凡例:緑字は訳注
パリ発、1828年5月29日
ベルリオーズ医師宛
大切なお父さん、
演奏会の結果の報告が遅くなったので、心配されているかもしれません。大成功を収めることができたことを、急ぎ報告します。もっと早く報告しなかったのは、このことを報じた新聞や雑誌が出るのを待っていたからです。僕に関して意見を表明したものは、まだ2つだけで、他の紙誌は、通常一週間後でないと演奏会は扱わないので、それらをお送りするのは、来週にしようと思います。
2回の総稽古で、並外れた成功を収めることができたものですから、本番については、ほとんど何の心配もありませんでした。奏者の人たちは、僕の音楽に、非常に驚いたようです。あまり大きな喝采を、彼らから受けたものですから、仮に本番の演奏会が開かれなかったとしても、これらのリハーサルだけで、十分な名声を音楽界で得ることができたと思います。僕は、たぶんヨーロッパで見出し得る最良のオーケストラを、手にしていました。残念ながら、コーラスは、それよりずっと弱体だったので、演奏会では、声楽パートは、質、量ともに、器楽に完全に圧倒されてしまいました。ともあれ、僕は、およそ考え得る最高の、期待をはるかに上回る成功を、収めることができたのです。幾人かの人々が、わずか2週間前に同じ会場で演奏された、ベートーヴェンの交響曲の印象が、僕に不利に働くのではないかと、心配してくれました。にもかかわらず、僕の最初の序曲[『ウェイヴァリー(Waverley)』]は、何度も喝采を受けましたし、第1部の最後のコーラス[『荘厳ミサ曲』の『(キリストの)復活(と再臨)』]も、奏者たちですら自制を失うほどの効果を上げました。聴衆の前では、賞賛も不賛成も、一切表に出さないのが作法だというのに、オーケストラ、コーラス、ソロ歌手の人たちが一斉に立ち上がり、舞台から湧き起った彼らの歓声が、観客席からの歓声に重なったのです。そのときの僕の気持ちを、言葉でお伝えするのは困難です。
これらに較べると、僕の序曲『秘密裁判官(Francs-Juges)』は、初めての聴き手には理解しにくいところがあるので、他の作品には3回も喝采を受けたものがあったのですが、喝采は1回だけでした。この作品は、初回のリハーサルのとき、その風変わりな形式(フォルム)と、並外れた進行(アリュール)とで、オーケストラを、一種、茫然自失の態(てい)にさせてしまいました。導入部を演奏している最中に、すっかり驚いてしまった1人のヴァイオリン奏者が、演奏をやめ、こう叫んだのです。「ああ!ああ!虹(arc-en-ciel[天の弓の意も])がヴァイオリンを奏でる!風(les vents[管楽器の意も])がパイプオルガンを弾き、時が拍(はく)を刻む!」昔の悲劇作品からの、この引用が合図になって、この導入部は、まだ序曲の「アレグロ」に到達しないうちに、雨、霰(あられ)の喝采で迎えられました。このような熱中を引き起こした理由は、次のとおりです。僕は、秘密裁判官たちの恐ろしい権力と、彼らの暗い熱狂を描くため、並外れた獰猛(どうもう)さを表わす、ある旋律を、オクターブで重ねた全ての金管楽器で演奏させることを、思い付いたのです。作曲家は、普通、これらの楽器は、塊(かたまり)になった音による表現を補強する場合にしか使わないものなのですが、トロンボーン[複数]のパートに、オーケストラの他のパートが下方で震えている間に、特徴を帯びた旋律を、彼らだけで奏させることで、奏者たちをあれほど驚愕させた、怪物じみた、斬新な効果を生み出すことできた、という訳です。
一般の聴衆は、彼らが受けた印象の奇抜さを、プロの人たちのようにすぐには認識できなかったのです。この作品もそうでしたが、僕は、他のいくつかの作品の演奏からも、作曲家は、聴き手を新しい表現形式に一挙に従わせることはできないのだと知りました。普通には用いられていないやり方で終わる合唱曲の演奏では、終わってから少し経って、音楽が間違いなく終わったことが分かってから、ようやく拍手が始まったのです。僕は、どの作曲家も(ウェーバーとベートーヴェンは別です)自分の作品の終わりに置いている、決まり切ったエンディングは、感染症のようなものだとみなして、概して、避けています。もう終わるから、拍手の準備をしてくれ、という意味の、一種のまやかしですが、僕から見れば、どの音楽も似たり寄ったりにしてしまう、こうした陳腐なフレーズほど、哀れむべきものはありません。僕の演奏会には、音楽界で最も優れていると言われている人たちが、聴きに来ていました。エロール、オベール、ル・シュウール、レイハ、ヌリ、デリヴィ、カタラーニ夫人(先週パリに立ち寄ったところでした)、学士院会員の人たち、オデオン座の監督、オペラ座の監督といった人たちから拍手喝采され、僕は、大いに面目を施(ほどこ)しました。ただ、残念ながら、なすべきだった広告をする時間がなかったこと、さらには、ピクニックの季節に入っていたこともあって、会場の入りは3分の2に留まり、経費の全部を売上で賄うことは、できませんでした。先日お父さんが送ってくれたお金を使っても、まだ足りなかった200フランは、シャルルが貸してくれました。こうした演奏会の企画・実行には、途轍(とてつ)もない労力が必要なので、この一か月間、レッスンがまったくできず、当然それは、収入の欠落を招きましたが、僕は、できる限り節約をして、埋め合わせるつもりです。
さようなら、大切なお父さん。4、5日のうちにまた手紙を書き、まだ僕のことを何も報じていない新聞の記事は、そのときに送ります。
H.ベルリオーズ(了)