検事 ~ Avocat général à la cour royale de Grenoble]だった。)に連れられてグルノーブルに行き、同地の叔父夫妻の家に滞在した際に、叔父夫妻から、はじめて切り出されたようである。つまり、さりげなくエクトルをパリから呼び戻し、弟夫婦(彼らもエクトルが音楽家のキャリアを選ぶことには反対だった)の影響力の助けを借りて、息子の感化・説得を試みるというのが、今回の医師の作戦だったとみられる。(回想録10章に語られている、「天使のように美しい」叔母の、ラシーヌに関する発言は、このときのものと考えられる。また、上記の手紙で、エクトルが「『クレド』と『キリエ』を読んでも、凍り付いたように、何の感興も湧かなかった」と語っているのも、職業の問題を巡り叔父夫妻と議論したことの影響ではないかと思われる。)。
続く手紙にみられるとおり、伏在していた家族との意見の対立は、この後、エクトルがグルノーブル滞在を終え、ラ・コートに戻ったところで、俄かに表面化する。