『回想録』 / Memoirs / Chapter 19

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第19章 効果を上げなかった演奏会のこと、指揮のできない指揮者のこと、歌わない合唱団のこと

頼みにしていたオーケストラ奏者たちは協力を確約してくれたし、コーラスの雇い上げ、パート譜の作成も済んだ。演奏会場は「allo burbero direttore[イタリア語。不愛想な学長の意。」からもぎ取ったから、後は、独唱歌手と指揮者を見つけるばかりとなった。私は、オーケストラの指揮を自ら行う自信はなかったが、オデオン座の指揮者のブロックが、指揮を引き受けてくれた。デュプレは、まだほとんど無名で、ショロンの学校を出たばかりだったが、『秘密裁判官』のアリアを歌うことを承諾してくれた。アレクシス・デュポンは、体調を崩していたものの、『オルフェウスの死』の庇護者役を、再び引き受けてくれた(彼は、ローマ賞選抜の際、この曲を学士院の審査員たちの前で歌うべく、すでに試奏していた)。『秘密裁判官』の3重唱のソプラノとバスについては、声も才能もないオペラ座の二流の歌手たち[coryphées(古代ギリシア劇の合唱隊長)の暫定意訳。]で間に合わせるほかなかった。
総稽古は、こうした無報酬の練習が皆そうであるとおりになった。開始の際には、多くの奏者が来ておらず、それよりもさらに多くの奏者が、終わる前にいなくなってしまったのである。それでも、2つの序曲、アリア、カンタータ[『オルフェウスの死』]の練習は、ほぼうまくいった。『秘密裁判官』の序曲は、オーケストラの奏者たちの暖かい拍手喝采を受けた。『オルフェウスの死』[La mort d’Orphée berlioz]のフィナーレは、それよりもさらに良い効果を上げた。私はこの作品で、試験の課題として求められてはいなかったが、詩の言葉に触発されたことにより、バッカナルの後、木管楽器に、オルフェウスの愛の賛歌の主題を回想させた。残りのオーケストラは、それを、オルフェウスの蒼ざめた首を運ぶヘブルス川の水音のような、かすかな音で伴奏する。その間、消えゆく小さな声が、川の堤にこだまされながら、長い間を置いて、「エウリュディケ、エウリュディケ、可哀そうなエウリュディケ」という悲しげな叫びを発するのである。
私は、ウェルギリウスの『農耕詩』の次の見事な詩行を念頭に置いていた。

大理石のような頸からもがれた彼の頭が、
父なるヘブルス川に運ばれ、渦の中を転がり流れゆくそのときですら、
冷たくなった舌が、なおエウリュディケを呼んでいた、
「可哀そうなエウリディケ!」と。
息を引き取りながら、彼はまた呼んだ、
「エウリュディケ!」と。
川に沿って、堤の木霊が繰り返した、
「エウリュディケ!」と。
[原文ラテン語。仏フラマリオン社版『回想録』(1991年)
所掲のE.サン・ドニによる仏訳を参考に訳出。]

 この奇妙な悲しみにあふれた音の絵画は、その詩的な意図が概して文学にさほど通じていない大多数の聴衆に伝わらなかったのはやむを得ないことであったが、オーケストラの全員を身震いさせ、曲の終わりには、嵐のような歓呼を彼らから引き出した。私はこのカンタータのスコアを廃棄してしまったことを悔やんでいる。この結末の部分の仕上がりからも、この作品は、残すべきであった。だが、この作品の他の部分の演奏は、オーケストラが賞賛に値する活気をもって演奏した『バッカナル』(原注1)を除き、それほどうまくいかなかった。デュポンは、声が荒れてしまい、高音を出すのに非常に苦労していた。そのため、彼は、その晩、翌日は自分をあてにしないで欲しいと私に告げたほどだった。
こうして私は、プログラムに次のように記載する満足感を奪われてしまい、たいへん悔しい思いをした。「声楽とオーケストラのためのシェーナ、『オルフェウスの死』。本作品は、学士院の芸術アカデミーによって演奏不能と判定されたが、1828年5月*日、演奏されるものである。」もちろん、ケルビーニは、私がこの作品をプログラムから除外せざるをえなかった理由を、実際のとおりには受け取らず、オーケストラが仕事を成し遂げられなかったせいだと考えたのである。
この不幸なカンタータのリハーサルをしている間に、日頃グランド・オペラを指揮していない指揮者が、レシタティフ[語りに近い調子で歌われる科白。叙唱。]のスピードの不規則な変化に、いかに手も足も出なくなるかを目の当たりにした。ブロックがまさにそうだった。彼は、オデオン座で、地の科白[歌われるのではなく、話される科白]が付いたオペラのみを演奏していた。『オルフェウス』の最初のアリアの後、レシタティフにオーケストラの伴奏のフレーズがちりばめられるようになると、ブロックは、その部分のあるオーケストラの入りのところで、決まってしくじるのである。リハーサルを聴きに来ていた鬘(かつら)をつけたある老齢の音楽愛好家が、その様子をみて叫んだ。「イタリアの古いカンタータが一番だね。あれなら指揮者に恥をかかせることもあるまいて。指揮なぞせんでも演奏できるからね。」
「そうですね。」私は応じた。「放っておいてもぐるぐる回って脱穀機を動かす年取ったロバのような音楽ですからね!」
このようにして、私は友人を作り始めていた。
いずれにせよ、演奏会は、カンタータ『オルフェウスの死』を、合唱団員たちもオーケストラもすでに知っている、私の『荘厳ミサ曲』の『レスルレクシト(復活[と再臨])」に差し替えた上で、実施された。二つの序曲と『レスルレクシト』は、聴衆の反応も概して上々で、喝采を受けた。デュプレが歌ったアリア(眠りへの祈り)も、当時の彼の小さく甘い声が生かされ、同様に好評であった。しかし、3重唱とコーラスは、歌唱もひどく、しかも、コーラスなしでの演奏となった。というのも、合唱団が、最初の入りを逃してしまい、その後、曲の最後まで、用心深く沈黙を貫いたからである。『ギリシア革命』は、大規模なコーラスを必要とするスタイルで書かれた作品であったが、聴衆の喝采は得られなかった。
この作品は、その後演奏されることはなく、結局、廃棄した。
それでも、結局のところ、この演奏会は、私にとってたいへん有益なものとなった。それは、まず第1に、聴衆と職業音楽家の人々に私の名を知ってもらう助けになったからであり、そのことは、ケルビーニはそれと反対の意見を述べたけれども、やはり、必要になってきていることだった。第2に、作曲家が自己の作品を演奏しようとする際に直面することになる数々の障害を、身をもって経験することができたからである。この経験から、私は、それらの障害を完全に乗り越えるためには、どれほどの努力がさらに必要であるかを認識することができた。また、付け加えるまでもないことだが、演奏会の売上は、照明、広告、救貧税、それに見事に沈黙を貫いた、値がつけられない[ほど高価な]我がコーラスの費用を払うのがやっとだった。
いくつかの新聞が、私の演奏会を絶賛した。フェティス(彼はその後・・・)も、あるサロンで自ら、私の登場は音楽界における注目すべき出来事だとして、私を大いに持ち上げる発言をしてくれた。
だが、こうした評判は、スミッソン嬢の数々の大成功が彼女にもたらしていたに違いない陶酔のさ中、彼女の注意を引くに足るものであっただろうか?・・・ああ!残念ながら、私は後に知ったのであるが、彼女は輝かしい仕事に没頭していて、私の演奏会のことも、私の苦闘と成功のことも、そして私本人のことも、一言すら耳にすることはなかったのである。・・・

原注1/学士院のピアニストがしくじり続けた、まさにその楽曲。(了)

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